最終話

【~最終話~別れ】


肌寒い季節を迎えていた。色づいた木々の葉は枯れ落ち、甘い微熱のような心地よい風は、肌を刺すような冷たい風に変わっていった。その日は、日本列島の南からやってきた低気圧がもたらした雨が朝から降っていた。朝から続いている雨は夜になってもやむ気配がない。私は仕事が終わった後、渋谷の宮益坂付近にあるファミレスに急いで向かっていた。朝、希からLINEが来ていて呼び出されたからだ。



朝、LINEを開くと「今日、仕事が終わった後って空いている?ちょっとお話したいことがあるんだけど。」というメッセージが届いていた。



私はすぐに「今日は早めに終わるから大丈夫だよ。どこに行けばいい?」と返信した。



すると、すぐに「今日は青山で関係先との会議があるから、その後でもいい?渋谷の宮益坂付近にあるファミレスがいいな。」と返ってきた。



私は突然、どうしたのかと思ったが、仕事が終わった後、ひとまず会ってみることにした。



東京メトロ千代田線の表参道駅構内から地上へ出ると多くの車や人が行き交っていた。希が指定したファミレスへ向かおうとしたところ、LINEが来た。



「ファミレスは混んでいたから、Antiqe Cafeで待ってるね。」というメッセージだった。そこで、私は彼女が指定したカフェ「Antiqe Cafe」に向かった。



夜の表参道を走りながら、私はここ最近の希の言動について考えていた。数週間前、横浜のイタリア料理店で希の資格試験の合格を祝っていた時に、彼女は私の服装や持ち物、髪型などの身なりに関する不満を口にしていた。私は非正規社員であるため、金銭的に余裕がないので髪の毛を切る頻度は低く、男性の中では長い方だ。服装や持ち物にもお金はあまり割けないので、鞄などの持ち物はいつも同じような物を持ち歩いている。



食事をしながら何気ない会話の中で希は「髪の毛ってどれくらいの頻度で切ってるの?何か長すぎじゃない?第一印象が決まるんだよ。」とやや不満気に言った。



その時、店のスタッフが「失礼します。こちらお通しになります。」と営業用の作り笑顔で料理をテーブルに並べた。その間、少々気まずい空気が流れた。



「失礼しました。」とスタッフが去るまでの間、私は非常に痛いところを突かれたと思った。



希は「服装も持ち物も靴も、いつも同じようなものばかり身に着けているよね?何かこだわりあるの?」と続けざまに言った。



私は髪の毛を伸ばしているのは金銭的な事情の他にも、襟足の生え方にクセがあり、そのことで過去にいじめられた事があったからだった。この女は人の過去に対する想像力が全くないのだと思った。とは言え、私は非正規社員であることを隠し、高スペック婚活で知り合った希に対して、とてもそれらの事実を話すことは出来なかった。



そこで私は「休みの日に美容院や買い物に出かけるのがめんどう面倒くさいんだよね。」と出不精を装った。そして「試験合格おめでとう。今度、どこに遊びに行こうか?」と当たり障りのない話題に変えた。



希は「ありがとう」と言い、やや不満気な表情を残しながらも、しばらくは何気ない会話が続いた。



だが、そんな当たり障りのない会話は長くは続かなかった。



突然、希は「私はまだ髪の毛や服装の話を忘れたわけではない!」とヒステリック気味に叫んだ。



そして「あなた出かけるのが面倒だって言うけど、外に出かければおいしいものも食べられるんだよ!池袋にすごく上手な美容院があるから、今度一緒に髪の毛を切った後にデートしようよ。」と今度は少し強張った作り笑顔で希は言った。



先ほどの私の発言のどこかに希の気に障るところがあったようだった。



私は「美容院はずっと地元のところに行っているし、髪の毛を切るためにわざわざ都内に行くのも面倒くさいんだよね。」と言った。



希は「ありえないんだけど・・・・・いつも服装や鞄も同じものなんて・・・・・私なんてあなたにもっと好きになってもらいたいからデートの時は髪の毛をちゃんと巻いて、メイクも時間かけて、服も同じものは着てこないようにしてるのに!」と激しい口調で言った。



私は「え!そうだったの?そこまでしてくれるのは、ずごく嬉しいけど、でも無理しなくて全然大丈夫だよ。無理しない程度にね。」と言った。



鞄というものはブランド品にこだわれば値段は青天井だ。私の持っているものは5千円で数年使っている。しかし、希の鞄は30万円もする海外のブランド品だった。服装もその時々の流行をきちんと意識して取り入れていた。



希は「鞄も今度買い替えに行こうよ。一緒に行かない?私の持ってる30万円の鞄と同じくらいの値段とまでは言わないけど、せめて5万か6万円の物は使った方がいいよね。」と言った。



私は開いた口が塞がらなかった。人間に野蛮で醜い「本性」というものを垣間見てしまったような気がしたからだ。美しく着飾った人間ほど、その野蛮で醜い本性が潜んでいるものだ。要するに希は私に対して「あなたは私に釣り合わない」と考え出しているのだろう。



恋愛とは何なのだろうか?



格差社会に関する本の多くには「恋愛」や「結婚」は男性に関して言うと年収や雇用形態に相関関係があると書かれている。これは人間関係や社会構造を扱う社会学の専門家の間では広く知られている。



しかし、一方で一般の人々はこのように考えていないだろうか?



「愛情があればお金は関係ない。結局は中身なのだ。」



私はこのような考え方を「ロマン主義」とカテゴライズしている。愛こそが絶対だと信じ、愛をその行動原理としている。愛の実現と具体化こそがロマン主義者の至上命題なのだ。



私は、愛の重要性を否定はしない。しかし、それが恋愛や結婚で重視されるためには現代社会では「順序」があるのだ。女性が求める年収や雇用形態などのハード面での条件を通過することができた男性のみが、その中身などの人格が問題となる。要するに年収や雇用形態は国立大学の入学試験で例えるならば一次試験に相当するのだ。そして中身などの人格の審査は二次試験に相当する。そのため、年収や雇用形態を重視する婚活女性は「二次試験」は課さない人たちで、中身を重視すると言っているこん婚活女性は「二次試験」を課しますよと言っていることになる。年収や雇用形態を重視する人と、中身を重視する人の根本的な違いはそこなのだ。



よって婚活市場で経済力は非常に大きい。婚活という名の生存競争で経済力は勝者の象徴でもあるわけだ。



そう、恋愛や結婚は人間の生物としていかに遺伝子をのこしていくかという生存競争でもあるのだ。そこでは弱肉強食の原理がまかり通っている。



少々話がそれるが、二・二六事件における理論的な指導者となった北一輝は「国体論及び純正社会主義」の中でも恋愛は生存競争であると述べていたのだ。資本主義社会における経済的な勝者は恋愛という生存競争の中でも圧倒的に有利な立場にあるのだ。北一輝は国家改造運動の中心的人物でもあり、陸軍青年将校に理論上大きな影響を与えたが、二・二六事件の後、軍法会議にかけられ、翌年に銃殺刑となっている。



北の死から80年以上経過した現在でも彼の言ったことは変わっていないように思える。格差社会や階級社会は「経済的封建体制」だ。しかし、北の生きた時代では人々がどの社会階層に所属しているかは見た目である程度判断ができた。しかし、現代社会においては、見た目でその人の所属している社会階層は分かりにくい。だからこそ、高スペック婚活などという商売が成り立つのだろう。



話が少々脇道にそれたが、とにかく希は私をスペックという基準で値踏みしているのだろうということが分かった。



私は「鞄は使えるうちは今持っているものを大事に使うよ。まだ使えるのに買い替えるのはもったいないよね。見た目に気を使うのもいいけど、俺は好きな人と一緒にいることができれば、それで十分なんだよ。」と冷静に言った。



希は「それはそうだけど、ちょっと色々と考えておく。」と悲しそうな口調で言った。



この時は食事が終わった後、そのまま解散した。



六本木の交差点付近、朝から降り続く雨の中で、私は希のこのような言動を思い出しながら走っていた。恐らく、あと数分で別れ話が始まる。最も、希が私を呼び出した理由が別れ話ではなかったとしても、私の方から切り出すつもりだった。格差社会における恋愛や結婚の現実を知りつつも、私はどこかで彼女が私の中身を見てくれていると信じていた。そんな私は愚かなロマン主義者以外の何者でもなかったのだ。希が私の経済力を値踏みしていたことは明らかで、資本主義社会で経済力は勝者の象徴だ。現代社会ではその勝者が誰なのか、少し見ただけでは区別がつきにくくなっている。富裕層でもユニクロを身に着けていたりするからだ。街を行き交う人は皆、スーツやカジュアルファッションに身を包んでいる。それが高級ブランド品なのか、リサイクルショップで購入したものなのかを瞬時に見極めるのは素人には非常に難しい。多少の時間を使い、目で見て「経済的な勝者」を見極めるというのは、その点では非常に現実的だ。私がロマン主義者であるならば希は「経済的な勝者」を見極めようとする現実主義者だった。



希が指定したカフェに到着し、スタッフに案内してもらった。彼女はすでに到着していた。



私は「やあ、しばらくだったね。元気にしていたかい?」と声を掛けた。



希は座っていた席からこちらを見上げると、何か意味あり気な笑顔を見せ「急に呼び出しちゃって、ごめんね。もしかしてファミレスの方まで行っちゃった?」と言った。



私は「いや、全然大丈夫だよ。」と言いながら、リサイクルショップで買ったブランド物のコートを脱いだ。



彼女の表情から、私は察した。非正規社員であることに気づかれたということを。注文した飲み物が来るまでの間、お互い強張った表情で会話をしていたので、会話の節々に気まずい沈黙が流れた。



軽快なメロディーで店内に流れるクラシック音楽がレトロな雰囲気の店内に調和し、暖かなハーモニーを生み出している、しかし、そのメロディーとは異なり、私の気持ちは正直、重かった。この時、私は、自身が所属する社会階層を意図的に隠して希と交際していたことが、彼女の私に対する信頼への「裏切り」になるのではないかという罪悪感が心の中から溢れてきた。



飲み物が到着すると、希は口を開いた。



「すごく言いづらいんだけど、別れたい。」



私は「やはり、そう来たか。」と思ったが、それは口には出さずに「分かった。理由を聞かせてくれないかな?」と言った。



希は「私は、恋人とは一緒に食事をしたり、旅行をしたり、服装や持ち物に流行を取り入れて変化を楽しんでいきたいの。そして思い出を作っていきたい。でも、あなたとはそれができない。何か価値観が違うみたい。髪型とかの身だしなみのこともあるし。」と言った。



ここまで言われて、私はこれ以上は隠し通すことはできないと思い、自分自身の社会階層を彼女に告白する決心をした。



私は「俺、契約社員だからさ、君の言う思いで作りにはお金がかかりすぎる。だから、服装や持ち物になかなかお金は割けない。前、ディズニーランドに行った時に結婚の話をしたよね。俺はその時に今すぐにはできないって言った。それは、もし結婚をして子どもが生まれても育てるお金はなかなか厳しいし、教育費用を負担することができないかもしれない。大学まで通わせることはできないかもしれないし、不自由をさせてしまうかもしない。だから、今はできないった答えたんだよ。」と言った。



その瞬間、希の表情が凍り付いた。



希は「私にとって一番大切なのは家族です。だから将来は子どもも欲しいし、家庭を築いていきたい。私は親から教育をたくさん受けさせてもらったから、自分の子どもにもちゃんと教育を受けさせて大学まで進学させてあげたい。家庭を築いて子どもを育てることは私が一番大切にしている夢だから、そこだけは絶対に譲ることはできない。ちゃんとした家庭を築くことができない人は根本的に無理です。はっきり言うようで申し訳ないけど、これだけは言わせてもらいたい。」と一気に言った。



そして希は「あなたが契約社員だってことは徐々に気づき始めてたけど、直接聞いたのは今日が初めてね。言ってくれなかったのは、私が信用されてなかったからなんだろうけど、何か悲しいね。それに私はデートの時に自分の家族の話をたくさんしたと思うけど、あなたは


自分の家族の話なんて全然しなかったわね。そんなんだと、どこの生まれかも分からないし。」と蔑むような視線を私に投げかけながら言った。



希はデートの時によく家族の話をしていた。楽しそうな家族の団欒や、毎年言っている家族そろっての海外旅行などの思い出話。挙げたらきりがない。彼女は小学校の時から富裕層が集う学校に通っていたと言っていたが、私の辿ってきた人生とは雲泥の差のように思える。



希は「価値観が違うのは生まれが違うからだと思うんだけど、決してあなたのことを嫌いになったわけじゃないわ。」と言った。



「生まれが違う」というのは、私が彼女の出身家庭と比較して「卑しい家庭なのではないか」ということが言いたいのだろう。そこには人を見下すような態度が見て取れた。以前、希は私と食事をしている時に「偏差値が低い学校の出身の人は社内の昇進試験で苦労をしている」と言っていたのを記憶している。私は、デートの場で「偏差値が低い」とい言葉が何気なく出たことに多少の違和感を感じていたが、それは今思うと、彼女の中にある「下の人」に対する優越感から来たものなのだろう。私は内心、沸々と怒りがこみ上げてくるのを必死で抑えた。



しかし、私は重要なことに一つ気づいた。希が経済力のない男性とは結婚できないと言う事は全く理由のないことではないということだ。家庭を築いて、子どもの教育をきちんと受けさせてあげたいから、経済力のある男性にこだわるのだ。私はこの重要な部分を意図的に隠していたのだ。私は怒りがこみ上げてくる一方で、希の家庭を大切にする気持ちも理解できた。家族を大切に思うからこそ、経済力を重要だと考えるのだろう。



私は「将来、理想の家庭を築くことを考えると、非正規社員の男性と付き合って結婚するのは無理ということ?」と希に聞いた。



希は「そうです。」と一言だけ答えた。



私は「分かったよ。俺と出会ってくれてありがとう。さようなら。」と言い、お金を置いて席を立った。



私が席を立ちあがる時に見せた希の表情は怒りや悲しみなどの様々な感情が入り混じった複雑なものだった。


私のこの一連の「実験」は倫理的・道徳的な避難を受けるだろう。しかし、倫理や道徳が前提としている旧来の社会構造は1990年代以降、大きく変動しているのだ。高度経済成長期の社会構造を前提とした人々の思考が現実の社会に追い付いていないだけだ。倫理や道徳というものは、そういう意味では必然的に保守的で革新性に乏しいものとなる。社会構造の変動が収まり、社会が再び安定した時に新たな規範として倫理や道徳は見直されなくてはならないだろう。平成の30年に渡る歴史は社会構造の変動の歴史だった。労働人口に占める非正規社員の割合は上昇して高止まりをし、同時に未婚率も上昇した。新しくやってきた令和の時代は、この社会構造の変動がひと段落して社会は安定するのだろうか?それとも、再び不安定な要因が噴出して、社会が動揺するのだろうか?


2019年冬、私は希と別れた。この時、私を含め多くの人はまだ気づいていなかった。中国・武漢を震源地に謎の病原体が全世界に拡散し、地球規模でパンデミックを引き起こすことに・・・・・この謎の病原体は社会構造の変動をもたらし、人々の繋がりを分断し引き裂いてしまうことになるのだろうか?


しかし、そのことをまだ誰も知らなかった・・・・・



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非正規社員だから彼女にフラれたけど質問ある? 盛山ユキオ @moriyamayukio1868

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