最終話・とわの契りは雪の下に


 年中が冬であり雪が降り続けるこの街では、一年の経過を皮膚の感覚として捉えることが難しい。それでも近年では、ランタン祭りだとか白薔薇祭だとか催し物を増やすことで、人々は時節の巡りを体感しようとしている。

 ――白薔薇。雪薔薇とも呼ばれるその品種は、街が冬に覆われるようになってから作られたものだ。


 かつては春の陽気に薔薇の咲き乱れたこの街は、しかし流行病はやりやまいのためにやむなく冬に閉じ込められた。それでも街の人々は、薔薇への愛を絶やそうとはしなかった。

 そこには血の滲むような努力と執念があったに違いない。寒さの中、ごく限られた日照時間の中でも成長し、美しい白い花を咲かせる薔薇が開発された。この地は再び、薔薇の街として蘇った。


 六十年の時を雪の下で過ごしたハーヴにとって、街は目新しいものに満ちている。ゲルトとハーヴは喪った時を取り戻そうとするかのように、一時も離れることなく冬の街を巡った。

 一年が過ぎるのは驚くほど早い。やるべきことも多くあった。ハーヴのために祭りを楽しむことももちろん、ゲルトは屋敷に未練がましく残っていた家族のものを全て金銭に替え、屋敷を改築し銀細工の工場こうばとした。細工師としての志を持つものを集め、宿舎を併設した大掛かりな修練施設も作った。屋敷は見違えるほどの活気に満ち、灰色の煉瓦までもが生気を持ったように思えた。

 やるべきことは多くある。

 屋敷の庭に植わっている白薔薇の手入れはハーヴの仕事だ。再興の象徴である白薔薇を愛で慈しみ、合間を見てレース編みに勤しむ。生きることは、こんなにも楽しく満ち足りている。その充足感と、美しい純白の景色を網膜に刻む。


 そうして一年が過ぎ、全ての準備も整った。

 式を挙げるために必要な、レース編みのベール。銀細工のネックレスと髪飾り。ドレスは雪と同じ純白で、白薔薇のブーケも忘れない。

 昼に降る粉雪のように、薄っすらと化粧をする。頬と唇に僅かばかりのべにをさし、微笑んだハーヴは白銀に煌めいているようだった。

「綺麗だ」

 心からの称賛の言葉を贈り、ゲルトはハーヴに薄いベールをかぶせた。美はレースの下に隠され、恥じらうように少し俯く。ハーヴの手を取り、ゲルトは足早に街を出た。誰にも知られない、秘匿された式を挙げたかった。


 見守るものはイトスギである。寄り添うものは雪である。とても雪の中を行くべきでない薄着に身体を冷やしながら、動けなくなる前にと、二人はあの場所へ急いだ。昨晩掘ったばかりの細長い穴には、もう雪が積もりかけている。それを掻き出して、二人は土の上へと身体を横たえた。互いの顔が見えるように向き合って、白薔薇のブーケに手を重ねる。

 後悔も躊躇いもなく、二人は契りの言葉を口にする。


 夫として、妻として、ひとりの人間として、

 我らは互いを愛し、慈しみ、尊び、寄り添うことをここに誓う。

 然れば慈悲深き青き女神よ、我らの願いを聞き届けたまえ。


 我らの愛と尊重が、何ものにも侵されぬよう。

 雪下に眠る我らの子が、二度と孤独に震えぬよう。

 我らの愛が、根雪のごとく絶えることなきよう。

 我らの契りが、密やかなるまま、決して暴かれぬよう――。


 二人の上に雪が積もる。徐々に身体の感覚が失われ、寒いとすら感じなくなる。ゲルトはハーヴの手を強く握った。ハーヴも、強く握り返した。

「私は、よい父親になれるだろうか」

「なれるわ、きっと」

 大地の底から、シュウシュウと奇妙な音が響いた。土と雪の合間から、白く細い糸が伸びる。厳しい外界からの隔たり。糸はゲルトとハーヴを包み込み、寒さから彼らを守るように、純白の繭を形成する。長い眠りの中に意識が消え去ってしまう前に、ハーヴは歌う。


 眠れ、眠れよ可愛い子 お前の夢に遊びに行くわ 小鳥も母さんも遊びに行くわ

 眠れ、眠れよ可愛い子 お前の夢に遊びに行くわ 子猫も父さんも遊びに行くわ

 綺麗な薔薇を腕いっぱい 土産に持って遊びに行くわ……


「メイディ、もう、寂しくないわよ」

 ハーヴの囁きは、雪と繭の下に掠れて消えていった。豆粒のごとく小さな単眼のミトラだけが、イトスギの葉陰からその呟きを聞いていた。



 街の外れにぽつねんと立つイトスギの傍で、子供の笑い声を聞くことがあるかも知れない。それはきっと、父と母に慈しまれ、世界の果てしない寂しさからようやく開放された女の子の声なのだ。街を守る白銀の姫は、もう寂しくなどない。


 冬は継続する。街はいつまでも春を迎えないまま、しかし永遠の冬に押し潰されることなく逞しく、生活は綿々と紡がれていくだろう。



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白銀姫 深見萩緒 @miscanthus_nogi

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