第3話【ゲストリレーションズ】
サンティアラ,スパ・リゾートのエントランスが、いつもの朝より賑々しい気配を醸しだす。
ラウンジの椅子に腰掛けて外を伺う男爵夫人やら、それとなく雑談しながらしきりに入り口へ視線を向ける壮年のお付きの男性やら。その場に集まるひとたちは、本日来場予定のVIPゲストに熱い関心を寄せていた。お歴々は、まもなく到着するゲストのことが気になって仕方がないらしい。
「ゲストの到着時間って、秘密のはずなんだけどなァ……」
それでも地獄耳の貴族様方は、情報が極秘であるほど巧みに吸い上げて様子を伺いにやってくる。僕のような庶民の出からしたら奇妙に思えるほどのネットワークを有し、水面下での情報戦を得意としていた。
「まァ、いつものことか」
短く息を吐き、背筋を伸ばしてロビーを見回る。すると、玄関のあたりにちょっとした人だかりが出来ていた。まさかVIPゲストがもうご到着されてしまったのかと急ぎ様子を伺いに走ってみたものの、駆けつけてみれば、どうやらそういうわけではないようだ。
宿泊客の女の子がひとり、朝の出迎えに出ていた若いゲストリレーションズの男性スタッフになにかを訴えている。
「あれは、ツェリスカ様……?」
彼女はサンティアラに親子で宿泊しているゲストで、つい最近五才の誕生日を迎えたばかりの女の子だった。それで、彼女のためにホテルのレストランで振舞うケーキと、商業区でいま話題の歌劇団のチケットを手配したものだから、とりわけ印象に残っている。対応しかねているスタッフのそばで、母親のスカートにしがみついていた。
スタッフの青年は、苦い表情をして額の汗を拭っている。
どうしたことだろう。状況を聞きに行く前に、軽く息を吸って呼吸を整えた。アプローチからエントランスへと抜けていく朝の風が僕の髪をなびかせる。気分を落ち着かせる所作。それから、外から人だかりのなかへと入っていった。
「いかがなさいましたか」
振り返ったのは、自分と同じくここで働く男性スタッフ。
「ああ、セト。……あ、すみません。副総支配人」
「セトでいいよ。それより、なにがあったの。スハールくん」
同僚の彼は、この場に顔を出した自分を見てぎこちない笑みを浮かべる。普段のこざっぱりとした身のこなしは一体どこに置いてきたのか。
「いえね、こちらのお嬢様が……水たまりが怖いって」
「水たまり?」
ゲストを出迎える玄関にそんなものがあってたまるか。
「今朝、チェックしたときにそんなものはなかったけど……」
「そうそう」
スハールもそれに追従する。実際、一通り見渡してもそれらしいものは見当たらない。
「だから、自分も奥方様もどうしたものかって……」
彼が朝イチから気疲れ気味な声でそう言えば、女の子はこちらを一瞬キッと睨み、しょんぼりとした顔をして視線を落としていた。少女は俯いたままぽつりと呟く。
「でも、サディーが……」
「サディー?」
「サディーが出てきて、こっちにおいでって。それでお外に出たら、水たまりがパシャって……気がついたらサディーもいなくて……」
一瞥すると、ツェリスカ様のスカートの裾に泥が跳ねている。とは言え、母親も彼女の言葉を真剣に取り合ってはいないようで、顔を俯けたまま今にも泣き出しそうにしていた。
——これはよくない。
玄関でゲストを泣かしてはホスピタリティもなにもない。
僕は少女を驚かせないようにそっと腰をおろし、彼女の目線に合わせた。
「ツェリスカ様」
彼女を名前で呼び、そして言う。
「お怪我はありませんでしたか」
それから手をささやかに握り、
「水たまりは僕が退治しておきます。よかったら、水たまりがどこに隠れているか、教えてくださいますか」
尋ねると、彼女は玄関のそばを指さした。
「ありがとうございます。あとは、僕に任せてくださいね」
「サディーも……?」
「ええ。サディーもお任せください」
その“サディー”が何なのかは後で調べておくとして。
ただ、この言葉でそれで少女は少し安心してくれたらしく、母親の言葉に小さくうなずいた。
「奥方様。ツェリスカ様のお洋服はクリーニングしてお返しします。替えのお召し物を後でお部屋にお持ちしましょう」
すると、ご夫人は恭しく頭を下げ、娘の手を引いて館内へと入っていった。
そうだ。ついでにもうひと押し。
「あ、ツェリスカ様——」
親子がラウンジから庭園を見ていたところに歩み寄り、屈んで少女の方に視線を合わせる。笑みを作りながら、透明のグラスを差し出した。
「教えてくださったお礼です。どうぞ、こちらを手にお取りください」
フロントの棚からくすねてきた空のグラス差し出し、少女をソファに腰掛けさせてから手に持たせる。
そして、腰に巻いたベルトの後ろ側に幾つか差す透明な水晶瓶のうち、一本を手に取った。少女の前でその蓋を開ける。オレンジ色の液体が入った水晶。
「どうぞ、お召し上がりください」
手のひらに収まる程度の小さな水晶に、詰めていたのはオレンジジュース。指でつまめる程度の小さな水晶瓶から、彼女が両手いっぱいに持つグラスに鮮やかな橙色のジュースを注ぐ。よく冷えたオレンジジュースが、少女の持つグラスにたっぷりと注がれた。
「リグレス……」
「ええ。ささやかな小瓶のリグレスですが」
僕は、そう答えて笑みをつくってみせる。
彼女の表情が晴れやかになったところで、僕は安心して瓶を後ろ腰に差し戻す。その水晶瓶にはまだ、注ぐ前と変わらない量のオレンジジュースが満ちたままでいた。
「飲み終わったあとは、フロントの者にお渡しください」
そして、ついでにこそっと一言。
「レストランでは、ケーキが待ってますよ」
さっきまでの泣きそうな顔はどこへやら。少女は日の出を見たかのような晴れやかさでそこに佇んでいた。
明らかに小瓶の容量を超えた量のジュースが、平然と口から注がれていく様子はいつ見ても小気味いい。ちょっとしたサプライズにもなるし、僕自身、小さなころにこうしてリグレスから注がれたジュースに驚いて、満ちるように嬉しかった。だから、僕もリグレスの扱い方を習って、それからは習性のように、小瓶のリグレスにジュースを詰めて持ち歩くようになって今に至る。
こうした誰かへの振舞いが、まるで絵本に出てくる魔法使いのようで、それが好きだったんだ。
この光景に、今度はご夫人の方が興味を持ったらしい。
「まァ」と驚きの声をあげながら、
「副総支配人さんは、ずいぶんとお洒落なリグレスをお持ちね」
「恐縮です」
「小瓶でグラスいっぱいのジュースを注げてしまうなんて、おとぎ話に出てくる魔法そのもの……」
ご夫人はそうして懐かしむように言いながら、チップを差し出す。
僕はなんでもない風に頷き、
「もう、魔法は存在しませんよ。お喜び頂けたようでなによりです」
と言ってそそくさと立ち上がり、その場を後にしてエントランスに戻った。
リグレス。それは生きた水晶。
ギアナグラスと呼ばれる特殊な石英で形作られた器は、常識を超えて内包した物質に働きかける。リグレスに垂らした一滴の雫が、溢れる水となって喉の渇きを潤してくれる。見た目からかけ離れたキャパシティを持つそれは、グラス百杯分のオレンジジュースを手のひらより小さなリグレスに詰め込むことだって簡単なこと。風を溜め込めば風を吹かすこともできるし、種火を入れておけば、尽きることない篝火のできあがりだ。
小瓶に込められた無尽蔵の資源。リグレスは今や、僕らの生活を助ける文明の利器として、日常に深く馴染んでいる。
もう間もなくVIPゲストが来る。ご夫人から受け取ったチップは、一旦フロントに預けておこう。チップは一日の終わりに取り纏められ、皆に分配される。スハールに気持ち多めに振り分けられるよう、口添えしておこう。
----
(あとがき)
こんにちは。ななくさつゆりです。
【リグレス】、お読みいただきありがとうございます。
今回、いったんこの5話をもって『序』とし、彼らの物語のはじめの部分まででいったん公開を締め括ろうと思います。
いずれ必ず、セトたちの物語をお届けできると思いますので、どうかそれまでしばしお待ちください。あらためて、感謝申し上げます。
青海のリグレス《序》 ななくさつゆり @Tuyuri_N
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