長門有希詩篇・外伝「ソフィア姫と十字軍の伝説」

アグリッパ・ゆう

第1話 永遠の乙女

●塔の上の姫


 いつからここにいるのかも知らない。

 自分がだれなのかも知らない。

 ソフィア姫と皆はわたしを呼ぶ。そしてまた奇蹟の乙女とも。

 でも、どこか遠くに、本当の名前があったような気がする。


 南フランス、オクシタニアの平野に夕陽が落ちる。

 薔薇の都と讃えられるトゥールーズの7つの塔を、薔薇よりもっと濃い色に染めて。

 広場のざわめきが、しだいに静まってくる。

 すると塔の真下から、吟遊詩人の歌声が切れ切れに、竪琴の音に乗って届くのだった。


 ~ソフィア姫、奇蹟の乙女、

 齢を取らない永遠の乙女。

 あなたこそ、エデンの園の、

 聖なる蛇の生まれ変わり。

 知恵の実リンゴを食べるよう、

 無知の牢獄を脱するよう、

 人類の母なるイヴにささやいた、

 まことの神の愛娘、英知の女神ソフィアの転生~


 この歌声でわたしは、現実に引き戻されてしまう。

 自分を称える歌に憂鬱になり、手鏡を取り出してのぞき込む。

 青みがかった銀色の短い髪。夜空に星を散りばめたような黒い瞳。

 15年間、少しも変わらない、白い無表情な人形めいた顔。

 そう、わたしは16歳のとき以来、まったく齢を取っていない。

 そして、16歳以前の記憶がない。


 その年、わたしは、熱病で死にかけていたという。

 そこに、薬草売りのギリシャ女がやってきて、お城の医師も聞いたことのない薬を煎じて飲ませた。

 飲ませるまえに薬草売りは、父なるトゥールーズ伯に、命は助かる代わりにこれまでの記憶は失われるがいいか、と聞いた。

 父も、スペインの王家から輿入れした気位の高い母も、それでもいい、と答えたそうな。

 正妃の腹を痛めた、たった一人の子ゆえに。

 そしてわたしはみるみる回復したが、記憶は永遠に失われた。

 おまけにそれ以上成長することがなくなった。


●魔法の鏡 

 「それで、その薬草売りはどうしたの?」

 乳母に尋ねるたびに、答えは同じだった。

 「行ってしまってもう見つからなかったのですよ、姫さま。未来を映し出すという、その魔法の鏡だけを残して」

魔法の鏡といってもわたしには、未来を映し出してくれたことなどないのだった。

 ある日、わたしは、乳母から聞いたおとぎ話で思いついて、鏡にこう問いかけた。

 「鏡よ、鏡よ、世界でいちばん美しいのはだあれ?」

 すると、鏡の面からわたしの顔が消えて、サアーと星空が流れた。

 無数の星屑を背景に、栗色の長い髪とこぼれ落ちそうな大きな目をした美少女が、浮かんで消えた。

 --世界でいちばん美しいのは、アサヒナのミクル姫

 鏡の面に文字が浮かび、そして頭の中の囁き声となった。

 「今のがミクル姫?アサヒナってどこにあるの。トゥールーズから遠いの?」

 --アサヒナは大きな海をいくつも越えた、ジパングという遠い島国にある。

 「そこに行けばミクル姫に会えるの?」

 --今はまだ会えない。アサヒナのミクル姫がこの世に現れるのは千年の後。

 「千年後まで齢を取らないで生きれば会えるの?」

 すると鏡の面がもとに戻った。こんな幽かな囁きを残して。

 ーー千年後まではあなたは生きられない。転生しなければならない。


 わたしは鏡から目を離すと、すっかり暗くなった北の地平線に目をやった。

 凶兆が迫ってきているのだった。

 強大なフランス王国軍を先頭に、異端者狩りの恐ろしい十字軍の軍勢が迫っている。

 十字軍はもともと、イスラム教徒から、聖地エルサレムを奪還するため編成されたもの。

 それが、先の第4回十字軍の散々な失敗から目をそらすためか、

 ローマ教皇庁とその尖兵のドミニコ会修道会は、矛先をキリスト教国内部の異端の教えに向けた。

 まっさきに槍玉にあげられたのが、トゥールーズの都から北方にひろがる豊かなアルビジョア地方に広まっていた、カタリ派の教えだった。

 吟遊詩人の歌にある、まことの神の愛娘のソフィアが、蛇に転生してエデンの園に忍び込み、イヴに知恵の実を食べて真理にめざめるよう促したというのは、カタリ派の教義そのもの。

 そして輪廻転生の教えもまた。

 わたしは、アルビジョア地方のカタリ派の、シンボルに祭り上げられようとしているのだった。


●吟遊詩人

 「姫さま、皆さまがお待ちです」

 ドアがひらいて、侍女が告げる。

 「いま行く」

 答えてわたしは、北の地平にもういちど、目をやる。

 十字軍がアルビジョア地方で行っている恐るべき殺戮を阻止すべく、トゥールーズ伯レイモン7世が南フランスの騎士たちを集め、4万の大軍勢の指揮をとって北方に向かってから、7日。

 戦況は膠着して、良い知らせはまだないのだった。


 城の大広間に降りる。

 「ソフィア姫さま!」

 「奇蹟の乙女!」

 叫びが上がる。

 足元にひざまづいて、靴先に接吻する女もいる。

 「永遠のおん乙女よ、祝福を!」

 わたしは「そのような者ではありません」とか口の中でモゴモゴと呟き、騒ぎを手で制して進む。

 こんな時、なにかもっと、カッコいいことが言えればなあと、いつも思う。

 16の時までは、わたしも女の子らしくおしゃべりだったそうだ。

 でも、病から回復してからは、人が違ったように無口になった。

 それも、色々噂が立つもとになった。

 「16のときから変わらないなんて」

 「魔女、正真正銘の魔女にちがいないわ」

 「薬草売りのギリシャ女は、薬を飲ませた後にすぐ、崩れて砂になったそうよ」

 「あなたに賭ける、とか、意味不明のことばを残して」

 そう、トゥールーズ城内といえど、カタリ派一色というわけではない。勢力は拮抗しているのだった。


 群衆をかきわけて吟遊詩人が歩み寄り、ひざまずく。

 「やんごとなきソフィア姫、今日もご機嫌うるわしゅう」

 わたしは、「苦しゅうない、面を上げて、立ちなさい」と命じる。

 吟遊詩人の姿かたちが快いから。

 すらりとした長身。切れ長の目。長いまつ毛。端正な鼻筋。男なのにこんな美貌があってよいものかとさえ、思う。

 それに、吟遊詩人といっても大道芸人とは違う。

 地中海に面したラングドック地方の、歴とした貴族の出なのだった。

 それがなぜか、いまは吟遊詩人として、いえ、それ以上にカタリ派の説教師として、人々の崇敬を、女たちの憧憬を、一身に集めている。

 「姫さま、今宵も曲のご所望をーー」

 言われてわたしは答えに窮する。吟遊詩人といえばまず、恋の歌。でも、なぜか言葉が出てこない。

 「では、いつもの、メタモルフォシス、転生譚でよろしいのですね」

 わたしは仕方なく、頷く。

 竪琴の音に合せて、歌声が大広間に流れ出す。


●迫りくる運命

 メタモルフォシス、転生譚とは、まことの神の愛娘、ソフィアが蛇へと転生し、イヴに知恵の実を食べさせて以後の、輪廻転生の物語。

 聖なる蛇は、エデンの園を、そしてこの世界を支配する造物主デミウルゴスに見つかって殺されたという。それ以来、いろんな生きものに転生して、物質の世界の囚人となった人々の魂を救おうとして来た。

 そう、カタリ派の教義では、この物質世界を作った造物主デミウルゴスとは、悪魔なのだった。だからこの世界にはいつの時代にも、悪がはびこり善が虐げられるのだ。

 「だから聖なるソフィアはいつの世も、最悪の運命に落とされて、最も不幸な最も悲惨な生を送って来たのです。不幸と悲惨と苦痛によって、魂が浄化されることを、身をもって示すために。若くして目も見えず耳も聞こえず手足も萎えて死んだこともありました。体が崩れる疫病で荒野をさすらったこともありました。無実の罪で身の毛もよだつ拷問を受け生きながら皮を剥がれたこともあります。やはり無実の罪で四つ裂きの刑に処せられたこともありました。」

 オオー、と女たちの口から悲鳴が上がった。吟遊詩人は、いつの間にか竪琴を弾くのをやめ、説教調になって続けた。

 「でも、そうやって何万年にもわたって、人間の悲惨と苦しみを一身に引き受けることで、魂が浄化され、今生では永遠の乙女としてよみがえったのです」

 群衆の視線が、わたしの方に集中する。

 「聖なるソフィア姫!」

 「奇蹟の乙女、永遠の乙女!」

 「我らの救い主‥‥」

 口々に叫びながら、わたしに向かってひざまずく。女たちが膝行して近づき、靴先に接吻する。

 わたしは、茫然として立ち尽くしていた。

 と、その時。

 大広間の大扉が勢いよくバーンと開いた。

 鎧を付けた騎士が入ってきた。馬で駆け付けたばかりとおぼしく、肩で息をしている。

 「オクシタニア連合軍の使者、ランスロです。申し上げます。わが軍は、アルビジョア十字軍と和睦しました。十字軍の軍勢はすでに北方に退却し、パリへの帰途に向かっています」

 ワー、という歓声が上がった。では、トゥールーズは、栄華を誇る薔薇の都は、救われたのだ。

 でも、使者の次のことばで、一同は呆然となってしまった。

 「和睦の条件の一つは、トゥールーズ伯が再婚すること、それもフランス国王ルイ8世の第2王女、ジュリエット殿と婚姻を結ぶことです。すでにトゥールーズ伯は、フランス軍とともに、パリに向かっています。」

 それは、わが母でもあった正妃がみまかって、だいぶ経つことは確かだけれども。でも、そうするとこのわたしはーー

 思いは一同も同じだったようだ。案じる視線が、いっせいに注がれる。

 「して、ほかの条件はーー」

 留守を預かる老将ピュイローランス殿が、緊張した声でうながす。

 「第二の条件はーー」と、言いよどむランスロ殿。わたしの方に一瞬目をやった後、目を背け、うつむき加減になり声を落として続ける。

 「ソフィア姫を、十字軍を率いる異端審問官猊下に引き渡すこと」

 大広間中が凍りついた。

 「なにゆえじゃ!」ピュイローランス殿が、声を絞り出すようにして反問する。

 「魔女の嫌疑ありとのことで。でもーー」とランスロ殿はわたしの方に目を向けて「ご心配なされますな。ソフィア姫さまなら絶対にご嫌疑を晴らせるはず」

 嘘。異端審問官の手にかかって、生きて帰った者はいない。それどころか身の毛もよだつ拷問を受けて、最後は火あぶりの刑に処せられるのだから。

 けれど、辛うじて立っていたわたしにとって最後の打撃となったのは、ランスロ殿の口から出た、次の衝撃的な事実だった。

 「--といいますのは、異端審問官猊下とは、ソフィア姫さまの幼馴染で7年前に出奔して修道士になった、前の親衛隊長ギヨーム殿なのですから」

 わたしはその場に昏倒しかけた。

 けれども、ドサッという音がして我に返った。

 「ピュイローランス殿」

 「ピュイローランス殿、たいへんだ、医師を呼べ!」

 ピュイローランス殿が倒れたのだった。

 ピュイローランス殿は、この城の親衛隊長だったギヨーム、今は恐れられる異端審問官の、実の父親だったのだ。


<第2話に続く>

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