シュレーディンガーは箱の中

蝕 カヲル

私の名前は……

 ふと気がつくとにいた。とても暗いこの場所はなんなのだろうか。そして私に何が起きているのか。全く分からない。ここはどこなのだろう。体を弄るとなぜか全裸であった。そこでふと考える。

「私は何者だ?」

 記憶が全くない。どの時代に生まれたのか。両親はどういう人物なのか。何を良しとし何を悪しとしていたのか。一切合切の記憶がまるでない。只ひとつだけ、知っている事は

「私の名前は……そうだ、シュレーディンガーだ」

 なぜ名前だけ覚えているのか、逆に不気味に感じる。状況が状況だけに何者かに捕縛され記憶を奪われこの場所に拉致されたのではないかと考え身が縮こまる。だが、そのまま立っているだけでは事態は好転しない。幸い遥か先に光が見える。そこまでたどり着ければここから脱出できるかもしれない。ひとまずそう考え、まとわり付く言いようのない恐怖から目を逸らす事にした。


 歩いていて気づいたのだが地面が何というかフカフカしているというか柔らかい。絨毯でも敷かれているのだろうか?こんな場所にびっしりと絨毯が敷かれているとはなかなか考えられない事だが、歩く事に支障はきたさないどころか歩きやすい位なので、この事について考えるのをやめる事にした。それにしてもこの場所は一体どういう場所なのだろうか。寒くも暑くもない。匂いも特に。只々暗く、只々床がフカフカで、只々広い。そう、そこが問題なのである。いくら歩いても光に近づいている気がしないのだ。これが精神的に堪えるのである。只々歩くだけ。しかも全裸で。私が一体何をしたというのだろうか。記憶はないが何か恨まれる事をしたのだろうか。だとしたら心から謝罪しよう。言われれば足も舐めてやろう。だからどうかこんな場所から出してほしい。声を張り上げ謝罪という名の怒号を発しても返ってくるものは何もなし。嫌になる。やがて黙ってまた歩き出す事にした。


 どれくらい歩いたか分からないが、それは唐突だった。

「にゃ〜お」

 気がつくと足元から猫の鳴き声が聞こえる。あまりの唐突ぶりに体も頭も完全に停止する。一間置き、鳴き声のする足元を見る為しゃがむ。するとこんな暗闇の中で余計に見にくい黒猫がちょこんと座りこちらを愛嬌よく見つめていた。逆に不気味である。可愛いのだが、それ以上に意味が分からない。いつからいたのだ?どこから現れたのだ?疑問と警戒心しか浮かばない。危険だと判断しその場を立ち去る事にした。変わらず光に向かって歩き出す。だが、黒猫は寂しそうに鳴きながら付いてくるのだ。時には足に体を擦り付けじゃれるように。それでも無視して歩いていたのだが、だんだん可哀想になってくる。そもそも考えてみればお互い同じような境遇だろうに。この黒猫も何が起きているのか分かっておらず、只々怯えているのかも知れない。そう考え出すと足は少しずつスピードを落とし、遂には立ち止まる。そして、ひとつため息をついて「しょうがないな」と独りごち、しゃがんで黒猫に触れる。待ってましたとばかりに黒猫はゴロゴロと音を鳴らしながらじゃれついてくる。可愛いものだ。柔らかい毛並みの頭を撫で、喉を掻き、腹をワシャワシャすると敵意のないキックを仕返してくる。そうやってひとしきり猫と戯れていた。絶望のどん底にあった私の心は少し癒やされた。だが、いつまでもそうしてはいられない。この黒猫もちゃんとついてきているようだし、ふたりで……もとい、ひとりと一匹でここを脱出しなければ。そう決心し立ち上がり歩みを始めた。その時だった。前を歩いていた黒猫がこちらを瞬間、とんでもないスピードで足元を通り過ぎ黒猫を捉え、引き摺り去っていく触手のようなモノが、ほんの一瞬見えた。いや、見えて。そしてすぐに耳を覆いたくなるような猫の悲鳴と肉と骨が潰れるような異音が聞こえた。息ができない。震えが止まらない。心臓がもう少しで止まってしまうかのようにぎゅっと縮まってしまったように感じる。一瞬の無音のあと風切り音と共に足元にドチャリとが飛んできた。考えなくても分かる。いや考えるな。見ない方がいい。絶対に見ないほうが……だが、目線がどうしてもそちらに吸い付いていく。見ちゃダメだ見ちゃダメだ……だが見てしまった。そして理解してしまった。そこには先ほどまで可愛く鳴き、戯れていたあの黒猫が見るも無残な姿となって転がっている。悲しみよりも恐怖が優っていた。なぜなら先ほど見てしまった触手が私のすぐ後ろまで迫り、恐怖が匂い立つほど圧迫してくるのである。そして触手自体も目の端をぬらぬらとのたうち、こちらを見るように誘ってくるのだ。先程の黒猫の様子からもこれはなのだと直感する。この場所のルールなのだろう。そういえばここで気がついてから私は一度たりとも振り返ったりはしていなかった。心臓を握られる恐怖に囚われながら、震える体に鞭を打ち、足を踏み出す。そうだ。私はここから脱出しなければならないのだ。あの黒猫の無念を晴らさなくては。


 そうして恐怖に震え触手の誘惑に耐えながら歩いていた時のことだった。

「にゃ〜お」

 気がつくと足元にがいた。頭が真っ白になる。恐る恐るしゃがみ確認し、その事実に慄く。先程無残に殺された黒猫そのものなのだ。人懐っこく可愛いあの黒猫だ。毛並みが柔らかいあの黒猫なのだ。直感的に分かってしまう。似ているとかではなくなのである。意味が分からなかった。思わず尻餅をつくほどに。が、戦慄はまだ終わらなかった。尻餅をし両手を床に置いてようやくその違和感に気づいたのだ。絨毯ではなかったのだ。匂いも気にならなかったのは、ここがずっとだったからだ。なんと床は、黒猫の死体で埋め尽くされていた。全て同じあの黒猫であるのは確かだ。唐突にこの状況に身をおいた事と無意識化の絶体的な恐怖により判断力が低下していたのだろう。よくよく足で確認してみれば分かる事だったはずだ。絨毯にしては凹凸が多く柔すぎる。そこまで考え理性の限界がきて、私は嘔吐した。


 あれからどれくらい時間が経っただろうか。光に向かい歩き続けている。その間に何度あの黒猫が殺されているかもう分からない。思考を停止している。只々ここから脱出する事だけを考えていた。だがおかしな事があるのだ。考えたくはないのだが。相当な時間がある経っているはずだ。暗闇で時間が長く感じるとはいえ、それを差し引いても数日は経っていないとおかしい。であるのにも関わらず、空腹はおろか喉の渇きすら感じないのだ。考えたくない。だが考えてしまう。私は、生きているのか?私は私を私だといる。だが、それは空腹も渇きも感じない私が感じているものだ。その認識に意味などあるのだろうか?先程から殺され続けている黒猫は、その生死を私が観測している。だからが確定されている。私の観測によって。問題は観測されている事なのである。では私は?後ろでのたうち回っている触手の怪物か?いや、アレは自動的だ。見たものを只々殺すだけの装置だ。観測者に値しない。では私はどうなのだろう。歩みが止まる。私が生きているのならばそれをする者がいなくてはならない。そのはずだ。猫がまた殺された。私が生きているか死んでいるか分からない状態であるならを考える余地はないはずだ。また猫が殺された。私を観測している者がいるならば私には観測できない者のはずだ。また猫が殺された。観測できるということはこの言葉を読み取っている者がいるという事だ。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。また猫が殺された。


 この私を観測しているのは、お前だな。これを読んでいる貴様を殺してやる。

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