第4話 おたがいさま

 走り梅雨にもまだすこし早いだろうに、強く弱く、毎日毎日、灰色の空から水滴が落ちてくる。せっかくの大型連休も全滅だった。もっとも授業計画を立てたりプリントを作成したり、仕事はいくらでもあるので、ゴールデンウィークもなにも葉太ようたにはあまり関係ないのだが、気分的にはやはり残念だった。そしてそれ以上に葉太の気持ちをざわつかせていたのが春川桜子はるかわさくらこである。


 なにしろ、彼女が春川夫婦の娘となったいきさつを聞いた日の夜から一週間、ずっと雨なのだ。ゴールデンウィークが明けてもウォーキングは連休中である。

 おかげでずっと頭と胸がもやもやしている。葉太になにができるのか。そもそも桜子は葉太に答えを求めているのか。ただ『聞いてもらいたかっただけ』なのだとしたら、このままにしておいたほうがいいのかもしれないとも思う。


 校内で見る桜子は、相変わらずさきにそっくりだった。


 じつの親がいないという、自分ではどうすることもできない欠落につきまとう偏見。ただでさえ思春期には自意識がふくらむものだ。他者から向けられる、優越感をふくんだ『かわいそう』という感情に敏感になるのも当然だろう。

 現在事情を知っている人間がいるかどうかは問題ではない。そう『見られたことがある』という経験が、心を神経質にしてしまうのだ。

 当時の咲と現在の桜子。いつでも臨戦態勢――といってはすこし語弊があるかもしれないが、心がまえとか、人に対するスタンスとか、心理的なバリアのはりかたが、たぶんふたりはとてもよく似ているのだ。


 しかしあの日、木に抱きついていた桜子はおそらく完全に素だった。その場に居あわせた葉太に対してとっさにつくろえないほど、心が無防備に脱力していたのだろう。だから、校内の彼女とはまるでちがって見えたのだ。


 担任なのだから、その気になればふたりで話すチャンスはつくれる。だがそれではだめなのだ。話すのなら、校内ではなくあの公園で。教師と生徒としてではなく、ひとりの人間として話したほうがいい。



 ❀



 さらに二日雨がつづき、ようやく晴れた朝。


 洗われすぎてしっとりふやけた朝の空気を味わいながら到着した、ひさしぶりの公園。もし今日会えなければ、葉太から先日の話題を出すのはやめようと思っていた。しかし、彼女はそこにいた。


 はじめて会ったときとおなじように、桜の木に抱きついている。だがあの日、薄紅の花のなかにポツポツと存在していただけの新しい葉が、今はみずみずしく生い茂っている。


 特に足音をしのばせることもなく近づいて、葉太は桜子の反対側から幹に手をあてた。ほぼ同時に、ほっそり白い手がびくっとひっこむ。ようやく葉太の気配に気がついたらしい。


「先生」


 案外なめらかな暗灰褐色の幹は直径五、六十センチくらいだろうか。間近に見るとなかなかの迫力である。


「彼には話したんですか?」


 葉太はほとんど無意識にそうたずねていた。おずおずとそばにきた桜子は「いいえ」と、ゆるくかぶりを振りながら、迷ってますとちいさくつけ加えた。


「今日はすこし、ぼくの話を聞いてもらえますか」


 不思議なものだ。こうして幹に手をふれているだけで生命いのちを感じる。だからというわけではないだろうが、自然と言葉が出てくる。


「大学一年生のとき、はじめて彼女ができたんです。二歳下の高校生で、葉桜がとても好きな女の子でした」


 出会ったばかりのころ、アルバイト先である、コンビニの駐車場に咲いていた葉桜を見ながら話してくれた。

 花と、めしべとおしべ、そして若葉が同居している葉桜は、まるで今と過去と未来が一緒にいるみたいだと。その姿がとても好きなのだと。そう話す、きらきらと透きとおった笑顔がすごく印象的だった。

 いったいそこにどんな気持ちがこめられていたのか、その真意はわからない。じつの親を『いないほうがいい』というほどの過去も、彼女は自分の一部として受けとめていたのだろうか。


「彼女は里子でした」


 葉太は自分たちの出会いと別れの一部始終を桜子に話して聞かせた。


 自分の無知。認識のズレ。咲は葉太の『気にしない』という言葉に失望し、葉太は咲の一方的な拒絶に腹を立て、ふたりともそこであきらめてしまった。理解しよう、理解してもらおうという努力をやめてしまった。どちらも歩み寄ることができなかった。

 彼女はコンビニのアルバイトもやめ、それっきりになった。


「自分と異なる価値観を認めるのは勇気がいります。正反対のものだったり、自分からかけはなれているほど、自分を否定されているような気がしてしまいますから」


 でも、そうではないのだ。人を認めることは自分を否定することではない。


「人の価値観を認めることは、自分の世界を広げることなのだと、ぼくはそう思っています」

「世界を、広げる」

「はい。だから、本来おたがいさまなんですよ」


 もうすこし早く気がつけていたら――と思わなくはないけれど、咲のことがあったからこそ気がつけたのだろうとも思う。


夏山なつやまくんでしたっけ。彼が春川さんが育ってきた世界を知らないように、春川さんも夏山くんが育ってきた世界を知らない。知らないから遠く感じる。それなら、知りあえばいいんです」

「そんな簡単に」

「いかないかもしれません」


 葉太があっさり肯定したからか、桜子は虚をつかれたように一瞬固まって、それからむすっと唇をとがらせた。


「多かれすくなかれ、人はみんな偏見を持っています。夏山くんも無神経な言葉であなたを傷つけるようなことをいうかもしれません。でもそこで、やっぱりわかってもらえないと切り捨ててしまわずに、彼が『知らないだけ』なのかもしれないと、ほんのすこしでも立ち止まることができたらどうでしょう」

「どうって……」

「彼の言葉に傷ついたなら傷ついたといえばいいんです。ショックだったらショックだったといえばいい。言葉にしなくても伝わるというのは幻想です。生い立ちを話す話さないはともかく、理解しあいたいなら、いいことも悪いことも、そのときそのとき、自分が感じたことを言葉にして伝えたほうがいい」


 葉太の目から見た桜子は、人づきあいにとても慎重だ。そして、いつもどこか冷静にまわりを観察している。そんな彼女が好きになった相手なら、きっと彼女の言葉を聞こうとするはずだ。


「もしかしたら、彼のほうもあなたの言葉に傷ついたり、遠くに感じていたりするかもしれない。おたがいに伝えあわなければ、なにもわかりませんよ」

「先生は、彼にほんとうのことを話したほうがいいと思いますか」


 きっと彼女は話したいのだ。それは最初から感じていた。


「ぼくにはどちらともいえません。春川さんがきめることです」

「ズルくないですかそれ」

「かもしれません。ぼくは春川さんの話でしか夏山くんを知りませんし、彼にどれほどの器量があるのかもわかりませんから。でも……そうですね。春川さんが好きになった人です。信じてもいいのではないかとは思ってますよ」

「もし、もしも、話してダメになったら、なぐさめてくれますか」


 話したいけれど怖い。怖いけれど話したい。彼のことが好きだからこそ、出自を黙っていることで、自分の根幹を偽っているような気持ちになるのかもしれない。彼女は、誰かに背中を押してもらいたかったのだ。


「ケーキおごってあげます」

「……ケーキより、お団子がいいです」

「わかりました」

「先生」

「はい」

「わたし、先生の生徒になれてよかったです」



     (つづく)


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