最終話 葉桜の君に

 教師は春が一番忙しい。通常業務に加え、入試に採点、卒業式に新クラス編成、入学式に始業式など、それらにともなう膨大な事務作業。冗談抜きで目がまわる日々で、担任クラスの生徒たちを送り出した余韻や感傷にひたるひまもない。


 この年、春川桜子はるかわさくらこは大学に進学するために地元を離れた。しかし葉太ようたはウォーキングをつづけている。もうすっかり習慣になっていて、歩かないといまいち調子が出ないのだ。


 春の桜は、一日一日ちがう表情を見せてくれる。


 かたく閉じた冬芽から、ぷくりとつぼみがふくらんで、ぽつぽつと花がひらいていく。やがて満開となり、吹雪のように乱れ散る。


 休憩ポイントの公園でほんの十分。日々移り変わる桜の木を見ながら、心を遠くにほうって、ぼんやりくつろぐ。その時間が、葉太にとって一日の活力になっている。


 淡く色づく薄紅の花のなかに見えはじめる、緑色と濃い紅色。すこしずつ逆転していく三つの色。


 葉桜が好きだといっていたさき

 桜の木に抱きついていた桜子。


 あざやかな緑のなか、はかなく残った薄紅の花はどこか恥ずかしそうに、はらひらと風に揺れる。


 毎年、葉桜の季節になると思い出していたのはかつての恋人。

 今年から、思い出す顔がひとつ増えた。



 ❀



 ――夏山なつやまくん、最初はすっごいびっくりしてたんです。それでやっぱり、そのあと『気にしない』っていわれて、先生から聞いたのとおんなじ反応だったから、思わず笑っちゃいました。


 桜子から葉太がそんな報告を受けたのは、咲とのことを話してから半月ほど、新緑の季節もそろそろおわろうかというころだった。早朝の公園。自動販売機しかなかったので、ケーキでもお団子でもなく、ジュースをおごった。話すのには勇気がいっただろう。それでも話しあって、伝えあって、ふたりはその絆を切ることなく育てている。なぐさめる必要はなくなっても、がんばったご褒美だ。葉太のささやかな気持ちだった。


 その後――夏休みが明けたころからだったろうか。


 校内で桜子を見ても、咲と似ていると感じることがすくなくなっていった。同時に、公園で会う桜子との差異もあまり感じなくなった。バリアをはらなくてもいいくらいに、心が安定してきたということだったのかもしれない。やはり、恋人のおかげだろうか。公園ではノロケ話を聞かされることが増えていた。


 そうして、文化祭に定期考査、修学旅行に進路指導――目まぐるしく日々はすぎ、ギリギリの生徒もいたが、葉太のクラスはどうにか全員そろって三年生に進級した。二年から三年はクラス替えもなかったので、担任の葉太もそのまま持ちあがった。


 三年生になっても進路がきまらない一部の生徒たちに手を焼くなか、桜子は二年生の夏休みまえには進路をきめていた。心理学をしっかり勉強したいらしい。興味は以前からあったのだという。


 ――この公園で、先生にいろいろ話聞いてもらえて、すごく楽になったし、自分のなかの整理もできました。彼ともたくさん話して、それであらためて、実感したんです。人に理解してもらえることが、どれほど自分の支えになるか。だから、先生のおかげです。


 将来は、スクールカウンセラーや、施設にいる子どもたちの心のケアができるような仕事につきたいのだという。


 早朝から夏全開だった太陽にも負けない、力強い桜子の笑顔に葉太はうっかり泣きそうになってしまった。教職について以来、もしかしたらあれほど『教師になってよかった』と思ったのは、はじめてだったかもしれない。


 それから約一年半。


 もとから勤勉で、目標をきめれば努力も惜しまない生徒である。難関大学に桜子が見事一発合格をはたしたのは、当然といってもいい結果だった。



 ❀



 夜、ひとり暮らしをしているアパートに帰宅すると、東京の出版社で編集者をしている妹から、かなり厚みのある封筒が届いていた。


 読書家だった父の部屋の壁はすべて本棚につぶされていて、右を見ても左を見ても本がぎっしり。そんな環境に育った葉太と妹は、幼いころから本が好きだった。なかでも、葉太は図鑑や辞書など『言葉』そのものに興味を持った。加えて中学生のとき、とてもおもしろい授業をする国語教師に出会ったことから自然とその道にすすんでいた。

 一方、小説や童話など『物語』に興味を持った妹は編集者になった。学生時代、自分でも小説を書こうとしたことがあったらしいが『わたしは生み出す側の人間じゃないとわかった』と、なぜかふんぞり返っていた。


 そんな妹が、営業部から念願の文芸編集部に異動になってたしか二年目だったか。葉太以上に多忙な毎日を送っている妹である。わざわざなにを送ってきたのだろう。気になって、着がえもせずに封を切った。


 そこには、一冊の本がはいっていた。とり出して息をのむ。


 花びらの白と桜しべの紅色、そして若葉の緑が渾然一体となった、ぼやけたグラデーション。ハードカバーの表紙に描かれた葉桜のイラスト。


 心臓が止まるかと思った。呼吸はたぶん十秒ほど止まった。


『きのうの私、明日のあなた、葉桜の君に』葉桜 咲


 タイトルと作者名を凝視する。いくら見ても変化はない。


「どんだけ葉桜が好きなんだ……」


 思わずこぼれたひとりごとに自分で笑ってしまう。


 そっと、うしろから本をひらいて著者プロフィールを確認すると『葉桜 咲』は、五年もまえに作家デビューしていることがわかった。

 日々の忙しさにかまけて、プライベートではもう何年も小説にふれていなかった自分に気づく。作品数自体まだすくないようだが、紹介されている既刊作を見るかぎり、教師として目にしたタイトルもなさそうだった。

 ちいさなプロフィール枠のなかには出身地などが簡潔にまとめられている。そして、締めくくりの一文に葉太は作者の正体を確信した。


『ライフワークとして、児童養護施設を出た若者たちの支援活動に取り組んでいる』


 そうだ。彼女も読書が好きだった。

 彼女は、咲は、生み出す側になったのか。


 スーツのポケットからスマートフォンをとり出して、妹の電話番号を表示させる。


 呼び出し音が四回で途切れた。


『お兄ちゃん、ひさしぶりー。ちゃんと届いた?』

「届いたけど、これはいったい」

『ちょうどよかった。今、咲さんと取材旅行にきてて、あ、戻ってきた』

「え」


 ――咲さーん。兄です。


「お、おい……」


 ――え、いや、え、いきなり? 心の準備が。

 ――そんなのあとでいいです。

 ――ええぇ。

 ――大丈夫です。兄はとってくうようなことしません。ていうかできません。妹のわたしが保証します。顔はアレですけど中身はヘタレですから!

 ――あ、それは知ってる。


 最近のスマートフォンは離れた声もよくひろう。まる聞こえである。ずいぶんないわれようだが、おかげですこし緊張がとけた。


 よくわからないが、ともかく元恋人が作家になっていて、妹が担当編集者で、どうやらある程度の事情を知っている――ということだろうか。


 でもとか、だってとか、まだしばらくごちゃごちゃ揉めていたが、やがて静かになった。


 そして――


『ヨウ、ちゃん……?』


 懐かしい、けれど、変わらない。耳に吹きこまれた、ふっくらと落ちついた声に心臓がひとつ、大きく揺れた。


 知らないのなら、知りあえばいい。桜子にいった自分の言葉が脳内を走り抜ける。


 今からでも、知りあうことができるだろうか。


「咲――」



     (了)



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葉桜の君に 野森ちえこ @nono_chie

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