生涯一度のUターン

薮坂

とある警察犬の一生。



 アルダリッヒ・フォン・ベルンヴァルト号。

 愛称は「アル」。それが彼に与えられた名前だった。


 アルは優秀な警察犬だった。人間には知覚出来ない痕跡である臭気を辿り、犯人の追跡や不審物の捜索を行うことが、彼に与えられた任務だった。

 警察犬としては少し臆病な部分があったアルだが、それを補って余りあるほどに、彼の足跡そっこん追求能力は秀でていた。


 彼の功績は多岐に渡る。本部長褒賞、一回。生活安全部長褒賞、三回。地域部長褒賞、四回。署長褒賞に至っては、実に十六回の受賞歴。

 しかし実は一度として、犯人逮捕に結びつく結果を出したことはない。

 それは彼が刑事事件ではなく、行方不明者捜索のような事案において、その力を発揮していたからである。


 警察犬には二種類ある。ひとつは直轄警察犬。警察組織が直に飼育する警察犬である。

 警察犬の出動が必要と認められる事件を認知した際、真先に出動するのが彼らである。

 彼らは言わば犯罪捜査のエキスパートであり、また勇敢で従順だ。しかし、その数は限られている。多種多様に渡る事件・事案において、彼らの出動はその軽重によって左右された。


 仕方のない話として片付けるのは些か無理があろうが、幼い子供が被害者と思料される略取誘拐事件と、高齢者の行方不明事案が同時に発生したとして。彼ら直轄犬が出動するのは、もちろん前者であった。

 事件に大きいも小さいもない。それは警察組織に身を置く者ならば誰もが聞いたことのある美しい言葉であるが、しかし実務となると話は別。社会的反響の大きい事件を優先しなければならない、それは警察のジレンマである。


 ならばこの場合、高齢者の行方不明事案は無視せざるを得ないのか。答えは否である。そんな時に出動するのが、件のアルのような嘱託警察犬だ。


 嘱託警察犬は、民間で飼育されている優秀な犬を選抜し、事案が重なった時に要請する警察犬だ。警察犬の名を冠する以上、厳しい試験を潜り抜けなければならない。

 アルは嘱託警察犬になるべく、ドッグスクールで厳しく選抜された優秀なジャーマン・シェパード・ドッグであった。


 幼少のころ、アルはどこにでもいるような、ブリーダーの事が大好きな無邪気な犬であった。お気に入りの、ロープで作ったおもちゃを咥えていつまでも離さず、それが見つからない時には悲しく吠えるような、甘えたな犬であった。


 しかし訓練の過程で、天賦の才を有していることが判明する。前述の通り、アルはその足跡追求能力が頭抜けており、対象者──つまりは行方不明者──が通過した道に、僅かに残った臭気の痕跡をどこまでもどこまでも追跡することができた。


 そしてアルは、決して迷うことがなかった。対象者が普段から使用している、寝間着や枕などから得た原臭げんしゅうを嗅ぐや否や、一直線に振り返ることなく、対象者の元に辿り着くことが出来る稀有な警察犬だった。


 行方不明者捜索なら、アルに勝るものはいない。直轄警察犬の指導手にさえ、アルは一目置かれる存在であった。


 アルの功績を語る上で外せないのは、山中で五歳の少女が行方不明となった事案であろう。

 年少者の行方不明事案は、事件性を考慮して秘匿に捜査が開始される。もちろん直轄犬もその捜索に従事することとなり、アルは応援要員としてその事案対応に当たっていた。


 事案概要は、山間部で祖父母と山菜を採取しに来ていた際、祖父母が僅かに目を離した隙に対象者が行方不明となった、という事であった。

 人通りの殆どない山間部ということで、事件性は当初から薄いとされていたが、そこは熊が出没する山として知られていた。


 直轄犬と、嘱託犬のアルが同時に捜索を開始した。原臭は、対象者が行方不明になる直前まで着用していた上着であった。


 アルは指導手の命を受け、矢のような速さで山を走りだした。いつもの通り、振り返ることなく一直線に。普段は温厚なアルが、珍しく息を切らせて走る様相に、指導手は違和感を覚えたという。


 それから十分と経たずして。アルは対象者を発見する。しかし、対象者から僅か数メートル離れた位置に、対象者の身体の大きさの三倍はあろうかという熊が居たのだ。

 秋の熊には、凶暴な個体が混じる。指導手が僅かに手綱を握る手を緩めてしまった瞬間、アルはその手を離れ猛然と走り、熊の前に立ち塞がった。

 普段吠えないアルが、身を挺して懸命に吠える。そしてその熊を見事、退けたのである。


 アルはこの功績を称えられ、警察官でさえ受賞することが難しいとされる「本部長褒賞」を受賞した。本部長褒賞を受賞した警察犬は数えるほどしかいない。

 アルは最も誇り高い警察犬となり、民間出身にも関わらず、県警に請われ、直轄警察犬として新たなキャリアをスタートさせることとなった。


 直轄警察犬となったその後も、アルは行方不明者捜索活動に専従した。そこでもアルは功績を挙げ続け、いつしかアルは、行方不明者捜索の第一者とまで呼ばれるようになっていった。


 警察犬の任務は、時に指導手が先に音を上げそうになるほど過酷である。険しい山岳の中、あるいは豪雨の中、または極寒の雪上でも任務は平然と行われる。しかしアルは一切弱音を吐かず、直轄犬となりその住処を県警本部の訓練所に移した後も、精力的に行方不明者を捜索し続けた。




 しかし。アルとて寄る年波には勝てず、気力も体力も次第に衰えていく。それは仕方のないことであるが、アルを衰えさせたのは年波だけのせいではない。

 アルの身体に癌腫瘍が発見されたのは、その時の事であった。


 獣医の見解によると、余命は一年よりも少し短いくらい。来年の桜を見れるか見れないか、ということであった。

 癌の発覚をもって、アルは惜しまれ、そして絶大な称賛を受けながら警察犬を勇退した。本部鑑識課では、盛大な勇退式が執り行われた。そこには以前、アルに褒賞を贈った、以前の本部長の姿さえあった。



 行方不明者を探し続け、自身の命を削ってまで人の命を救い続けた警察犬、アル。一度も迷うことなく、振り返ることなく、元来た道を戻ることがなかったアル。

 アルが打ち立てた記録は、未だに破られておらず、もしこの先破られることがあったとしても。アルと関わった人々の記憶に、いつまでもいつまでも残り続けるであろう。




 そんなアルは、次の桜が咲く頃まで生き続けた。優しく、桜の香りを含んだ春風に包まれて。大好きな、元の飼い主であるブリーダーの膝の上で、眠るように息を引き取ったという。


 彼の口元には、遥か昔。ブリーダーといつまでもいつまでも遊んだ、お気に入りのロープのおもちゃがあった。ブリーダーはずっと、それを大事に持っていたのだった。



 警察任務に従事していた際、一度も振り返ることなく、矢のようにまっすぐ、行方不明者を発見したアルは。

 その最後に、元の飼い主の元へとのであった。


 アルの生涯で、たった一度だけのUターン。それはとても、とても幸せなものであったに違いない。



 偉大なる警察犬、アルダリッヒ・フォン・ベルンヴァルト号の冥福を祈る。




【終】

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生涯一度のUターン 薮坂 @yabusaka

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