第9話 チャンスは一度だ。
しかしひょんなことからあたしは、とあるものを入手した。
今年初めに一気に市民登録をした「元政治犯」のリスト。一度は入手しようとして、だけどあきらめかけていたものだった。
何と言っても、所詮あたしは専門のハッカーではない。証拠を残さず危ない橋を渡る度胸もなかった。
だけどひょんなことから、危ない橋が目の前に掛けられてしまったのだ。
「悪かったわね~ごめんね~でもわたしの授業、今日は休みだし~」
と、「文章作成法」のヘライ先生は、朝の光が射し込みつつある部屋で、へらへらと笑いながら濃いコーヒーをすすめた。
昨晩、寮住まいをしているヘライ先生は、急にあたしにスペルチェックの「アルバイト」を頼んで来た。何でも教師という立場にも関わらず、様々なペンネームを駆使してこっそり、大々的に活躍している彼女は、この時ちょうど締め切りが重なったらしい。
「でも本当に、速いわ~ 凄いわ~ これからもお願いしてもいい~?」
「……お断りします」
さすがにあたしもそこはぴし、と言った。
「あら~ 残念~ 読むの速いし正確なのに~」
……それは自信があるが。
「帝大からお誘いも来てるし~」
「へ?」
「あら~ 初耳?」
初耳だった。思わず大きくうなづいた。
んー、と彼女は首を傾げると、一度離れた端末の前に座った。と。
あたしは目を見張った。見覚えのある画面。
「んーと…… *、*、*、*、*……」
一つ一つ、アルファベットを読み上げながら、彼女はとある画面の真ん中に打ち込んだ。
「あ、出た」
うふふ、と笑いながら、彼女はずらりと並んだ文書リストを指す。
「こないだ見た、ケルデンさん関係は……」
あたしの目は画面に釘付けになっていた。情報に、ではない。その画面に、だ。
先生が出すその一つ前。そこまでは、あたしも行けたのだ。「パパ」の情報を探した時、医師関係からまず手繰ってみたけど、どうしても出て来なかった。
業を煮やしたある日、もしかしたら、と「今年初めに新規に市民登録された三十代後半の男性のリスト」を出そうと思いたった。
だけどそれは駄目だった。「そのひとはデータバンクにありません」と言われるだけだが「居ない」ことを調べることはできた。
けど「居る」ことは。
ヘライ先生が出した、あの画面。パスワード請求の、あの画面。あれを越えることができたら。
「あら~やっぱりケルデンさんよ。……あっら~スポンサーは、キルデフォーン財団?」
凄い~、とヘライ先生はあたしの腰を三回も叩いた。おかげで正気に戻る。
「き、キルデフォーン財団?」
「やーだー、知らないの?」
「知ってますよ…… 有名じゃないですか」
食品産業に端を発する、中堅どころの財団。
「きっともうじき、お話が来るわよ~」
うふふ、と彼女は笑った。そうですか、とあたしの唇は動く。
内部情報を勝手に見てもいいんですか、といつもだったら突っ込むあたしも、この時には、それどころじゃなかった。
*****。
ヘライ先生の声を何度も何度も、あたしは頭の中で繰り返していた。
*****。
覚えろ、と自分に命令しながら。
*
チャンスは一度だ。
翌日、授業が終わるとすぐあたしは中央図書館へと出向いた。
館内の本の検索端末の前に座る。斜め上には監視カメラ。
落ち着け。こういうカメラは不審な人物の不審な行動を見る程度の画像しか映し出さないと――― 思う。だから態度さえ堂々としていれば大丈夫。
楽観的だとは思った。けど何処でやっても結局その程度のことはつきまとう。だったらやると決めた以上、仕方が無い。
そのままキーを操作。館外文献の検索のふりをする。
その途中で裏技をかける。これは卒業した先輩から教えてもらったものの改良版だ。時間が経てば対策も立てられる。対策を考慮した改良版。それをかけると、役所の情報バンクにつながる。
一応、そこまでは成功している。そこまでは―――
軽犯罪程度にはなるが――― 学生だったら一度は誰でも試すことであり、学校側も黙認していた。
そしてそこから更に、幾つかのトラップをくぐり抜け、先日ヘライ先生が映し出した画面までたどり着く。
パスワードを無言で打ち込む。
―――出た。
あたしはその中から目当てのデータを取り出して、自分の記録カードの中へと入れた。
一応用心のために、大量の情報が入れられるカードをあらかじめ買っておいた。
データ量は実際には大したものではなかったのかもしれない。だけどこの時落とす時間はずいぶんと長く感じられた。
心臓がどくどく言うのが感じられた。手首に浮いた血管が跳ねているのが判るくらいに。
……保存終了。
あたしはカードを手に、そのまま移動した。
今度は首府の繁華街の有料端末の店へ。
あたし達の学校だけじゃなく、中央大学の学生もよくそこを利用している。この日もずいぶんと混み合っていた。そこであたしはデータを全てプリントアウトした。
そしてカード自体のデータを全て消去し、工作ルームに置いてあったハサミで紙吹雪くらいの大きさにまで切り刻んで、ゴミ箱に捨てた。
残されたのは、プリントアウトされた大量の紙。隣にある雑貨屋で可愛らしい袋を買うと、それをくるりと丸めてリボンをかけて突っ込んだ。
上手くいった…… とは思った。だが本当に大丈夫だろうか、という気持ちも残った。
だけどやってしまったことは仕方がない。その時はその時だ。あたしは可愛らしい袋を抱えて、寮へと帰った。
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