ハッピー・バレンタイン


 夕暮れ時。

 階段の踊り場の上方にある小窓からは日差しが差し込み、足元を橙色だいだいいろに染め上げていた。どこかの窓が開いているのか、肌寒いそよ風が火照ほてった頬をで、私の髪の間をすり抜けていく。


「はぁ……はぁ……」


 一段一段、思いのたけを確かめるように、必死に踏み締める。運動不足の身体が悲鳴を上げ、肺も苦しい。だけど、この足は絶対に止めない。


 最後の踊り場を通り過ぎた時、ビュオオッと強い風が顔に当たった。

 普段は鍵がかかっていて開いているはずのない屋上への扉が、開け放たれている。そこから見えるのは、赤みがかかった空。その空へと飛び立つような勢いで、私は階段室を飛び出した。


「蔵本くんっ!」


 自分でも驚くくらいの大きな声。どうして彼の名前を叫んだのかはわからない。だけど、叫ばずにはいられなかった。


「え、遠野っ⁉」


 びっくりしたような声とともに、入り口付近にいた彼が振り返った。そしてその視線は、私の目から手元へ。


「遠野の手の、それ……」


 つられて、私も彼の右手にある、へと目が行く。


「なんで、蔵本くんが……?」


 驚き過ぎて、それ以上言葉が続かなかった。

 彼の手の中にあるは、夕日を浴びて赤く輝いているように見えた。


「遠野」


「は、はいっ!」


 今まで見たことのない真剣な眼差しが、私を射抜く。

 そしてそのまま、一歩ずつ……。私の元へと、近づいて来る。


 え、なに? なに……? どうしたらいいの?


 朝の時以上に、頭の中はパニックだった。緊張と驚きで身体は硬直し、ドクンドクン、と私の心音はどんどん大きくなっていく。


「これ……」


 手が触れるくらいの距離まで来た彼は、そっと右手を持ち上げた。


「あ……」


 その意図を理解し、私もゆっくりと左手を上げる。


 そして――カタワレチョコが、ひとつになった。


 カチリッ


 パズルのピースがはまったかのような、そんな音が微かに屋上に響くと同時に、突風が斜め下から吹き上がった。


「わっ⁉」


「きゃっ⁉」


 突き上がってくる強風に、思わず目を閉じる。


 でもそれは一瞬のことで、風はすぐに収まった。


 そして目を開けると――冬の冷え切った大気の中を、無数の光の粒が舞い踊っていた。


「わぁっ! きれいっ!」


 澄み渡った茜色の空の下。真っ赤な日の光を受けて一面に光り輝くその様子は、まるでダイヤモンドダストのよう。ゆったりとした風に吹かれ、屋上の端々でちらちらと揺れてはきらめている。


「すげぇな」


「ふぇ⁉」


 彼の感嘆の声が思った以上に近くから聞こえ、私は思わず飛び退いた。が、左手だけが固定されたように動かず、片手だけ前に伸ばした変な体勢で着地する。


 なんで……?


 さっきまでカタワレチョコを握っていた左手。ゆっくりと目を向けると、


「え」


 そこにチョコレートはなく、代わりに私の手よりも一回り以上大きい手と繋がれていた。


「ん……? んんんっ⁉」


 どうやら私の反応を見て気づいたようで、彼は慌てて手を離した。


「な、なんで……私の手を、握って……」


「ち、違う! わざとじゃないよ!」


 しどろもどろになりながら、彼は取り繕う。その様子がなんだか新鮮で、少し可愛くて。


「ふふふっ」


 思わず笑みが零れてしまう。


「あははっ」


 つられて蔵本くんも笑った。


 綺麗な光の粒が舞う夕暮れ時の屋上で、私たちは一頻ひとしきり笑い合った。

 やっぱり、蔵本くんと一緒にいると楽しい。落ち着く。もっと一緒にいたいって、笑っていたいって、思う。

 こんな時間を、もっと共有したい。

 何気ない日常を、一緒に過ごしていきたい。

 やっぱり私は、蔵本くんが――蔵本裕也くんが、好きだ。


「ねぇ、蔵本くん」


 今なら、自分の言葉で言える気がした。紙袋を持つ右手に、力が入る。


「ん? なに?」


「あのね――」


 それは、決して上手な告白ではなかったかもしれない。


 もっとシンプルに、スマートに言うはずだったのに。


 実際は、たどたどしくて、稚拙で、まとまってなくて……。


 ――ただ、それでも……。


 真っ直ぐ、正直に、一生懸命私は言葉を紡ぎ出した。


 ありったけの想いを込めて。


 最後の一滴まで勇気を振り絞って、伝えた。


「遠野、ありがとうな」


 蔵本くんの声が、私を包み込む。


「俺も、好きだ」


 確かな温もりを感じて、私は涙を流した。



    *



 学校の七不思議、というものを聞いたことがあるだろうか。

 勝手に鳴り響くピアノ。数が増える階段。放課後に動く人体模型……。

 そのどれもが非現実的で、オカルトチックな、ホラー要素のある話ばかり。


「ふふっ。想いが伝わって、良かったね」


 でも、どれかひとつくらい。眩しく綺麗な話があっても、いいんじゃないだろうか。

 そんなことを、目に涙を浮かべて喜ぶ彼女と、たこもびっくりするくらい真っ赤な彼を見て、思う。


「さて……もうそろそろ成仏しないと、か」


 バレンタイン・デー。


 甘くてほろ苦いチョコレートとともに、仄かな淡い恋心が成就するかもしれない、女の子のイベントデー。


 私は自分の想いすら伝えられなかったけど、みんなにはそんな思いをしてほしくない。

 そんな未練と思いから、毎年こんなことをしてきたけど……そろそろ潮時。腹の立つ変な噂も立ってるし。永遠に恋が実らないとか、そんな悲しい思いをするのは私だけで充分だ。


「仲良く幸せに、生きてね」


 光の粒が舞い散る、夕暮れ時の屋上。その階段室の屋根の上で人知れず消えた少女を、彼女らは知らない。


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カタワレをさがして 矢田川いつき @tatsuuu

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