人狩り ~拡散する種~
澤松那函(なはこ)
人狩り ~拡散する種~
俺が幼い頃聞いた養父の言葉で特に印象の残っているものがある。
「ヒスイよ。夜の森で〝種〟に出会ったら立ち尽くせ。運が良ければ楽に死ねる。運が悪かったら? 考えない事だ」
あれから二十年が経ち、俺は出会ってしまった。
新月の黒い光に包まれた森の中で、一つの闇が立っている。
不定であり、有形。
漆黒の中でも輝きながら燃え、砕けながら凍る。
腐臭と果実の甘い香りが同時に香ってきたかと思えば、匂いという概念が存在しなかったかのように無臭となる。
養父はこうも言っていた。
「どんな姿をしているか? 見れば分かる。俺は見ていないからどういう姿と伝えてやる事は出来ないが、見れば分かる。そう伝えられている」
確かにその通りだ。俺はこの闇が〝種〟であると確信できる。
他に分かるのは、それが世に存在していいものではない事。生物なのか現象なのか判断が付きかねるが、人にとっては天敵である事だ。
養父の忠告通り、俺はその場に立ち尽くた。
抵抗はするだけ無駄。死が向こうからやってきたと、諦めるしかない。
多くの人間がそうしてきたのだから。
――死ぬなら楽に死にたいもんさね。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
人を狩り歩く人間が安寧な死を望むのはおこがましい。きっと誰もが口を揃えてそう言うだろう。
自嘲と共に、俺が瞬きをした瞬間、一つの〝種〟は二つの〝種〟となった。
――なんだこれは?
最初から二つだったわけではない。瞬きした瞬間、二つに分かれたのだ。
俺は瞬きをこらえて立ち尽くした。
目を閉じてはいけない。直感が叫んでいた。
しかし瞳を開け続けるのにも限界がある。大樹の影響で翡翠色に染まった俺の瞳は夜でも昼間と変わらず見える。だがそれ以外は人の目であることに変わりはない。
時間にして五分ほどたっただろうか。こらえきれずに俺は瞬きをしてしまった。
目を開けるのが怖い。しかし俺の中には好奇心も生まれていた。奴の姿が見てみたい。本能が囁いてくる。
目を開けるとそこにあった闇は四つに増えていた。
――目を閉じるたびに増えていくのか? これ以上増えた時どうなる?
そもそも何故増えるのかが分からない。
条件はなんだ?
試しに〝種〟から視線を外してみた。小さな動作でも殺される可能性はあったが、確かめずにはいられなかった。
再び視界の中に〝種〟を迎え入れると、数は四つのままである。
――瞬きが増える条件か?
何故瞬きで増える?
数瞬考えたのち、仮説が思い浮かんだ。
人がもっとも簡単に闇を生み出す方法は、目を閉じる事だ。
これより容易く闇を得る方法を俺は知らないし、おそらくはないと断言できる。
俺が生み出した闇を食らい、奴は数を増しているのかもしれない。
瞬きをやめれば〝種〟の拡散は食い止められる可能性もある。
最悪なのは〝種〟が俺を殺した後、拡散した〝種〟がそのまま残ってしまう場合だ。
もし〝種〟が数百数千に拡散したら人の滅亡もあり得るだろう。
もし精霊や獣の瞬きでも増えてしまうのなら、彼らも滅ぼされてしまうかもしれない。
しかし〝種〟が拡散しても消えないなら世は〝種〟だらけになっているはずだ。
だが〝種〟に遭遇するのは稀と言われている。つまり消えるのか?
闇を消すのは光だ。太陽の光の中では〝種〟は存在できない?
なら光を起こせばいい。闇を消すのは太陽の明かりだけではない。
人狩りのみが持つ事を許された
――朝まで瞬きをしないっていうのは現実的じゃないさね。ひとまず銃を試してみるか?
養父の言葉が蘇る。
「ヒスイよ。夜の森で〝種〟に出会ったら立ち尽くせ。運が良ければ楽に死ねる。運が悪かったら? 考えない事だ」
養父の言葉はいつだって俺を救ってきた。
職業柄、命の危険を感じた経験は一度や二度では済まない。その度に養父の言葉が俺の生命線となって命を繋いできた。
――人の生み出す光なんかじゃ、こいつは消せないさね。
朝まで耐えるしかないのか。
なるべく瞬きをせずに。
『ソンアノハ ムリ ダッテ キ ズ イテ イリュダ ロ』
俺の瞼の中から声が響いてきた。音で両の瞼が震えている。思わず俺は目を閉じてしまった。
『オ マエ ノ チカ ウ ニ イ ル ゾ』
熱と悪寒が鼻先まで近づいてくる。
『ニク ヲ ソグ カ』
生温かい呼気が頬をなでてくる。
『アケネバ、アノ コ ドモ タチ ヲ クウゾ』
サクリ――。
サクリ――。
木の葉の踏みしめる音が近づいてくる。
『イ イノカ タベ テイイ ノカ イ イ ノカ』
嘘だ。
こんな夜の森を子供が歩いているわけがない。
――信じるな。瞼を閉じていろ。
俺は固く瞳を閉じた。その直後、圧倒的な力が俺の両瞼を開かせた。
眼前の〝種〟は二百以上に拡散し、俺の周囲を取り囲んでいた。
「な……」
思わず声を漏らした瞬間、左目から冷たい感触が流れ落ちた。
頬についたものを左の人差し指でぬぐうと、それは涙の雫ぐらいの小さな〝種〟だった。
次に右目から暖かい感触が流れ落ちる。
頬についたものを右の人差し指で拭うと、やはりそれは涙の雫のような小さな〝種〟だった。
「目の中に浸食されたのか。それとも〝種〟が感染したのか?」
どうなる?
俺自身が〝種〟になるのか?
それとも〝種〟が際限なく拡散していくのか?
俺はどうなる?
苗床になるのか?
俺は思考を止めた。
後ろ暗い考えも人間の闇だ。
あるがままに任せるしかない。
割り切るしかない。
人を狩る事を生業にした時点で、覚悟はしていた。
ろくな死に方は出来ないと。
だから死を受け入れる事にした。
その瞬間、頭上から針のような光が降り注いでくる。
鼻腔を突き抜ける甘い香り。
「大樹の蜜か」
空を見上げると、そこには天高くそびえる大樹が一本、俺を見下ろすように立っていた。
もっとも高い枝は雲に届くほど伸びている。
蜜の雨粒を浴びた〝種〟から白煙が立ち上り、かき消されるように蜜が発する光に溶けていく。
「そうか。まだ生きて人を狩れって事さね」
俺の中にあるのは落胆だった。
「悪運だけはいいらしい」
死を受け入れた瞬間、恐怖はなくなっていた。
「親父、確かにこれは運が悪いさね。確かにこれは考えん方がいいさね」
日中よりもまぶしい輝きに支配された森の光景は、〝種〟の発していた闇よりも深く先の見えない黒に思えた。
心のうちに生じつつあった安らかな気持ちは、どこかへ消え失せていた。
人狩り ~拡散する種~ 澤松那函(なはこ) @nahakotaro
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