第8話「豁然の扉」

 事を終えて個室を出ると、すでにメガネ男子の姿はなかった。


 入って左側の洗面所で手を洗い、プッシュ式のハンドソープに圧をかけると、明らかに一回分に満たない少量の泡が手のひらに落ちた。二度、三度と繰り返すも、シュポシュポと間の抜けた音がするのみだ。

 こんな雀の涙ほどのハンドソープで、前代未聞のパンデミックと闘えと言うのだろうか。さっきのメガネ男子は、まさかここまで読んだ上で私に無言のプレッシャーをかけんとして背後に……? いや、そんなはずはない。あんな冴えない若造がこの店の石鹸事情など知っているものか。そんな馬鹿げた想像をめぐらせながら、私はまた嘆息した。家を出てから現在までトータル一時間半ほどしかないというのに、いったい何度嘆息すればよいのだろう。僅かばかりの泡を貧乏たらしく手のひらに伸ばしながら、気を紛らすように時間をかけて手を洗った。


 席に戻り、スマートフォンの電源ボタンを押すと、液晶画面に八時二十二分と表示された。ここからレース会場までは徒歩四、五分なので、あと二十五分ほどは寛げる。入店から数十分の間に数々の障壁に出くわしながらも、私は屈することなく踏みとどまった。

 ここまでの自身の気苦労に拍手を送り、サァ癒やしのバラードにでも耳を預けるかと思い鞄に手を伸ばした。


 音がしたのは、その矢先だった。


 左方通路の突き当たりにある従業員専用ルームの扉の開く音に、自然と首を動かす。


 意外ではなかった。このくらいの時間に見かけることは、過去に幾度かあった。それでも、私はひどく肝をつぶした。これだけ踏んだり蹴ったりされたのちに救世主が現れるなど、思ってもみなかったのである。同じ救世主でも、お手拭きなどとは次元をことにしていた。マスクは力不足だった。ウイルスは遮断できたとしても、彼女という名の美を覆うのは荷が重すぎる。


 ふわふわとした足取りと、それに反して情熱のこもった瞳。嗚呼、これだ。私の理由と目的、月曜日の朝という蛇蝎だかつの如き状況下の癒やし。屋内にいながら薫風くんぷうに吹かれるような感覚。周りの誰にも聞こえないほどのヴォリウムで、美しいと呟いた。


 この広い店内、私には気になるものや不快なものが多すぎる。

 値段のわりに味の今一なパン、接客スキルに欠けた中年店員、トレイ右半分の真ん中に置かれたお手拭き、後列右端の暑苦しいサラリイマン、無意味な厚化粧を施した太った女、融通の利かないメガネ男子、補充されていないハンドソープ。

 彼女をひとたび目にすれば、私の視野は急激に狭まってしまう。先の数多あまたの不快などとるに足らないものだ。


 私を惑わす余計な物たちは薫風に流されて吹き飛び、至福の空間のみが豁然かつぜんと開けてくる。

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