第2話【日々のしがらみを忘れて】

 サンティアラ,スパ・リゾート。

 女神に育まれし世界ハルミアにおいて、最大の権勢を誇るマハルガリア王国の東と南の間にある海域に位置したギアナティアナ諸島。そこでひときわ広大な平地を有する島のひとつを王家が接収し、海沿いに客室つきの豪勢な別荘を建てた。それを主導していた王族の人間が身罷られ、空白地帯となりかけた島をまるごと改装してホテルに仕立てあげたのが、このサンティアラ。その評判は海を越えて王都にまで響き渡っている。日がな貴族や豪商が訪れ、このホテルに宿泊することは、王都の若者達にとってもはや憧れの域に達していた。


 晴れ渡る朝を迎える。ギアナティアナの青海を一望できるオープンテラスのカフェに入った。風を浴びながら、端正に誂えられた木組みの手すりに肘を置く。そのまま海を眺めていると、背後から同僚の女性マネージャーが声をかけてきた。これから、顧客対応を担うゲストリレーションズを束ねた副総支配人として、朝一番に到着予定のVIPゲストを出迎えに行かなければならない。

 同僚のトキワさんと敷地内を歩く道すがら、習慣的にシャツの木製ボタンを留め、風でしなる黒髪を撫でた。腰のベルトに差していた薄青く透き通った柄が、陽射しを受けて光っている。この場には、ふたりの話し声と足音と、風の鳴る音しかない。静かな朝だった。


 途中、エントランスに差し掛かるあたりで、朝食に向かうゲストと何回かすれ違う。窓越しに朝陽が快く出迎えてくれた。自分とトキワさんとで軽く挨拶をして、通り一遍の会話をし、朝食会場のレストランへと促す。

 すると、ご夫人がひとり歩み寄ってきた。

「ごきげんよう」

「おはようございます。カヤナール伯爵夫人」

 彼女は随行の武官をひとりつけていただけで、悠々と敷地内の庭園を散策してきたところ。それだけ警戒心を解いて楽にできる空間だと感じてくれているらしい。

「おはよう、セトくん。ああ、失礼。そういえば今朝、あの子から聞きましたよ」

「あの子とは……ああ、オーナーですか?」

「そう。セトくんもお偉くなられたとか」

 そう言うご夫人は王国東方の領地を治める貴族の奥方で、家の爵位は伯爵にあたる。その家格……地位は決して低くない。西大陸に戻れば広大な領土を治める身だが、このスパ・リゾートには、そうした身分の貴族も海を越えてやってくる。

「いまや副総支配人さんなんですってね」

 と、常連のご夫人は嬉しそうに言ってくれた。

「ええ。ですが、どうか以前のようにセトとお呼びください」

「ありがとう。まだ十七とたいへんお若いのに重責を担って、ご立派なことです」

 ……恐縮です。顔を少しだけ伏せて頷いた。

「それより、今日は主人を放っておいて、ショッピングに行くのだけれど……」

「でしたら、商業区まで送迎の車を手配しましょう」

 と、反射的に提案する。

「馬車と駆動車と、お選びになれますが——」

「あら、駆動車といえば、それはもしかして『リグレス』の……」

 喜色を浮かべるご夫人を前にして、ゆっくり頷いた。

「ええ、最新式です。馬も要らず、御者はサンティアラの者が務めます」

「リグレス。もうすっかり、今は無き魔法に代わる文明の利器になりましたね——」

 ご夫人は遠くを見るようにして言葉を続ける。

「それでは、朝食の後にでもどなたかに言づけておきます。では、ごきげんよう。セトくん」

「ええ。ごきげんよう」

 日々をしがらみを忘れて、よい一日を。そうして、随行の方と共にレストランへ踏み入れていくのを見送った。

 ……背中越しにトキワさんの視線を感じる。

「ねぇ、セトくん」

「なんです、トキワさん。こっちをじろじろ見て」

 と、振り返りざまに問い返した。

「あなた、まだ役職呼びに慣れないの?」

 そう言う彼女の、後ろで縛り上げた茶褐色の長髪が風に揺れていた。

「まだ日が浅いので。仕方ないでしょ」

 ふいに腰へ手をあて、小さく息を吐く。

「去年の働きはじめの頃みたいに、セトと呼んでもらえた方が幾分か気も楽です」 

 彼女は仕方がないと言いたげに肩を竦めた。

「まだ十七歳だもんね……。たった一年で責任重大なポストに就いちゃって、指示したオーナーも任命した総支配人も、何をお考えやら」

 そんな彼女のすらりと伸びた背中。清潔な佇まい。僕よりも背が高くて、所作もきめ細かく、僕よりずっとホテリエらしい。トキワさんとは、自分がこのサンティアラで奉公をはじめる前……ギアナティアナに訪れたときからの付き合いだった。活発な素の性格と、勤務中の慎しみを使いこなす彼女とこうして話すのは、自分にとってささやかな息抜きでもある。

「僕って、そんなに頼りなく見えます?」

 確認を取る感触で尋ねてみると、彼女はすぐに首を横に振った。

「逆よ逆。セトくんがいつもがんばってるの、知ってるし。それに気配り上手だし、見かけは少年相応なのにすごい体力と腕力があるし。あとセト君は、西大陸のことにも詳しいし……」

「そういうトキワさんは褒め上手ですよね」

「そんなことない。だって、実際に——」

「トキワさん?」

「あなたがいないと、できないこともたくさんあるからね……」

 そう言う彼女の視線は、サンティアラのレストランの向こうにある水平線へと向けられていた。フロントを過ぎてロビーに出たあたりで、トキワさんが自分の肩をポンと叩く。

「じゃあ、VIP対応もしっかりね。アリシュヴァール副総支配人!」

「トキワさんは来てくれないんですか」

 冗談まじりに言うと、彼女はにべもなく「イヤよ」と言い放った。

「いまからリネンが忙しいから。これから回収と洗濯と手配でリネン室は戦場よ」

「そうでしたね」

 彼女はいたずらっけを出して「来る? 歓迎するけど」と言うも、去年の新人時代を思い出して脇腹が痛くなり、眉間に皺を寄せながら丁重に辞退させてもらった。

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