第8話 ジパング文永九年(中篇 アレクサンドリアの奴隷市場)
●垂れ込める暗雲
少年十字軍兵士らの間に、奇妙なひそひそ話が交わされるようになったのは、マルセイユを出港して五日目あたりの頃だった。
「エルサレムは東の方だと聞いてたけど、この船は南の方角をめざしているぞ」
「そういえばどんどん暑くなってるな」
「なんでもアレクサンドリアという町に寄港するらしいよ」
次の日には、こんな話が交わされた。
「アレクサンドリアでぼくたちは、全員降ろされるらしいよ」
「エエーッ、本当?」
「ピエールが船長室の後ろで立ち聞きしたんだって。アレクサンドリアで全員が奴隷に売られるんだって」
「そんな―」
エチエンヌ、ニコルら主だった者が、船長室に事の真偽を確かめにいった。俺もユッキに手を引かれて付いて行った。
船長は髭もじゃの荒くれ男で、似たような人相の悪い船員がずらりと背後に控えていた、と後からギヨームが話してくれた。
子どもたちへの説明に当たったのは、マルセイユの港でエチエンヌらの応対に当たったルチアーノ商会のイタリア人で、物腰柔らかげに、こういうのだった。
「もちろん、エルサレム行きを希望する諸君は、責任をもって陸路送りとどける所存です。けれどエルサレムの戦場はそれは過酷なところです。見たところ、諸君らの多くは、足手まといになるばかりでしょう。それよりも、提案ですが、アレクサンドリアの貴族や大金持ちのお邸で、働いてみませんか。きれいな服を着て、毎日ごちそうが食べられる。今までと比べたら、それこそ夢のような暮らしです。特に、みめよい子は、たとえばあなたのようなーー」
と、この時、イタリアの商人は、ユッキことソフィア姫の方を見たと後から聞いた。「ハーレムという豪壮な宮殿に住み召使にかしづかれて、毎日お風呂に入って体をピカピカに磨いて貰って、ぜいたく三昧できるのですよ」
「ボクはこれでも男の子ですよ」
ユッキことソフィア姫が、努めて低い声を作って抗議した。
「ああ、アレクサンドリアの流行をご存知ない。今時、美少年は女の子よりずっと高く売れるのですよ」
●ソフィア、散る
いまや、子ども達の全員が奴隷市場で売りにだされるという不吉な噂が、俄然、信憑性を帯びてきた。おまけに、みめよい子が高値でハーレムに売られるというだけではない。目が見えなかったり足が萎えていたりした子どもたちは、売られる前に海に突き落とされて、鮫の餌食になるのだという。
その夜のこと。
ソフィア姫はこれまでにないほど、長く祈った。
そして、祈りの言葉とともに、なんだか俺の目に視力が戻ってきたのだった。
「ソフィア、見える、見えるよ!」
「よかった、ギヨーム、もう一息よ」
俺は、月明かりを透かして、初めてソフィア姫の顔を見た。
けれどーー
そこにあったのは、思い描いていたような十六歳の少女の顔ではなかった。
皺の無数に刻まれた、年老いた女の顔だったのだ。
「ソフィア、ど、どうしたの?」
「わたしの命のすべてを削って、あなたにあげる」
「ソフィア、やめて!元に戻って!」
祈りが続くとともに、女の顔はますます干からび、ミイラのようになった。
「ソ、ソフィアー」
「ギヨーム、これを」
ミイラそのものになったソフィア姫が、ペンダントにして掛けていた鏡を外して、俺の首にかけた。
干からびた顔にわずかに形を留めていた口から、こんな意味不明の言葉が漏れた。
「ギヨーム、あなたに賭ける」
黒の僧衣がクタクタとくずおれた。
そしてーー
ヒューウゥと風が鳴ったかと思うと、ソフィア姫であったものは一塊の塵となって、夜の海原へと散ってしまったのだ。
「ソフィア、ソフィアーっ」
呼び声がむなしく、月影を宿した波頭に消えた。
●アレクサンドリアの奴隷市場
翌朝、船はアレクサンドリアの港に着岸した。
髭を蓄えた強面の男たちがドヤドヤと乗り込んできて、俺たちは抵抗する間もなく、後ろ手に縛られ数珠つなぎにされて、船を下ろされた。
その日のうちに奴隷市場に売りに出された。
次々と真っ裸にされて衆人環視の中、台に立って競り売りされるのだ。
イタリアの商人が言ったように、みめよい子は丁寧に扱われ、高く買われていった。
ユッキことソフィア姫のように、男装して混じっていた少女たちも思いがけず何人かいたが、その子たちもかなり高く買われたようだった。
その他大勢の少年たちは、手荒く扱われて下男として二束三文に売られていったようだった。
俺の番が来た。昨夜の出来事のショックから我に返らぬまま、俺は言われる通りに真っ裸になり、台に立った。
ソフィア姫が残していった薬草入りの籠だけは、なぜかそのまま背負っていることを許されていたが。
俺の体のあちこちに残る
あとで聞いたのだが、「病気の子だ、海に投げ込んでしまえ」という声が上がったのだそうだ。
競り売りの男が、背負った籠を指して、何か言った。「薬師見習いだから役に立つ」といったことを言ったのだと思う。
けれども、ざわめきは一向収まらない。競り売りの男も諦めたものか、俺を乱暴に台から降ろそうとした。
と、その時。
背の高い商人風の男が歩み寄った。
品の良い髭を蓄え、目には鋭い知性の光を宿し、貴族めいた威厳をまとっていた。
男は俺の体に残る瘢痕を観察し、指先でさすったりした。
次に、背の籠を下ろすように身振りで命じた。
その通りにすると、籠に入った薬草を次々に調べ、大風子油から採った白い塗り薬と丸薬を興味深げに手に取り、クンクンと臭いを嗅いだ。
どうやらこの薬を目にするのは、初めてではない様子だった。
そして、競り売りの男と、周りの人々に向かって、何か叫んだ。
これも後から聞いたのだが、「病気はもう治ってる。感染の心配はない。この子に興味がある。私が買う」と言ったのだった。
それが、大旅行家、イブン・バットゥータ殿との出会いだった。
<続く>
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