第10話「一番大切なこと」

「……申し訳ございませんが、出勤途中で気分が悪くなってしまいまして、少々熱があるようです。これから通院するのですが、本日はお休みをいただきたく……」

 トイレの個室にうずくまり、私はレース会場の管理者と通話している。


「ありがとうございます。通院が終わり次第、また連絡いたします。直前になって大変申し訳ありません。……はい、失礼します」


 事を終え、ほっと胸をなで下ろした。ホーム画面に映るグラビアアイドルの笑顔につられて、思わず微笑する。

 レースの欠場は初めてではなかったが、久しぶりのことだった。恣意的な欠場となれば、ここ半年ほどはなかった。この店の中で連絡を入れるのは初めてで、出し抜けのスリルによって多量の手汗が生じた。


 数分前の出来事には意表を突かれた。

 私が立ち上がった時、彼女は青の手袋を手早くはずしてゴミ箱へ棄てたのである。

 客として長年通っていれば、その意味は自ずとわかる。使い捨て手袋の破棄は、これからカウンター業務に入るという合図だった。先ほどの中年店員の隣のレジを開放し、彼女はそこに入った。

 レジカウンターは通常一名だが、混雑具合やその日の人員によって二名体制になるケースがある。そういえば私が会計した後も、見慣れない女性店員――新人だろうか――が一時的に会計に加わっていた。九時を回った現在、イートインスペイスは次第に空席が増えてきたものの、客自体は先ほどよりも増えてきて急遽ヘルプに回ったのだろう。


 これまで私が彼女のレジに入れたのは、平均すると月に二度か三度ほど。

 現場リーダー的な立場にいる(と推察される)彼女が会計に入ること自体それほど多くなく、私が訪れたタイミングで偶然重なるというのはなかなかに確率が低い。月によっては、一度もその幸運に直面しないこともある。

 欠場は、小さくはない痛手だ。明日以降のレースの進み具合に支障をきたす可能性もある。

 しかし、どのみちそこにあるのは無気力か絶望感。もともと百パーセントのそれらが百二十パーセントになろうと、たいした問題ではない。それより、今日の幸福感を上げられるだけ上げんとして驀進ばくしんすることのほうがずっと大切だ。


 実りのない生き方かもしれない。くだらないと嘲笑されるかもしれない。もっとほかにすべきことがあるだろうとさとされるかもしれない。

 それでも、今の私にはこれが一番大切であり、これが生きる活力だ。


 膀胱からの指令は受けていなかったが、せっかく来たので本来の用途で個室を使い、水だけで手洗いをしてトイレを出た。

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