カメムシ少女

ユメしばい

亀山キコ

 快活だった俺の幼馴染みの亀山キコが、丘の上の物寂しい一軒家に移り住みはじめてから、様相が変わった。


 人と関わるのを避けるような不気味なオーラを発するようになり、たまに言葉を交わすときには無視できない異臭を漂わせる。あのが身の危険を感じたときに発するような、悪臭を漂わせるのだ。


 しかも夏に近づくにつれ、それは段々と酷くなっていき、やがて彼女はある日を境に学校に来なくなってしまった。理由は、クラスメイトはおろか担任に至るまで誰も知らず、今日で3日目となる。見舞いはいい口実だった。手土産はないが、前から気になっていた謎を解明すべく、俺は今、彼女の家に向かっている。


「確かこの家だったよな……」


 昼間でも薄暗く佇んでいるその家は、前に来た時とさほど変わらない様子だった。屋根の端や家の壁の至る所に、緑色の盾の形をした小さな物体が蠢いているのも同じだ。


 ブチュ。


「クッ……またか」


 カメムシだ。


 そう、この家は森が近いせいか、カメムシの巣窟となっている。


 あまりの強烈な臭いに顔をしかめていると、


「惣一くん、いらっしゃい」


「うわっ!」


 キコの母親が後ろに立っていたことに驚き、思わず変な声を漏らしてしまった。よく見ると、母親もずいぶん変わってしまったと思う。以前見たときはまん丸体型だったのに、今では見る影もなくすごく痩せ細っている。


 そう、娘と同じように。 


「キコが学校に来なくなったんで様子見に来たんですけど、風邪でもひいたんですか?」


「あら、お見舞いに来てくれたのね……キコが喜ぶわ。ぜひ上がって」


「は、はい……ではお邪魔します」


 母親の異様な目つきに一抹の不安を覚えながら、キコの自室へと案内される。


「キコ、惣一くんがお見舞いに来てくれたわよ」


 母親は俺を部屋に入れたあと、お茶を持ってくると言ってすぐに部屋を出た。彼女の部屋の中は、遮光カーテンに締め切られていて、明かりはそこから漏れ入ってくる太陽の光だけなので、とても暗い。キコは、いつものように不気味な笑みを浮かべながら、ベッドの上で横たわっている。


「突然邪魔して悪かったな。風邪そんなに酷いのか?」


「少し前から体調が良くなくて……でも風邪じゃない」


「なんだ違うのか。て、おい、無理に起きなくてもいいって!」


 キコは俺の制止を聞かず「大丈夫だから」と言って、咳き込みながら上半身を起こした。呼吸が困難なのか、だいぶ苦しそうに息をしている。

 それにしても蒸し暑い。壁掛けの扇風機が一生懸命に首を回して風を送ってくれているが、まるで涼しさを感じない。よくこんな部屋の中にいれるものだと感心さえ覚える。


「その様子じゃ当分の間学校は無理そうだな。みんな心配してたぞ」


「……嘘」


「え? そ、そんな事ないって。お前と仲良しの田中美咲だって心配してたし」


「嘘よ! 変な臭いがするって言われてからあの子とは口きいてないもの」


 扇風機の風で少しはマシだが、今もその臭いがしている、とは口が裂けても言えない。


「そ、そっか。まぁそんなに気にするなよ。とにかく落ち着けよ、体に響くぞ」


 キコは無言で頭を振り、


「それだけじゃないわ、この前だって……ゴホッ」


 と喋りかけてまた咳き上げる。相当具合が悪いのか、今度は一向におさまる気配がしない。俺は、居ても立っても居られず、背中を摩ってやろうと彼女に近づいてみた。すると突然、口から緑色の吐瀉物を盛大に撒き散らしはじめた。


 ――ッ!


 その状況を目の当たりにした俺は、何が起こったのかが理解できず、その場にぺたんと尻餅をついた。そのあまりの異様さに背筋が凍りつく。


 なぜそんなモノが体内から……


「オロロロロロロッ、オロロッ、」


 充満していく、胃液混じりの異臭に思わず鼻を押さえる。

 くさい。やはりあの臭いだ!

 内容物をよく見ると、小さい何かの物体が液体の中を泳ぐようにモゾモゾと動いている。


 カメムシだ。

 おびただしい量のカメムシがうじゃうじゃと蠢いている。

 食べていたのだろうか。それとも産んだのだろうか。


「うわあああ!」


 条件反射的に部屋から出ようとするが扉が開かない。何らかの力が加わっていることに気づき、体当たりするが扉はびくともしない。


「おばさん、キコが大変なことにっ! ここを開けてください!」


 扉が悲鳴を上げる一方で、母親の恨めしげに狂喜して笑う声が扉越しに耳に届いた。

 その声に悚然とさせられた。

 狂っている。

 この家全体が完全に狂いまくっている!


 頬に何か張り付いてきたので掴むとカメムシだった。最悪だ。慌ててどこかに放り捨てる。キコの胃の中からわんさかと出てきたカメムシが、水を得た魚のように部屋中をブンブンと元気に飛び回っている。視神経や脳組織にもガツンとくる不快極まりない臭いに鼻がもげてしまいそうだ。ここから一刻も早く逃げなければ。そこで再びキコが目に入った。なぜ、緑色の涙を流しながら天を仰いでいるのか、なぜ、奇怪な唸り声を上げながら翼を広げるように両手を開いているのかが分からない。と思った次の瞬間、ガマ口財布のように開かれた口の中から、普通のカメムシの何十倍もある巨大なカメムシが這い出してきた。


 一体何が起ころうとしているのだ!


 その巨大カメムシは、キコの口から身を半分ほど乗り出したところで、彼女を操るかのようにして体をこちらに向けて俺を見据えた。そして、細長く気味の悪い四肢をギチギチとさせながらこう言った。


アガガゴお前たち…;ギギアギア人類は|、。ロロロギググレア我々に支配される


 意味不明の言語なのに、なぜ自然と理解できてしまうのかが説明できない。この悪酔いしそうな臭気にあてられ、聴神経までやられてしまったのだろうか。


イイディバギリ時は満ちた、、。ヴディンディダ手始めに;、ボア殺す、・……オバエロお前を


 そいつはそう言ったあと、自分の意思で動かなくなったキコの体を操り、こちらに両手を向けた。

 この時になって初めて、心臓が早鐘を打ち続けていることに気づかされる。


 殺される。


 背中に戦慄が駆け抜けた瞬間、彼女の後ろにある窓に向かって身を飛び込ませた。体が勝手に反応したのだ。本能がそうしろと警告を発したのだ。ガラスの破片を撒き散らしながら、なんとか外界へとまろび出る。そしてそのまま一目散に走って逃げた。怪我をしているとか、靴を忘れていることよりも、追いかけられている不安で頭がいっぱいだ。一切振り返らず丘を転げ落ちるように走り続けた。方角なんてどうでもよかった。1ミリでも遠くへ逃げるために、1ミリでもあの異臭が届かない所へと向かって走り続けた。


 その事件があった翌日、ホームルームで、亀山キコが退学したと担任から聞かされた。


 キコはあの後どうなってしまったのだろう。

 死んでしまったのか、あるいは……未知の生物に体を乗っ取られたままなのか。


 あの巨大カメムシはこう言っていた。

 人類は我々に支配される、と。

 あの生物が地球外から来たのか、突然変異によるものなのかは知らないが、これからもやつの影に怯えて暮らしていかなければならないと思うだけで気が重くなる。手始めに殺すとまで言われたのだから。


 あれから更に数日が経つが、今のところ、これといって身を脅かされるようなことは一度も起きていない。だが、たまにあの嗅ぎたくもないクサイ臭いが鼻を打つことがある。そういうときは決まって反射的に後ろを振り返ってしまう。なぜなら、振り返るとそこに、大口を開けた亀山キコがいるのではないかと、つい疑ってしまうのだ。

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