第9話 ジパング文永九年(後篇 インドへの旅)

● インドへの旅


 イブン・バットゥータ殿は、元々北アフリカの王族の出身だったが、若いころから世界中を旅することを志し、隊商に交じってインドまで行き、帰国して旅行記を出して評判になっていた。ふたたびインドを目指す旅の途中で、アレクサンドリアの奴隷市場でたまたま俺に目をとめて、買い受けることになったのだった。

 大変な学識と知的好奇心、そしてひらかれた精神の持ち主で、最初のうちはラクダを連ねたキャラバンで、紅海に出てからは船旅で、お供をしながら多くのことを教わった。


 まず、夜ごとバットゥータ殿のそばに呼ばれて、直々にアラビア語の特訓を受けた。

 ひと月もたたないうちに、簡単な日常会話には不自由しないようになった。

 そんな俺をバットゥータ殿は、呑み込みが早いと言って褒めてくれた。

 主人の奴隷に対する態度というより教師の生徒に対する態度のようで、改めて尊敬の念を深くしたのだった。

 驚いたことに次にバットゥータ殿は俺に、フランス語の会話を教えて欲しいというのだった。

 バットゥータ殿の頭脳は恐るべきもので、ひと月で俺との日常会話がほぼ自在にできるようになった。

 アラビア語とフランス語のちゃんぽんであっても、意思の疎通に不自由しないようになると、俺に、くりかえし、薬師の洞窟でのソフィア姫との出会いから、アレクサンドリアに連れて来られるまでの話をさせた。


 「本当です、旦那様。ソフィア姫は俺の目の前でミイラとなってちりに還ったのです。命を削ぎ取って俺に全部与えて燃え尽きたのです。」

 「ギヨームよ。私は怪異のたぐいは信じないぞ。きっとソフィア姫とやらは、このままではハーレムに売られると思い、海に身を投げたんだろうよ。」

 話はたいてい、このやり取りで終わるのだった。

 また、こんなやり取りをすることもあった。

 「それよりも私は、この丸薬に興味があるぞ。この病気で視力が回復するとは、たいへんな効能だ。インドには塗り薬はあるが、丸薬は見たことがない。本当にソフィア姫は、その鏡に製法を教えられたと言ったのだろうな」

 「ハイ。魔法の鏡だと言ってました」

 俺は首にペンダントにして吊るしていた鏡をはずして渡した。

 バットゥータ殿はしばらく調べていたが、「ただの銅鏡にしか見えないが」といって返すと、「何か願い事をしてみたまえ」と言った。

 言われた通り、色々、願い事をしたり、俺たちのインドでの将来を尋ねたりしたが、まったく反応はないのだった。


 インドに来てしばらくたつとバットゥータ殿は、サンスクリット語で書かれた聖典ヴェーダや奥義書ウパニシャッドを学ぶ学校の学生になった。

 インドでも、聖職者階級であるバラモンの子弟だけが入学できる学校だったが、どうにかしてコネを作り八方手をまわして、入学に漕ぎつけたらしかった。

 バラモンの子弟は子どもの頃から家でサンスクリット語の手ほどきを受けていたので、追いつくべくバットゥータ殿は個人教授にバラモン学者を雇い、昼夜を分かたぬ猛勉強で、入学時には他の学生に引けを取らない学力になっていたようだった。

 寄宿舎制だったが、召使一人まで引き連れてくることを認められていた。俺はバットゥータ殿の私室に通じる控えの間にベッドを与えられて、身辺の世話をすることになった。

 学校にはバットゥータ殿以外にも外国人の学生がいた。

 そのひとりが、北の大国、宋からの留学僧である蘭渓道隆らんけいどうりゅう殿だった。


●ジパングへの旅


 蘭渓道隆殿は、元々、仏教を学ぶべく宋から派遣された官費留学生だった。

 仏教の学習が一通り終わると、仏教の源流になっている聖典ヴェーダや奥義書ウパニシャッドをもきわめたいと、サンスクリット学院に入学してきたのだった。

 バットゥータ殿とはたちまち意気投合し、やがて夕方になると二人はバトゥータ殿の部屋で、俺の出す茶をすすりながら議論をするようになった。

 議論は二人の共通言語であるサンスクリットで行われたので、俺にはチンプンカンプンだったが、ある日のこと、蘭渓道隆殿の口から、「ジパング」という言葉が洩れるのを聞いた。

 俺はおもわず、ピクッとした。

 バットゥータ殿は目ざとく俺に視線を向けると、言った。

「ギヨームよ、こちらの蘭渓道隆殿には、ジパングという島国に渡るという計画があるらしいぞ」

「ジパング、本当にそのような国があるのですか?」

「宋から東に船で七日行ったところにある、緑におおわれた気候の穏やかな島だそうだ。新しい都ができて、寺院の開基となる高僧を宋から迎えたがっているらしい。そこでだ。以前お前が話してくれた、カタリ派の司教殿との別れの場面、ジパングという国の名が出てくる場面を、もういちど話してくれないか」

「はい。ソフィア姫は、こう歌い、俺も声を合わせました。

 ~楽園を追われて何千年

 ~流転の果てにここにいる

 ~瞼に浮かぶは時空の彼方か

 ~ジパングの青い海、白い雲

 そこで俺は歌うのを止めて、『ソフィア、ジパングって?』と訊きました。『エルサレムとどっちが遠いの?』

 ソフィア姫は答えました。『ずっと遠いの。大きな国を越えて、大きな海をわたって、また大きな国を越えて、また海をわたった彼方』

 『どんな処なの?俺たちも行けるの?』

 『神さまのことで殺し合わなくともすむ、平和な国。あなたはきっと行ける』

 『ソフィア、あなたも?』

 『わたしは今のままでは行けない。何度も転生して、千年後にならなければたどり着けないの』」


 俺は、昨日のことのようにまざまざと脳裏に残っている、マルセイユでの別れの場面を、再現してみせた。

 バットゥータ殿が蘭渓道隆殿に、通訳して伝えた。

 宋からの留学僧は大変感じ入った様子で、俺に向かって何事か言った。

 「蘭渓道隆殿は、お前に、一緒にジパングへ行かないかと、言ってられるぞ」

 「いいのですか、旦那様」俺は驚いて、バトゥータ殿の意向を聞いた。

 すると、こういう答えが返ってきた。「実は私も行きたくなった。三人そろって、黄金の島、ジパングへ行くというのはどうだな?」


<「ジパングへの旅」続く>





 

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