第2話 異端審問官ギヨーム

●塔上の姫、ふたたび


 南フランス、オクシタニアの平野に、今日も陽が落ちる。

 薔薇の都、トゥールーズの7つの塔を、いつものように薔薇よりもっと濃い色に染めて。

 けれど、いつもなら真下から聞こえてくる、吟遊詩人の歌声も、竪琴の音も、今日はない。

 広場を、いえ、トゥールーズの街中を、緊張に満ちた沈黙が支配しているのだった。

 わたしは、すでに聞いていた。

 市の実権を握る参事会が、激論の末、わたし、トゥールーズ伯レーモン七世の長女ソフィアを、異端審問官に引き渡す決定をしたことを。

 元々、それが十字軍との和睦の条件だったとはいえ、参事会には隠れカタリ派も多く、賛否は伯仲したという。

 けれど、ここで和睦が破れては、アルビジョア地方はふたたび地獄になってしまう。

 真っ先にアルビジョア十字軍の侵攻を受けたベジェの町では、三日三晩にわたる虐殺で二万人が犠牲になった。

 城主の奥方ギロード殿は、高徳の誉れ高いカタリ派信者だったが、虐待されたあげく空井戸に投げ込まれ、大量の石を落とされて処刑されたという。

だから、人を参事会にやって、わたしは、異端審問官の元に出頭する意を伝えておいたのだった。

 「ソフィアさま、審問官のご一行が到着ました」

 侍女のロクサーヌが、急ぎ足で塔の上の部屋に上がってくると、うわずった声で告げる。

 「わかったわ、いま行きます」

 ロクサーヌが顔面蒼白なのを見て、「大丈夫よ、ロクサーヌ、審問官はあの、私にとって乳兄弟に当たるギヨームですもの。きっと無事で帰って来れるわ」と、侍女の肩を抱く。

 「ソフィアさま、異端審問官は一人ではありません。ベルナール・ド・コー殿が、ギヨームさまに同行しているのです」

 「ベルナール・ド・コー。あの、異端者への鉄槌が‥‥」

 全身から血の気が引くのがわかった。異端者への鉄槌というあだ名で知られるこのドミニコ会修道士は、尋問の峻烈さで最も恐れられている異端審問官なのだった。

 「ソフィアさま、お逃げください。」

 「エッ、逃げるってーー」

 「護送の馬車からです。手はずは整っています。」

 わたしは思わず、年若い侍女の顔を見る。「ロクサーヌ‥‥」

 「わたくしも、また、良きひとの一人。吟遊詩人のギラベール殿から伝言があったのです。」

 良きひととは、カタリ派の信者が、互いを呼び合うのに使う言葉。

 侍女は言葉を続けるーー「護送の部隊の中にもわたくしたちの仲間がいるのです。黒の森に差し掛かったところでフクロウが三度鳴いたら、脱出の合図だと思って下さいとのことでした。」

 「でも、わたしが逃げたら、十字軍の軍勢が引き返してくるのでは‥‥」

 「ソフィア姫さまが異端審問官に引き渡された時点で、和睦の条件は満たされるのです。その後はどうなろうと、レーモンの殿様と国王陛下のあいだの約定とはかかわりなきこと。」

 「ロクサーヌ、ありがとう。」

 わたしは、侍女を抱きしめると、塔から大広間へ降りる階段へ、まるで地獄へ降りるような気持ちで足を踏み出した。


●二人の異端審問官

 

 大広間は半ば、物々しい甲冑の兵士で埋め尽くされていた。異端審問所直属の部隊らしく、白い十字架を浮き立たせた黒のマントを甲冑の上から羽織っているのが不気味だった。

 「ソフィア殿、久しぶりです」

 兵士の群れから離れて、僧服の人物が歩み寄る。

 黒い頭巾で半ば覆われた額には、深い皺が刻み込まれているが、紛れもない、八年前に修道士になると言って城を出奔した、守備隊長ギヨーム・ド・ピュイローランスだった。

 病から回復したはいいけれど、それまでの記憶を失い、赤の他人ばかりの中で新たに人生を始めなければならなかったわたしを、兄のような優しさで導いてきた、あのギヨームだった。

 「ギヨーム‥‥」

 わたしはなつかしさに、思わず駆け寄ろうとした。

 「ソフィア殿。わたくしをそのような名で呼んではなりません。今は、ドミニコ会修道士のピュイローランス審問官」

 ギヨームが冷たく言い放つ。そして、仮面のような顔をじっと向けると、「やはり、思った通りだ。あなたは少しも変っていない。この八年間、いや、あの、病気から回復してからの16年間、成長もせず、齢も取らず、あなたの顔は人形のように冷たくこわばったままだ。ソフィア殿、あなたは本当にあの、無邪気で笑顔の可愛いかった姫さまなのですか?」

 わたしは絶句して、立ち尽くした。

 そのときーー

 「お黙り、ギヨーム!」鋭い声とともに、わたしとギヨームの間に立ちふさがった初老の婦人がいた。

 「乳母やーー」

 「姫さまは姫さまです。それはこの、生まれたときからの乳母のわたくしが一番よく知っています。ギヨーム、よりによってそなたが、恐れ多くもソフィア姫さまを異端審問所に引っ立てるなど、このリヨーナ・ド・ピュイローランスが許しません!」

 「母上‥‥」

 「この罰当たりの息子が!姫さまを引っ立てるなら、この母を殺してからにしなさい!」

 実の母の剣幕に、さすがに審問官ピュイローランスも、たじろいだようだった。

 と、そこに、兵士らの隊列から離れて歩み寄る、もうひとりの僧服の人物。

 黒頭巾に顔のほとんどを隠して目ばかりを覗かせた、小柄なその僧からは、ゾッとするような冷気が浸み出してくるようだった。

 異端者への鉄槌、審問官ベルナール・ド・コー。わたしは直覚した。

 「そなたが、完徳女、リヨーナ・ド・ピュイローランスか」

 平板な中に冷酷さを秘めた声が、黒頭巾の中から洩れた。完徳者、完徳女とは、カタリ派の高位の聖職者のこと。ローマカトリック教会と異なり、女性でも聖職者になれるのがカタリ派で、これもまた、カトリック教会が最も憎む異端の印のひとつなのだった。

 「イヴの血を引く罪ある女人の身で、説教をするなど、ふらち極まる異端のやからよ」

 「何を言うのです、審問官ベルナール・ド・コー殿。楽園の聖なる蛇が、智慧の実を食べるようまず伝えたのは、アダムではなくイヴの方。わたくしたち女人にこそ、まことの教えを率先して説く責務があるのです」

 「審問官ギヨーム・ド・ピュイローランス殿、そしておのおのがた、今のことばを聞かれたか。これこそまさに、この、ギヨーム殿のご母堂だという女が、忌まわしい異端の完徳女だという動かぬ証拠。そうだ。そこな魔女と一緒にカルカソンヌまで引っ括って行って、審問所で存分に尋問して差し上げようぞ」

 「やめて下さい!審問官コー殿」

 わたしは、乳母リヨーナと審問官一行の間に割って入って声を張り上げた。

 「わたしひとりが行けば、和睦の条件は満たされるのです。ここで完徳者狩りなど始めたら、和平が破れることになってしまいます。それは国王ルイ八世陛下も、お望みではないはず」

 「姫さま!」

 リヨーナが悲痛な叫びを上げた。

 「乳母や、そしてロクサーヌ、皆さん、心配しないで。わたしは必ず無事で戻ります。」


<長門有希詩篇 外伝「ソフィア姫と十字軍の伝説 第3話」に続く>

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