第11話


【第11章~亀裂~】

2019年8月中旬、日射しが強く蒸し暑いある日の夕方、渋谷のスクランブル交差点は多くの人が行き交っていた。


渋谷の街はJR東日本の線路で東西に分かれていて、東側は青山学院大学や国連大学、さらにその先には表参道に繋がっていて、人が無数の蟻のように蠢く都心にしては落ち着きのある風情だ。宮益坂の周辺や南青山にはタワーマンションがあり富裕層が暮らしている。


一方で西側にはスクランブル交差点や109などがあり、平日でも人で埋め尽くされている。真夏の日にはコンクリートの照り返しや人混みで異様な熱気が放たれていて、歩くだけでも滝のように汗が滴り落ちる。


私は湘南新宿ラインを降りて改札口に向かった。


再開発が進む渋谷は至るところで工事が行われていて、無機質な足場が組まれ、重機が働いていた。


私は109を通りすぎて道玄坂の居酒屋に向かった。道玄坂は都内でも有数の繁華街で、学生から仕事帰りのサラリーマンが集まり、日頃の鬱憤を晴らすために馬鹿騒ぎをしている。


道玄坂を5分程、歩いた先にあるビルの5階の居酒屋で、私は大学時代の同じ学科の友人と飲みに行く約束をしていた。


エレベーターを待っていると、後ろから大学生とみられる女性が5人ほどのグループでやってきた。


そのうちの1人が「ねえねえ聞いてよ~この前さ公務員の男性が沢山集まる婚活パーティーに行ってきたの~でさ、公務員っていったらフツーは国家公務員とか最悪の場合でも市町村の地方公務員とかを思い浮かべるじゃん。」と言った。


「たしかに、国家公務員とかに出会えたら顔がキモくても、安定してるから結婚を視野に入れるならアリかな。」と一見、清楚で真面目そうに見える1人が答えた。


そして「でもね、私がマッチングしたのが、消防士だったの~ありえなくない?年収低いし、全然イケメンじゃないし、そんな男とはぶっちゃけ無理だよね。ってか年収低いと顔が良くても無理。」というような会話をしていた。


私は生々しい会話だと思った。仲間内だから思わず本音が出たのだろう。しかし、消防士を馬鹿にするその神経が信じられなかった。自分の命をかけて人を守る立派な仕事だ。そんな立派な仕事をしている人をこんな下品な会話で小馬鹿にする態度が許せなかった。


エレベーターで5階に到着して、スタッフの案内で席まで行くと、友人たちはすでに到着していた。


「ユキオ、相変わらずお前は時間にルーズだな。」とハチクロは言った。


時計を見ると約束の時間から15分ほど遅刻していた。


集まった仲間は大学時代に同じ学科だったハチクロと横山幸子だった。


ハチクロは本名を岡山順といい、YouTuberをやりながら、クリエイターとして活躍していた。YouTubeのアカウントの登録者は15万人を超え、今では名のあるYouTuberとして活躍していた。クリエイターとしての仕事は企業のホームページのデザインを主に手掛けていて、まさに手に職を着けた現代社会の職人だった。


横山幸子はイギリス文学の翻訳をするフリーランスの翻訳家で、学生時代から翻訳書を専門に手掛ける出版社「山下書院」でアルバイトをしていて、外国語の翻訳の経験を積んでいた。父親が外交官だった関係で幼い頃から欧米各地での経験が豊富だったので、英語の他にドイツ語やフランス語が話せる。その経験から翻訳だけでなく、英語での通訳の仕事もこなしている。今はメガバンクの「三和政策銀行」の総合職の彼氏がいて近々、結婚する。



そう、2人は非正規社員である私とは住んでいる世界が違っていたのだ。2人は持ち前のスキルを使い、会社に頼らない生き方で食い繋いで行くことができる人たちなのだ。


その為か、私と2人の間では最近考え方の違いが目立つようになってきた。


私は「ああ、ごめんごめん、家で本を読んでいたら遅れてしまった。」と平謝りした。


ハチクロは「なに、また格差社会か?婚活か?」と言った。


私は「格差社会と婚活で思い出した。そういえば、さっきエレベーター乗る時に嫌な女子大生に会った。婚活で知り合った消防士の男は年収が低いから無理みたいな話をしてて気分が悪かった。」と言った。


幸子は「あら、消防士だって立派な職業なのにね。酷いわ。」とすました微笑を交えながら答えた。彼女は外交官のご令嬢というだけあって気品のある笑い方をするが、一方でエリートにありがちな「下の者」に対する嘲笑も、その笑いの中に微妙に混ざっている。その言葉と本音は裏腹なのだろう。彼女の言葉に薄っぺらさを感じた。


ハチクロは「まあ、婚活なんて、結婚に焦りを感じた人を食い物にするだけの市場だからな。それに踊らされるヤツは頭が悪いよな。そんなことよりユキオは彼女とどうなの?」と言った。


幸子は「え、ユキオ君、彼女がいたの?聞いてなかったわ。どこで知り合ったの?」と大して関心もないのに、さも興味ありげに言った。


お通しが運ばれて来たので、それをつまみながら、私は「まさに婚活パーティーだぜ。」と笑いながら言った。


ハチクロと幸子は微妙な表情を浮かべていた。


私は「しかも、高スペック婚活パーティーってやつ。医者や弁護士、大企業のサラリーマンや年収600万円以上の人しか参加できないパーティーだよ。ほら、俺って非正規社員だけど高井物産で働いてるじゃん。非正規社員ってことを隠したら普通に参加できたわけ。」


「で、非正規社員ってことを隠せば、俺にも彼女できるのか実験したら、できちゃったの。しかも、帝国証券の社員。」と言った。


幸子は「それって、彼女の気持ち考えないの?最低。非正規社員ってことを隠して、嘘をついて付き合ってるってことでしょ。」と言った。


私は「恋愛や結婚は年収や雇用形態と相関関係があるんだよ。これは社会学の世界では知られてることなんだけどね。さっきのエレベーター乗る時にいた女子大生も年収の話してたわけだし。最初から非正規社員ってことを話してしまったら、そもそも付き合えるわけないよね。俺たちは格差社会を生きてるんだよ。」と答えた。


ハチクロは「ユキオは正直、その彼女とどうしたいわけ?」と私に聞いてきた。


最初に頼んだ飲み物が運ばれてきたので、一番、通路側にいた私が2人に配った。


生ビールを飲みながら、私は「このまま実験を進めるつもりだよ。で、最後に自分が非正規社員ってことを言ったらどうなるか知りたい。それで別れることになったら実験成功だ。恋愛や結婚が年収や雇用形態と相関関係があるということが実証される。」と答えた。


幸子は「ユキオ君は何がしたいの?結婚したいの?」と聞いた。


私は「いや、俺は非正規社員だから結婚とか無理でしょ。さっきも言ったよね。恋愛や結婚は年収や雇用形態と相関関係があるんだよ。」


「まあ、強いて言うなら、弱者が弱者のまま認められる社会になってほしいかな。確かに実験ってのは人として酷いと思う。でもね、俺とか、もっと苦しい立場の弱い立場の人たちは恋愛とか結婚したくても相手にすらされないことが多いの。」と答えた。


ハチクロは「まあ、確かにそうだけど、結局は個人の問題だからな。好きになっちゃえば年収や雇用形態なんて関係ないんじゃない?」と言った。


幸子も同調するように「私は年収とか雇用形態に関係なく、好きになった人と付き合いたい。」と言った。


メガバンクの総合職の彼氏と結婚をする幸子がそんなことを言っても説得力は全くなかった。そもそも、年収の高い人と結婚した女性の口から年収で相手を選んだなんて話は聞いたことがない。全員が口を揃えて「蓋を開けたら、年収が高い人だった。たまたま、そうだっただけで、私は中身で選んだ。」と必死になって言い訳がましく言う。しかし、現実には年収が低い人ほど、雇用形態が非正規社員である人ほど未婚率が高いのが現実なのだ。


私は「いや、それはない。結婚は国立大学の入試みたいに2次試験まであるの。1次試験が年収や雇用形態やルックス。で、2次試験が内面とか性格の審査。だから、年収とか雇用形態は前提条件で、それ抜きには内面なんて問題にされないんだよ、残念だけど。」と答えた。


幸子は「でも、年収とか雇用形態の話はユキオ君が本で読んだ知識でしょ?専門家がそう言ってるだけで、それが正しいとは限らないんじゃないの?」と言った。


ハチクロも「そうだよ。それに専門家とかは自分が書いた本が売れるように事実を誇張してるんじゃないの?」と言った。


そして、続けて「ユキオがそんなこと言っても誰も話なんか聞かないよ。」とハチクロは言った。


話にならなかった。2人は自分の実力で自分の道を切り開き、今の地位を得ている成功者だ。彼らから見たら、格差なんて存在しないのだろう。私が非正規社員に甘んじているのは実力がないから自己責任だと内心では思っているのかもしれない。


ハチクロは「大体さ、弱者と強者って明確に分けられるの?格差や階級は物差しである程度は分析できるけど、今や格差や階級なんて存在しないわけだ。だから、弱者なんて存在しないし、貧困なんて日本には今や存在しない。結局は個人の問題なんじゃないの?」と言った。


格差社会の話は立場が違うと、人によって驚くほど違う考え方が出てくる。私は2人との社会的地位以上に心の分断を感じた。


私は、もう、これ以上、話をしても平行線だと感じたので、話題を変えた。


しかし、格差社会の話が凝りを残し、白けた感じでぎこちない会話が続いた。


私は終電が早いので少し早めに席を立ち、お金を2人に渡して店を出た。


夜の渋谷は私のことなど微塵にも思っていないかのように混沌とし、時間だけが流れていた。この中には何人のワーキングプアの人がいるのだろう。一方で、何人の富裕層がいるのだろう。


バブル崩壊以降、格差や相対的貧困が高まったのは事実だ。そして、労働者に占める非正規社員率は年々高まりを見せている。正規と非正規の格差は明らかに存在する。


そして、その格差が次の世代に連鎖する危険性も十分あるはずだ。ハチクロも横山幸子も恵まれた家庭に育っているので、社会的弱者に会ったことがない。


悲しいけど、それが現実なのだ。


やりきれなさを感じながら、私は湘南新宿ラインに乗り、本を読みながら地元へ向かった。


ふと気がつくと、LINEのメッセージが届いていた。開いてみると、関取・J・真雄からだった。

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