第9話

【第9章~非正規社員に彼女できたけど質問ある?~】

私は自分が実力派の俳優だと思った。本当は非正規社員なのに、早川希の前では高スペック男子を演じていた。しかも、それなりに上手く誤魔化せている。


さりげない優しさ、気づかい、余裕…これらに自分が気を使うことができたのは実家暮らしであることからくる経済的ゆとりが多少あることが大きい。


そして、パラサイト・シングルである私はこの経済的ゆとりを格差社会の研究に費やしている。


なぜ、パラサイト・シングルである私が、経済的ゆとりをこのような研究にまわすのか、疑問に思う人もいるかもしれない。


しかし、これだけは言わせていただきたい。パラサイト・シングルとしての生活は持続可能ではないのだ。


今は親元で中流生活をすることが可能だ。しかし、親が高齢になれば、それは不可能になる。つまり、私は中流から下流への「転落予備軍」なのだ。


中流からの「転落」に怯えながら生きているのである。


だから、自分の現状と将来を少しだけ考えてみようと思い、このような研究を始めたのだ。


さて、私は大手証券会社「帝国証券」の一般職として勤務する早川希と、あれから何度か一緒に食事をして関係を深めていった。


次のデートは6月上旬、場所は東京スカイツリーだった。希の誕生日は6月なので、その日に誕生日プレゼントを渡して告白するつもりだ。誕生日プレゼントにはマグカップとハンカチを用意しておいた。


当日、11時30分に待ち合わせをして、予約したレストランへ向かった。向かう途中、空は灰色の雲に覆われていて、今にも雨が降りそうだった。


希はイタリア料理が好きなので、ランチコースを予約しておいたのだ。土曜日の昼間であったが、まだ時間が早いということもあり、店内は空いていた。


他愛のない会話の中で重要なことは、次のデートの約束をすることだと私は考えている。私たちはこの時点では、まだ付き合ってはいなかった。しかし、付き合うか付き合わないかという、ぎりぎりの鍔迫り合いをしている状況だった。


私は史学科で仏教史を研究していたことから、鎌倉に行ってみたいと考えていたので、さりげなく希を誘った。希は再来週の土曜日なら空いていると言ったので、その日に約束をした。


鎌倉ということは、都内からでもそこそこの距離はある。日帰り旅行という感覚だ。それを了承してくれたということは、私との交際も了承してくれる可能性は高いと思った。


希は「今日はちょっと雲ってて雨が降りそうだわ。屋内にして正解だったわね。」と言った。


梅雨の時期というだけあって、この日も湿度は高かった。湿気を多く含んだ空気のせいなのか、希の髪の毛は弱いカールを描いていた。


私は「雨の日には、雨の日の魅力があるんじゃないかな。こんな日に鎌倉の明月院に咲いている紫陽花を見てみたいね。あそこのお寺は、あじさい寺とも言われていて、この時期にはたくさんの紫陽花が咲いているだろうね。きっと綺麗だ。」と言った。


希は「あら素敵ね。小雨が降る中で見る紫陽花はきっと綺麗よ。」と言った。


私たちは、昼食を食べた後にプラネタリウムを見た。現代のプラネタリウムは十数年前のものとは比べ物にならないほど技術が進歩していた。


天井に映し出されたスクリーンには平面の映像ではなく、立体的な映像が映し出されていた。それが時間の経過とともに、星が旋律を奏で、夜空を彩るように仕掛けられている。スクリーン全体がまるで音楽そのもののように感じられて美しかった。


私は「1光年先の星から見える地球は1年前の姿なんだよな。それなら100光年先の星から見える地球は100年前の姿ということになるのか。」と考えていた。


ああ、遠い先の星からは「歴史」が鑑賞できるのだなと私は思った。大学で歴史を研究してきた私にとって、それは文献や遺跡などを史料にして研究する学問だった。


だから、「歴史」は視覚的に見るよりも、抽象的、または具体的に「思考」するものだったのだ。


しかし、天文学の分野では「視覚的」に「歴史」を見ることができるのだ。


そんなことを考えている間にプラネタリウムの上映は終わった。


外に出ると、その日は曇りであったとはいえ、プラネタリウムの中より明るく、光によって一瞬だけ目が繰らんで現実の世界に引き戻された。それはまるで、一瞬にして音楽が鳴りやみ、辺りが虚無感によって満たされる感覚に似ていた。


いや、私がここで虚無感を感じたのは彼女との未来がたとえ男女の仲になっても「限りあるもの」だと分かっていたからかもしれない。限りあるものの中にこそ、私は儚さと美しさを感じることができると考えていたのだが、美しさではなく、虚無感しか感じることができないのは、私が彼女を誤魔化しているという罪悪感のせいなのだろうか。


しかし、希は私と一緒にいる時はいつも幸せそうだった。


その後、水族館に行き海洋生物を観察した。動物や魚類の世界は人間の世界とは比較にならないほど弱肉強食の原理がまかり通っているのに、水族館の生物たちはどこか快楽に満たされているように感じた。それは水族館という自然とは異質の環境が生物をそうさせているのだろう。水槽の中には全ての生物にとって宿命であるはずの弱肉強食の原理はないのである。餌は飼育員が与えてくれるし、外敵はいない。だから、のびのびと生活できるし、生きることに必死になる必要はない。


一方で弱肉強食という生存競争があらゆる生物の宿命であるなら、私は人間世界の生存競争に敗れつつある資本主義社会の弱者だ。人間の労働市場も基本的には弱肉強食の原理で動いている。そして、労働市場にはこの水族館のように飼育員はいない。パラサイトする親はいつか頼れなくなる。そうだとすると、私はいずれ、この水族館にいる海洋生物たちとは違い、虚無感に満ち溢れた廃人と化するのだろうか。


しかし、希は楽しそうだった。まるで、世界には争いが絶えないことを知らない子どものように無邪気にはしゃいでいた。もし、彼女が結婚相手を選ぶ時に男性の地位や収入などという非常に世俗的な価値観で選ぶとしたら、私は今後一切、女性を信用できなくなるだろう。


それほど希は明るく純粋な笑顔の持ち主だった。


水族館を出て私たちは近くのカフェに向かった。希はアイスラテを、私はレモンティーを注文した。


飲み物が到着すると、私は「ちょっと早いんだけど、渡したいものがある。誕生日おめでとう。」と言ってプレゼントを渡した。


希の顔は笑顔で満たされた。


希は「ありがとう。すごく嬉しいわ。まさか、私の誕生日を覚えていてくれたなんて。」と言った。


そして、彼女は「今度の鎌倉はデートとして捉えて良くて?」と聞いてきた。


私は「もちろんだよ。希さんのことが好きです。僕もデートとして捉えていいかな?」と言った。


希は「私もユキオさんのことが好き。デートとして捉えていただいて良くてよ。ねえ、もう『さん』付けして呼ぶのやめない?なんか堅苦しいの私、苦手で」とはにかみながら言った。


それ以来、希は私のことをユッキーと呼ぶようになった。


帰りは小雨が降っていたので、私たちは傘をさしながら、さりげなく手を繋いだ。


まるで、この瞬間が永遠に続くように。

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