第11話「波音」
何事も、鍵となるのはタイミングだ。それを逸すれば、有終の美は飾れない。
これまでの三十年の人生は、総じてタイミングに恵まれないものであった。
通勤電車で奇跡的に座ることができた時に限って、腸から緊急事態宣言を発令されて途中下車を余儀なくされ、再び乗るのはうんざりするほど混雑した車両だったり、コンビニエンスストアで残り一つの唐揚げ弁当をタッチの差で逃し、サンドイッチで妥協したところこれがとてつもなく口に合わないものだったりというケースは、さほど珍しいことではない。
学生時代、付き合って三日の女が見知らぬ男と濃厚接触するさまを目撃し、明らかにこちらが被害者であるにも関わらず彼女から他人のふりをされ、男からは人の女に言い寄るなと拳を見舞われた。かつてのレース会場では、上への
このうだつの上がらない日々が、この先も果てなく続くのだろうか。そう考えると嘆息してしまいそうだが、ぐっと堪えて深呼吸した。
今から踏み出す一歩が、私の人生を左右する。そう思って、前列左端の席から慎重にレジカウンターを観察する。一発勝負だ。後戻りは許されない。
いつの間にか、ドリンクカウンターの若い女性店員はいなくなっていた。左端の返却口の奥に姿を確認できたため、食器洗いやごみの分別などに回ったようだ。
カウンターには、彼女と中年店員の二名のみ。しかし、すでに二名の客が待機している今動き出すのは危険だ。時機を読もうにも、彼らの注文内容によって変動の可能性があり、どちらが先に空くかわからない。長財布を持っていないほうの手が汗ばんできた。
「こちら温めますか?」
中年店員のがさがさした声が耳に入った。
男性客が頷いたところで、私は席を立った。彼女も会計中だが、その手際のよさと丁寧さを私は身体で憶えている。必ず先に終えてくれると信じ、早足で歩いて空になった待機場所に向かった。
電子レンジのチンという音がしたのと私が待機スペイスに到着したのは、ほとんど同時であった。
「お待たせいたしました、どうぞ~」
声のするほうを見ると、彼女が片手をあげていた。
私は、まだ終わってはいなかった。
「アイスコーヒー、お願いします」
今にも泣き出しそうな気持ちをごまかすように、僅かな微笑を含ませて告げた。
「かしこまりました。普通のサイズでよろしいですね?」
マスク越しに、彼女が同量の微笑を浮かべたのがわかった。
「あっ、はい。普通のサイズです」
コンビニエンスストアでは鬱陶しく感じた、マニュアルに基づく問いかけ。私は、でもそれが堪らなく嬉しかった。カタルシスにさえ思えた。「ですね?」の"ね"が心にふれた。
「三百五円になります」
長財布には小銭が多数あったが、私はすぐに千円札を出した。
釣り銭のやり取りが目的だったわけではない。私のような男のために、彼女に無益な待ち時間を与えるのは忍びなかったのだ。いや、それも建前かもしれない。
厨房とパン売り場とを行き来する際の鷹揚で上品な動きとは対照的に、カウンターでの彼女は誰よりも素早く動き、そして誰よりもきめ
「六百九十五円のお返しです。コーヒーはあちらからお出しいたします」
手早く小銭をしまい、彼女の後に続いてドリンクカウンターへと移動する。
「アイスコーヒーお待たせいたしました」
移動してから、十秒も経たないうちに声がした。
彼女だけだった。セルフサービスのストローを、わざわざ隣のサービスステーションから取ってドリンクと一緒に出してくれる店員は。私は、ありがとうございますと言いながら軽くお辞儀をする。
「二杯目、珍しいですね」
そう言った彼女は、微笑んでいた。ただでさえ端麗な顔を、ふわりとゆるめて。マスク越しにもはっきりとわかった。
「あっ、はい。喉、渇いてしまって」
驚く余裕すらなく、私はなんのひねりもない返答をする。
「暑いですもんね~、今日。いつもご利用ありがとうございます」
「あっ、こちらこそご丁寧に……」
「新商品の“宇治抹茶ラテ”とかもおすすめなので、またお越しの際はぜひ」
「はい、飲んでみます」
たび重なる幸福の波音が、耳に浸透する。明日か明後日ぐらいに自分は死ぬのだろうかとふと思った。
席に戻り、私はひとつため息をつく。今日、初めてのため息だった。
波は彼女の左腕のように、ひらひらと穏やかにこだました。(完)
嘆息 サンダルウッド @sandalwood
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