第7話 ジパング文永九年(前篇 ソフィア姫の祈り)
●文永九年、ジパングにて
夕焼けの水平線を背景に、石段からオカッパ頭がのぞく。
「キョン、またお話聞かせてエーッ」
けたたましい声を上げて息弾ませながら走って来るのは、十歳ぐらいの愛らしい少女。鎌倉に館を構える有力御家人の姫君だ。
「春日姫、またおひとりで抜け出してこられたのですか」
「だって、キョンのお話ほど面白いものは、どこにもないもの」
金髪碧眼、高い鼻という、見るからに異相の俺に、子ども達は陰で天狗と呼んで近づかないが、この娘だけは妙になついてきた。
山頂に近い奥の院の縁側に腰かけた俺の隣に、なんの躊躇いもなく勢いよく座り込む。
俺の名はギヨーム。この建長寺の雑務の一端をになう、いわゆる寺男という身分だ。師でありこの寺の開祖でもあった蘭渓道隆禅師にいただいた、「戯洋夢」という立派な漢字名もある。
けれど少女には発音が難しいものか、キョンとしか呼んでくれない。
「キョン、今日こそ話してよ。マルチューズの港で船に乗って、それからどうなったの」
「そう、姫さま。俺たち少年十字軍の三百人の部隊は、四隻の帆船に分乗してマルセイユの港を出港したのです。聖地エルサレムで異教徒と戦わんものと、喜び勇んで」
俺は、遠く、水平線に目をやる。今と違って、あの時は雲が行く手にかかっていた。
いや、あの時は俺はまだ目が見えなかったが、傍らにいつも見習い修道士のユッキこと男装したソフィア姫がいて、まるで目に見えるように話してくれたのだった。
それももう、六十年も昔のことになる。
●船旅、ソフィア姫の祈り
最初のうち、船旅は順調に思えた。生まれて初めての潮の匂い。波の音。ニャーニャーと猫のような声で鳴くカモメの群れ。行く手に待ち受ける聖地奪還という困難な使命もしばし忘れ、俺たちは年齢相応の子どもに戻って大はしゃぎだった。
夜ともなるとソフィア姫が、大風子油から作られた焦げ臭い塗り薬を、俺の顔や腋の下や脚に残る瘢痕に塗ってくれた。
朝は食事の後に、やはり大風子油から作られたきつい臭いの丸薬を一粒ずつ飲まされた。
「ギヨーム、脇の下もだいぶよくなったわよ。もう膿も出ていない」
けれども、視力は依然として回復しなかった。
時々、顔の手当てをしながらソフィア姫が、呪文のような文句を呟いていることがあった。
「ソフィじゃなかった、ユッキ、それって何語?」
「ラテン語なの。カタリ派に伝わる回復のお祈りよ」
ソフィア姫の祈りには、時々フランス語も混じっていた。ある時の祈りは、はっきりしないが、確かにこう聞こえた。
「鏡よ鏡よ、ギヨームの目を直して下さい。代わりにわたしの命を削ってささげます」
「いけない、ユッキ」俺は思わず声を潜めて叫んだ。「命を削るなんて。俺はこのままでいいよ。ユッキさえ傍にいてくれれば」
「ギヨーム、わたしたちカタリ派の教えでは、この世の命はかりそめ、いつわり‥‥」
それからソフィア姫は、折に触れてカタリ派の教えを話してくれるようになった。
「この世界はまことの神が作ったのではないのよ。まことの神から悪魔、デミウルゴスが生まれ、デミウルゴスが造物主となってこの世界が作られたの。だからこの世界ではいつの世でも、悪がはびこり善は虐げられているの。
「エデンの園で最初の人間、アダムとイヴが作られたとき、最初は魂がなかったの。でもまことの神は彼らを憐れんで、肉体の中に自分の分身として魂を送りこんだの。それでも魂たちは本当の自分に目覚めずに、野の動物と同じ生き方をしていたわ。そこでまことの神は、英知の女神ソフィアを生み出して、アダムとイヴに知恵を伝えるよう命じたの。そう、ソフィアという名は、元々ギリシャ語で、英知とか知恵といった意味なのよ。
「まことの神の愛娘、ソフィアは蛇に姿を変え、楽園の中央に立つ林檎の樹の上で待っていたの。するとイヴが通りかかったわ。
「蛇はささやいたの、イヴよイヴよ、リンゴの木の実を食べてごらんなさい、知恵が生まれますよ。イヴは最初、答えた。神さまにはこの実は食べてはいけない、毒だから、と言われているわ。
「でも、とうとう好奇心からイヴはリンゴの樹に成った知恵の実を食べた。それで知恵がイヴに生まれたの。自分が物質界という牢獄に囚われていることを知って、恥ずかしくなったの。アダムにも食べさせた。
「にせの神、造物主デミウルゴスはそれを知って非常に怒ったの。まず蛇を撃ち殺し、アダムとイヴを楽園から追い出した。楽園の外では人間に寿命ができたけど、魂には寿命はないの。何度も転生して修行を重ねて、いつかまことの知恵に目覚めてこの世を脱して、まことの神のふところに還ることが、わたしたちカタリ派の目標なのよ。
船旅でソフィ姫に教えられたことをくりかえしながら、俺は今更ながら思った。その時は奇妙な教えだとしか思わなかったが、これって、仏教でないの?転生をくりかえして修行を重ね、いつか悟りをひらいてニルヴァーナ、涅槃に還る、という仏教の教えに、そっくりでないの。
「キョン、それからどうなったの?」
かたわらで春日姫が、あくびをしながら促す。俺は話を続ける。
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