後編

 洗濯物をしまい込み、片付いた部屋で再び本を開く。先に話を切り出したのは、賢の方だった。

「異動先は、どこだって?」

「……ベルリン。支社があるの」

「そうか。遠いな」

 賢は静かに言う。

 仕事での急な異動。珍しくもない。むしろ、よくあることだ。……本当に、ありふれたこと。

「ドイツなら、大学時代にいたことがあるから。支社にも何人か知り合いいるし、会話もなんとか……。適材適所だって言われたら、そうなのかなって。賢くんはどう思う?」

「そうだなァ……」

 穏やかに笑みは崩さないものの、どこか考え込んでいるようだった。

 それから、

「私、まだ扱いは独身だし」

 と、言ってしまった。

「……」

 賢は、何も言えない。


 バカか、私は。


 言ってしまった後、その恥ずかしさに耐えられなくなって、本を顔にかぶせ、その取り繕いようのない表情を隠した。

 彼氏と言われたら背中が痒くなるとか思っているクセに、ついこういう言葉が出てしまう自分が、情けない。


「お茶、淹れていいか?」

「え? うん」

 立ち上がり、電気ポットに水を溜め、スイッチを押した。すぐにぽつぽつと気泡の音がし出す。

 しばらくすると、問答が始まった。

「どのくらいになる?」期間のことだ。

「三年、かな」

「その頃には、お互い良い歳になっているだろうな」

「いきなりすぎて、少し戸惑ってる」

「無理もないな」

「でも、今の仕事も好きなのよね」

「知っている」

「……引き止めてくれないの?」

「言ったところで止まらないの、分かっているからな」

「でも、離れ離れになっちゃう」

「ああ」

「辞めとけとか、そばにいろとか……」

「言うほど反発する性格だろうに」

「だけどずっと離れていたら、私達の関係もどうなるかわかんない……」

「……」

「気持ちが冷めちゃうとか、仕事一本になるとか、本が恋人になっていたとか」

 これだけ言っても、賢は物静かだった。そして、言う。

「でも、続けたいんだろ?」

 そう言われ、声もなく頷いてしまった。つくづく、私はワガママだった。

 電気ポットから、カチリと音が鳴る。沸騰を知らせる無機質な音。

「……三年だったな」賢が、ポツリと言った。

「たぶん」

「だったら、迎えに行こう」

「迎え?」

「三年後……もし、三年でなくても、そのときが来たらおれがお前を迎えに行く。そして、ふたりでここに戻って来よう」

 また、彼の纏う空気に触れる。温かく、心地いい。

「そのころ、お前は仕事に打ち込んでいるのかもしれないし、今日みたいにだらしなく本を読んでいるのかもしれない。……もし、お前の心境がなにかしら変わっていたとしても、おれはお前を拾いにいく」

「賢くん……」

「だから、がんばってこいよ。応援しているから」

 私の、胸の鼓動が急に高鳴る。何か言うことも忘れ、目の前のこいつを見つめずにはいられなかった。

 それでも、目の前の賢は、洗濯物を畳んでいたときと何も変わらない、軽やかな笑みでいて、それから、すっと立ち上がる。

「お茶、淹れるよ」

 そうして台所に向かう背中を見ながら、思った。

 空気みたいなヤツって、こういうことなのかって。

 否定も肯定もしない。ただ、これからもそばにいることを約束してくれた。そこに居て、それが当たり前で、私にとってなくてはならないものをくれた。目には見えないけれど、欠かすことはもうできない。そんなようなもの……。


 ふたりしてお茶をすするだけの時間が、しばらく続いた。

「ひと段落したな」

「そうね。柄にもなく、賢くんに八つ当たりじみたこと言っちゃったのかも」

「むしろ、ものすごく紗綾らしいとおれは思ったけどね」

「そうかしら」

 開きっぱなしになっていた本にしおりを挟みながら、首を傾げる。

「照れ屋六割、生意気三割。そして最後に素直さ一割」

「何ソレ?」

「お前のことだよ。それから、ソレ全部ひっくるめて、わかりやすいヤツって形容できるのが、お前」

 そう言ってからかうような表情で笑っていた。つられて、私も笑ってしまった。つい、クセで後頭部を掻きむしる。ひそかに芽生えた嬉しさと、こそばゆい照れくささを感じていたものの、それを表に出すとなぜか負けになるような気がして、とりあえず笑っていた。なるほど、これが照れ屋六割、生意気三割……。


「迎えに行くからな」

「うん。その時は指輪を用意しておいて。他のサプライズでも可」

「予めサプライズを要求するのか……」

「だって、その時は結婚でしょ」

 すると、今度は賢の顔が耳たぶまで赤くなった。そして、少し間を置いてから、言う。

「ほら、それが紗綾の素直さ一割」

 ……なるほど。


 こいつは、いつも居る。きっとそばに居てくれるんだろうって思う。そして、一度そう感じてしまえば、もうその感覚はなくせない。そのうち、ずっと自分のそばに居てくれたらいいなって思うようになる。

 賢は、そんな空気のようなひと。


 だから、私はひそかに思い続ける。

 こうしてふたり、いつまでも。これからも一緒にいられたらいいな、と。

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そばにいる彼は空気のようで ななくさつゆり @Tuyuri_N

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