メリー・マジカル・クソビッチ・ポピンズ☆佐嶋遊

逢坂 新

最終話:さよならメリー・マジカル・クソビッチ・ポピンズ☆佐嶋遊

 はじめに「牛肉たっぷりのコロッケあれ」、と彼女は言った。


 絶対に言った。全財産を賭けたっていい。なぜなら、コロッケという食べ物は調理するのがとても面倒だからだ。

 有識者各位はわかってくれると思うのだけれど、コロッケという料理は揚げ物というだけでも億劫なのに、下準備が異様に面倒くさい。ジャガイモをふかして潰し、ひき肉とタマネギを炒めてイモと混ぜ、溶いた卵にくぐらせ衣をつけて、ようやく揚げる段階までたどり着ける。片付けだって面倒だ。いわんやコロッケというものは、イスラエルの入出国審査と同じくらいに面倒な料理なのだ。

 そんなものをわざわざ作る理由なんて、僕の内側には断じてない。仮に僕が「ああ、今日はコロッケが食べたいな」と思ったとしても、そびえ立つジェリコの壁の前に、僕はスーパーで出来合いのものを買う選択を余儀なくされるだろう。だから、僕がコロッケを作るとき、そこには必ず二つのうちどちらかの理由が存在する。つまり、夕飯にコロッケを作らないと世界が滅亡するか、愛する人が強くコロッケを望んだかだ。

 かくして牛肉たっぷりのコロッケはこの世にあり、空を飛び、壁に激突した。


「言ってない」と、彼女は言った。

 哀れなコロッケの残骸はダイニングの真っ白な壁に前衛的な模様を描き、墜落し、床を汚していた。ウスター・ソースとケチャップを黄金比で混ぜた特製ソースはそこらじゅうにまき散らされ、冬の朝のようにしゃきしゃきの千切りキャベツはフローリングの上で息を引き取った。二人で選んだお気に入りのサラダボウルも木っ端みじんでその辺に転がっている。

「わたしは、コロッケが食べたいなんて、絶対に言ってない」

 嵐の稲妻みたいに眉間にしわを寄せ、憎しみがぱんぱんに詰まった声で彼女は言った。普段の彼女の超然とした美しさからは想像もつかないほど怒っている。まるでリーガン・マクニールみたいだな、と思った。劇中でやったみたいに、首が百八十度回転したっておかしくはない。

 こういった時、頭の隅で出来るだけ馬鹿げた想像をするのは、生活の知恵のひとつだ。彼女と一緒になって僕まで怒りだしてしまえば、僕たちはお互いに必要以上の傷を負ってしまうからだ。だから僕は心のはじっこを地下室に逃げ込ませ、ぎゅっとうずくまり、くだらない想像をして嵐が過ぎ去るのを待つ。それがいつものルーティーンで、その日は一九七三年版のエクソシストだった。想像の中の彼女はスパイダーウォークで階段を駆け下り、僕を追い回し、緑のゲロを吐く。でも仕方ない。悪いのは彼女ではなく、彼女に取り憑いた悪魔だ。

 僕は深く息を吸い、それがため息に聞こえないように注意深く吐いた。それから、出来るだけ丁寧に批判の色を脱色した、中立的な声を出す。

「作り直すよ。きみが食べたいものを作り直す。なんでもいい。僕はきみと晩ご飯が食べられれば、それで」

 媚びるでもなく、責めるでもなく、自分で自分を褒めてあげたいくらいに適切な声で僕は言う。

「その〝きみ〟って言うの、やめて。偉そうで鼻につく」

 なるほど、と僕は思う。彼女の言う通りかもしれない。

あそぶの好きなものを作るよ」

「いらない」と、遊は吐き捨てるように言い、席を立った。


 遊と初めて出会ったのは、高校の文芸部の部室だった。

 別に彼女が文学少女だったという話ではない。文芸部員だったのは僕だ。遊はその頃から色々な男と取っ替え引っ替え付き合っていて、そのときの恋人が文芸部の部長だった、というだけのことだ。

 遊は美しい女の子だった。黒くて長い髪は違和感を覚えるくらいにつややかでまっすぐで、肌はピアノの鍵盤のように白く、長いまつげがその目元に美しい陰りを落としていた。伸びやかな鼻梁にくっついた小鼻はすっきりとしていて、ほんの少しだけ上を向いていた。唇は薄く、ともすれば酷薄そうな印象もつきまとったけれど、表情は豊かだった。全体的に線が細く、首なんか簡単に手折ってしまえそうな儚さがあった。ときおり彼女の瞳をのぞき込むと、その奥に何か特別なものが息をひそめている気配があった。

 遊を見て僕が初めて思ったのは、「早く匿わなければならない」ということだった。冷たく無慈悲なこの世の中から、彼女を切り離してしまわなければ。そうしなければ、たちどころに彼女という存在は損なわれ、焼かれ、失われてしまうだろうという本能めいた予感があった。

 そしてその予想は、概ね的を射ていた。

 彼女は美しく、沢山の才能を内包した女の子だったけれど、ただひとつ、「生きる」ということが致命的に苦手だった。部屋を片付けたり、スケジュール帳に予定を書き込んだり、自分の感情をコントロールしたりするといった、些細なことだ。そういったことに関して、遊は小学校に入りたての子どもよりも不器用だった。頑迷で、そのくせ神経質で、頻繁にかんしゃくを起こした。

 ついでに言えば、救いがたいロマンチストでもあった。彼女はいつだって自分のことを完全に無謬だと思っていて、自らの性質が原因で起こったトラブルの数々はすべて外的な要因のせいであり、いつかどこからか正しい何かが白馬に乗ってやってきて、自分の周りのものごとを魔法のように正しく整理整頓してくれるのだと、固く信じていた。そんな他罰的で、傲慢で、なにも出来ない女の子だった遊が県内の公立高校に入学するまで生き延びてこられたのは、ひとえに彼女が特別に美しかったからだ。その本質をきれいさっぱり包み隠してしまえる程度には。

 遊は美しい女の子だったし、誰とでも簡単に寝た。そのことを隠そうともしなかった。

 だから思春期の男たちの大半は、彼女を目の前にするとあっという間に恋に落ちてしまった(実を言えば、僕もそのうちの一人だ)。

 一方で、同年代の女の子たちに関しては、はっきりと遊を忌避していた。そこには偉大なる美しさへの敬服と、理解不能な生き物に対する畏れの空気があった。高校三年間の間に百人を超える男たちと寝た気難し屋の女の子に対する反応としては、まあ穏当なものだったように思う。


   ◆


 遊が寝室に閉じこもってしまってから、きっかり一時間と四十五分が経過していた。

 僕はその間に割れた皿を片付け、壁と床を掃除して、それから頃合いを見計らってコーヒーを淹れる準備に取りかかった。ミルで細かく豆を挽き、ネルをポットに履かせ、香りが死なないように丁寧に注意深く湯を注いだ。やはりこれも、僕らにとってある種のルーティーンだった。

 儀式めいたコーヒーの抽出が終わる頃、遊が戻ってくる。リビングのドアを細く開け、その隙間から薄べったい影のようにするりと部屋に入ってくると、なにも言わずに僕の隣に座った。僕はあらかじめ用意していた二人分のマグカップにコーヒーを注ぎ、そのうちのひとつを彼女の前に置く。彼女は僕の肩に頭を乗せて、目を閉じる。五分ほどそんな風にしていた。呼吸の音はまるで眠っているみたいに静かで、それ以外の音はほとんど聞こえなかった。まるで遊が周りの音を全部吸い取ってしまっているようだった。彼女の閉じた瞳から、涙がつうと流れる音さえ聞こえるようだった。

「ねえ」と遊が言った。「わたし、あなたのこと、好きよ」

「うん」と僕が答えると、彼女は僕のシャツの袖をきゅっとつかむ。

「でも、ときどき、どうしてもこうなってしまうことがあるの。自分では、どうにもならないのよ。急に目の前が真っ赤になって、何かがまるで煮えた鉛みたいにせり上がってくるの」

「わかるよ。僕も月に一度くらい、そんな気分になることがある」

 なだめるように言う僕に、何度か首を振って「いいえ、あなたはならない」と遊は答えた。

「そうかな」

「絶対にそう」と、彼女はまた何度か頭を振った。

「空気が薄くなって、しんと寒くなる。どうにかしてそれを吐き出さないと、焼け死んでしまう予感があるの。我慢なんて、絶対に出来ないのよ」

 それから遊は身体の力を抜いて深いため息をついた。ひどく疲れているようだった。彼女は彼女なりにその内なる衝動と戦っていて、傷ついている。僕にはそれを感じ取ることが出来た。

「ねえ」と遊は言った。「わたしを嫌いにならないで」

 僕は答える。出来るだけ中立的な声で。

「もちろん」


 出会ってから五年が経っても、歳月は遊という人間に何の本質的な変化ももたらさなかった。変わったのはブラジャーのサイズくらいだ。身の回りのことはほとんどなにも出来ないままだったし、すぐにパニックを起こした。そんな風だから、遊は人間社会には当然のようになじめなかった。

 そもそもの話として、高校に三年ものあいだ通えていたこと自体が、神さまの起こした素敵な奇跡みたいなものだったのだ。必然的に、僕は遊と社会をつなぐ窓口のような役割を担うことになっていた。


 ふたりで暮らすようになってから、僕は僕たちの生活のために、高級コールガール・クラブの雇われ支配人をしていた。

 簡単に言えばタレントやスポーツ選手、国会議員なんかのハイソサエティ向け会員制デリバリー・ヘルスで、何があろうと顧客の秘密を厳守するというのが売りだ。会員たちは厳正に審査された地位と金と信用を持つ人物たちで構成されていて、在籍する女の子たちも、ゴージャスで教養の深い、ハイクラスの女性ばかりだった。

 支配人と言っても、やることは女の子のスケジュール管理と配送、それから金の勘定くらいで、内容自体はドミノ・ピザで働くこととそう大差のないものだったし、そのくせ給料はその数十倍以上高かった。


 この仕事に就くまで紆余曲折はあったけれど、それについては割愛する。

 この話は遊の話であり、僕や姫川大炊おおいの話ではないからだ。

 姫川は僕の雇い主で、いつも高級そうなスーツを着て、車一台は買える値段の腕時計を巻いていた。全体的に知的で洗練された印象の男だったけれど、瞳の奥には反社会的な人間にありがちな、色濃い攻撃性が渦巻いていた。彼は自らが内包する暴力を覆い隠そうとしているかのように女物のトワレを常用していたけれど、客観的に見てそれは成功しているとは言いがたかった。

 姫川は〝コールガール〟という呼び名に強いこだわりを持っていた。

「こういうのは高級感が大事なんだよ。デリヘルとかデリ嬢なんて言ったら、安っぽいだろう? 俺たちは一晩の夢を売るんだ。わかるか? ディズニー・ランドでチュロスを買うのと一緒だ。客はチュロスだから買う。お前、ディズニー・ランドで揚げパンが売ってたって買わないだろう? たとえチュロスと揚げパンの成分表示がほとんど同じだったとしてもだ」と姫川は言っていて、それについてはよくわからないし、どうでも良かった。どうあれ本質的には女衒でしかないからだ。

 僕はただ、遊をこの世の中から隠してしまえるだけの金が稼げればよかった。適切なピザを適切な手順で客に配達するだけだ。ピザでもチュロスでも揚げパンでもいい。それは大きな問題じゃなかった。


 喜んでいいことなのかわからないけれど、僕はこの仕事に向いているようだった。

 僕は真面目に働いたし、知る必要のないことに首を突っ込まなかった。聞かなくていいことは聞かなかった。女の子たちからの評判もまずまずだった。後から知ったことだけれど、風俗店の管理者としては、僕は結構珍しい部類の人間らしかった。

 余計なことをしない、という一点において、姫川は僕のことを気に入ってくれていた。彼は敵対する相手ではない限り面倒見のいい男だったから、組織と掛け合って、僕と遊が暮らす住居を手配してくれたりもした。

 クラブがあてがってくれたコンドミニアムは、ふたりで静かに身を寄せ合って暮らすには十分すぎる広さだったし、感じのいい笑みを浮かべたコンシェルジュまでついてきた。防音もしっかりしていたから、例えばコロッケを壁に叩きつけるような大げんかをしたって、どこからも苦情が入ることはなかった。

 とはいえ、何の問題もなかったわけではない。たまにはトラブルだってあった。


 姫川が電話を掛けてきたのは、月曜日の正午のことだった。もちろん、僕はそのとき深い眠りについていた。フィリピン近海の海底に沈没した英雄的戦艦のようにだ。僕は真夜中に美しい女の子たちをラグジュアリーなホテルやマンションに運ぶという、人類社会において重大な仕事をしているわけだから、平日の昼間に寝ていても誰かに文句を言われる筋合いはない。

 でもそんなこと、姫川はお構いなしだ。

心愛ここあが死んだ」と、電話口で姫川は簡潔に述べた。「傘差したままビルの屋上から飛び降りたんだと。クスリやってたらしいな」

 一瞬、姫川がなにを言っているのかわからなかった。驚いたというよりは、たたき起こされた脳みそが正常な回転を開始するのに単に時間が掛かっただけだ。僕は姫川の言葉を頭の中で十分に咀嚼し、音と意味をつなげてから、彼に聞き返した。

「メリー・ポピンズみたいに?」

「メリー・ポピンズは別にヤク中じゃねえけどな」と、姫川は笑った。

 心愛というのはいわゆる源氏名で、彼女はクラブで抱えるコールガールのうちのひとりだった。何度か個人的な雑談をしたことだってある。胸が大きくて、とても華やかな印象の女の子だった。だからといってお高くとまっているふうでもなく、表情が豊かで、ユーモアを好む娘だった。容姿さえよければそれでいい、という仕事でもなかったから、頭もとても良かったのだろうと思う。

 彼女が自殺したことについて、やはり特段の驚きはなかった。僕の人生において自ら命を絶った人は彼女が初めてだったわけではないし、仕事の内容自体も心をすりつぶしやすい側面を持つものだということは否めなかった。だからまあ、「残念だな」程度のものだった。けれど、それとは別に、実際的に困ったことになったのは確かだった。

「参りましたね」と僕は言った。

「それなんだ」と姫川は答えた。「予約に穴を開けることになる」

 当たり前の話だけれど、美人で頭が良く、高い教養を持ち、秘密を守れ、不特定多数の異性と性行為をすることに抵抗感を持たない女性というのは、とても少ない。大げさでなく魔法のような存在だ。言うなれば彼女たち高級娼婦はやはり性のメリー・ポピンズであり、だからこそ給料も高い。基本的に彼女たちは引っ張りだこで、スケジュール帳には目一杯予定が書き込まれてある。急に飛び降り自殺をしたくなったからといって、気軽にシフトを変わってもらったりは出来ないのだ。

「一応聞きますけど」と僕は前置きして、姫川に尋ねた。「私が代わりに行ってくるというのは?」

「問題外だな」

 姫川は一笑に付す。それもそうだ。メリー・ポピンズの代わりにミセス・ダウトファイアが来たら、誰だって怒る。

「冗談ですよ」と僕は言った。

「個人的になら、俺が買ってやってもいい」

「すみません、今回はご縁がなかったということで」

「冗談だよ」と姫川は笑い、それから言った。

「なあ、沢渡さわたりさ。お前が飼ってる女、いただろ? あいつと話させてくれよ」


   ◆


 遊を職業売春婦として車の後部座席に乗せるのは、奇妙な感覚だった。

 バックミラーごしに見る遊は、普段よりずっと綺麗に見えた。高価なドレスを着飾って、仕事用の化粧をしていたというのもその一因ではあるけれど、それがすべてではないようだった。

 伏せられた目に生えそろった長いまつげは、どこか遠い地の美しい植物のように見えたし、薄い唇には月のように淡く物静かな微笑が浮かんでいた。彼女は普段から現実離れした美人だったけれど、その日の遊は完璧だと言ってよかった。身体のすみずみまで生命力で満たされているのと同時に、明日消えたとしてもおかしくないような、奇妙な美しさが感じられた。

 遊はミラー越しに僕の目を見て、透き通る声で僕に尋ねた。

「不安なの? わたしがうまくやれるかどうか」

 そう言って、遊は微かに首をかしげる。額に落ちた細い前髪が彼女の動作に合わせて柔らかく揺れた。

 少し考えてから、「そうだね」と、僕は答えた。

「……彼らは、綺麗な女の子と寝られればそれでいいって訳じゃないから。どこか癒やしを求めてるんだよ。職業的性行為にはそれが求められるから、遊がそれをうまくやってくれるかどうかは、不安ではある」

「癒やし、ね」

「洗練された親密さとか、調和だとか、そういったことだよ」

 正直なところ、口から出任せだった。僕は単に、遊に知らない男と寝てほしくないだけだ。彼女は僕の言葉に「ふうん」とだけ返して、それきりしばらく黙り込み、少し唇をすぼめて窓の外を眺めていた。僕も黙って車を運転する。アクセルを踏み、ウィンカーを上げ、ハンドルを切り、赤信号で止まる。信号待ちの間はアニメ映画「カーズ」の名シーンを頭の中で垂れ流す。そういった動作に意図的に集中するようにした。そうでもしないと心が張り裂けそうだった。


 姫川の名誉に関しては僕の知ったことではないけれど、彼は遊に売春を強制したわけではなかった。ただ意思を確認しただけだ。遊は二つ返事で承諾した。本当に二つしか返事しなかった。「ええ」、「やります」。たったそれだけだ。コップに水を注いでくれるウェイターに「どうもありがとう」と声を掛けるくらいの気軽さだった。

 けれどでも、生きるためには水は必要不可欠なもので、遊にとって男とのセックスは水と同じものだった。そしてそれは、どうやっても僕が遊に与えることの出来ないものだ。

 ほどなくして、車は目的地に着く。シックなデザインのタワーマンションの最上階で、その日の顧客――若沼いわしという、世界的フォトグラファーだ――が待っている手はずだった。

 僕は車を降りて後部座席のドアを開け、遊の手を取って車を降りるよう促した。

「それじゃあ、行ってくるね」と微笑む遊の顔からは、緊張や不安は読み取れなかった。あるがままの自然体だ。

「頑張って」とは言う気になれなかったし、「気をつけて」というのも不適当だ(なにせ、ここまで連れてきたのは僕だ)。迷ったあげく、僕は「じゃあ、また後で」と見送りの言葉を口にした。


 彼女の背中が見えなくなるまで見送ってから、車を出す。僕は最寄りのコンビニに入り、トイレに駆け込み、げえげえと盛大に吐いた。神に生け贄を捧げる古代アステカの神官の気分だった。


   ◆


「あなた、本当は女の子じゃないんでしょう?」と聞かれたのは、遊と初めて出会ってから、すぐのことだった。

 僕は反射的に、「どうしてそう思うの?」と返したけれど、いま思えばこれは語るに落ちている。自分が女の子だと確信している女の子は、どうしてそう思うの? なんて聞き返さないからだ。


「思うんじゃなくて、わかるのよ」と、遊は言った。「ねえ、わたしは頭も良くないし、どうしようもなく空っぽだけれど、そういうのはすごくよくわかるの。目が違うのよ」

 形のいい爪で自分の目を指さし、それから言葉を続ける。

「端的に言うと、すごくいやらしい目でわたしのことを見ている。どうにかして組み伏せたいって思ってる。女の子でもそういう子はたまに居るけれど、あなたのはそれとも違う。男の子の目とまるで一緒」

 彼女の指摘に、僕は頬がかっと熱くなるのを感じた。言い返す言葉が出てこなくて、ただスカートの裾を握ることしかできなかった。

「きっと、神様が魂の入れ物を間違ったのね。そういう意味で、わたしとあなたは一緒なんだと思う」と遊は言う。

 僕はその言葉に、なんだか反発を感じた。どうしてだか、不公平なものの見方だと思った。

「……佐嶋さんの魂は、ぴったりの容れ物に入っていると思うけど」

「いいえ」

「……そうかな」

「きっとそうよ、沢渡千枝子さん。……わたし、本当はもっと薄暗くて、湿ってて、澱んでいて、深いモノなんだと思う」


   ◆


 若沼鰯が自殺したのを知ったのは、遊が彼とベッドをともにしてから、しばらく経ってのことだった。

 輝かしい経歴を持つ写真家の死は、それなりに大きく報道された。

 通勤ラッシュの時間帯、駅のホームから線路に飛び込んだらしい。

 生活に疲弊しきった労働者でぱんぱんになった満員電車は見事に彼を轢き殺し、いくつかのパーツに分解した。世界的芸術家らしくない、凡庸で面白みに欠けた死に方だった。


 一瞬だけ迷ったけれど、僕はそのことを遊に伝えることにした。少なくとも彼女は、彼の死についてのことを知っておくべきだと思ったからだ。

 遊は、僕が手渡したスマートフォンに表示されたニュース記事を一瞥し、眉をぴくりとだけ動かし、それから「そんなことより」と言った。

「見て」

 遊はテーブルの下から 大きな包みを取り出して、小さな子どものように微笑む。

 巨大なレンズのついた、本格的な一眼レフカメラだった。僕はカメラにはあまり詳しくなかったけれど、僕たちの預金口座から多くの血が流されたことは想像に難くなかった。

 僕はため息をついて、肩を竦めた。

「どうせ、すぐ飽きるよ」

「ふふん」と、彼女は否定とも肯定ともつかなく言って、ファインダー越しに僕を見る。


 やっぱり断っておくべきだと思うのだけれど、つまるところ遊は、奪う側の人間だと言うことだ。男たちは自らの最も大事なものを、彼女に差し出さずにはいられない。比喩表現ではなく、本質的な意味でだ。

 僕は彼女の上を通り過ぎた何人もの男たちを知っているけれど、そのことに初めて気づいたのは、文芸部の部長が彼女と初めて寝た後のことだ。

 彼は作家志望だった。僕は彼が書いた作品をいくつか読んだことがあった。幾分かナイーブな作風だったけれど、高校文芸部員の書いたものにありがちな背伸びした自意識や、鼻持ちならない高尚さはなく、テーマは新鮮で、文体は独創的だった。とても素晴らしい文章を書く人だった。

 けれど突然、彼はまともなものがなにも書けなくなってしまったのだ。

 どうしてそういうことが起こるのか、僕にはわからない。でもとにかく、彼の文章に対する初期衝動や才能といったものが、彼女と寝た翌日には、すっぽりとなくなってしまっていた。冬の朝の匂いや、夏の夜の悩ましさや、涙の温かさや、どうにもならない苛立ちや、女の子の美しさ。それらすべての物事を表現する言葉や気概が、すべて失われて鈍化していた。

 そのことについて、彼自身もひどく混乱していた。麻酔から目覚めた犬が去勢されたことに初めて気づいたみたいな様子だった。


 結局、彼はしばらくして、橋の欄干からメリー・ポピンズみたいに飛び降りて死んだ。

 遊が文壇の寵児としてもてはやされたのは、その翌年のことだ。彼女は短い間にいくつかの長編と短編を出版し、すぐにその全てに飽きた。

 それからはその繰り返しだ。彼女は彼女の人生に現れる多くの男たちとベッドを共にし、彼らの持つ最も大きな才能をひとつずつ搾り取った。男たちの反応は様々だったけれど、喪失感の大きさは、だいたい才能の大きさに比例した。あるものは自ら命を絶ったし、あるものは特段気にせず人生に戻っていった。どちらにせよそうなった場合、大概は遊の方が先に興味を失ってしまうのが常だった。


 さて、ここで一つの問題がある。

 これから遊が毎日相手をする男たちのことだ。高級コールガール・クラブで女を買うような、社会的に成功した男たちのことだ。一流の芸術家や、タレントや、スポーツ選手や、国会議員のことだ。僕が彼女から匿いきれなかった、彼らのことだ。

 組織に保存された顧客リストにはさまざまな才能がひしめき合っていて、これからどうなってしまうのか、そのことを考えると吐き気がして動悸が止まらなくなってくる。恐ろしくてたまらなくなる。

 まるで生贄を神に捧げた古代アステカの神官の気分だ。


 僕は、僕が正しく生まれてきたとしたら同じような結末を辿っていたであろう彼らのことを思い、そしてすぐに考えるのをやめた。

 神さまの手違いであれなんであれ、僕は間違えて生まれてきたことで、彼女の側にいられるのだから。


〈メリー・マジカル・クソビッチ・ポピンズ☆佐嶋遊・了〉

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メリー・マジカル・クソビッチ・ポピンズ☆佐嶋遊 逢坂 新 @aisk

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