第9話「しなやかな腕」

 前列左端は私にとって特等席だ。


 先ほどのように、従業員専用ルームを行き来する際にちょうどすぐ横を通るので、近距離で眼に入れることができる。

 むろん、それだけではない。この席は、奥の厨房を最も観察しやすいポジションだ。店に入ってレジカウンターにもドリンクカウンターにもいなくとも、席について目を凝らすと奥に姿を見つけられるというケースが、少なくともこれまでに七、八十回ほどはあった。その時の喜びは、月曜日を金曜日と錯覚するぐらいにはたいそうなものである。


 彼女が厨房に入って、どのくらい経っただろう。

 スマートフォンで時間を確認することさえ忘れていた。この吸い込まれようはいつも以上だ。ふと後列に目をやると、快便サラリイマンはいなくなっていた。ということは、八時半は過ぎているのだろう。

 

 青の業務用手袋をした両手は、出来立てのパンの入ったコンテナを抱えていた。

 ガムシロップやお冷やなどが並ぶサービスステーション、ドリンクカウンター、レジカウンターの順に横切り、入口のほうへと歩を進める。私はそれを眺めるのが好きなのだ。その細くしなやかな両腕に似つかわしくない大型のコンテナを運ぶさまは、粗雑でもなければ危うくもなく、絶妙と形容するほかない挙動となり、この店全体に活気や誠実をもたらす。

 彼女がパンを陳列している間に、私はやわらかく微笑んだ。今日、初めての笑顔だった。飽きるほどの嘆息を積み重ねるだけの日々の中で、私は彼女を見ている時だけ心からの笑みを浮かべられる。メガネ男子が、持ち重りのしそうなビジネスバッグを抱えて出ていくのが見えた。


 戻ってくる彼女の足取りは軽い。

 空になった大型コンテナを掴む右手に対し、反対側は軽やかだ。歩みに応じて時折ひらひらと左右に揺れる左腕は、彼女の鷹揚おうようさを象徴していた。そのへんの女――たとえばくだんの中年店員など――がやろうものなら気持ちの悪さしか覚えないであろう高難度な挙措を、彼女はいとも簡単にやってのける。

 やわらかく動きながらも、その両眼にはやはり力があった。次の動きや、そのまた次の動きが視野に入っているのだろう。


 彼女が三往復したところで、私は時刻を確認する必要があることを思い出した。後列の客も、いつの間にか半分以下にまで減っている。

 液晶画面には、八時四十五分と表示されていた。パンデミック拡散レースの開始は九時。そろそろ行かねばならない。今日は金曜日ではなく月曜日であると思い出したが、私はもう充分に癒やされていた。明日以降はわからないとしても、ひとまず今日を乗り切ることはできよう。


 席を立った瞬間、予期せぬ光景が飛び込んできた。

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