そばにいる彼は空気のようで
ななくさつゆり
前編
網戸ごしに優しく吹き入る風が、私の前髪を靡かせていた。その風は外から、春の匂いを引き連れてくる。
私は、自分の部屋の隅でカーペットに寝っ転がり、一冊の本を読み耽っていた。ページをめくり、空想を膨らませ、それで時が経つのを忘れられる程度には、溺れることのできる趣味を持てた自分に、かすかな幸福感を抱いている。ただ、今の自分を鏡で見ると、きっとちょっと残念な感じなのだろう。化粧もせず、重たい上まぶたに負けつつあるようなカオ。そんな、休みにも関わらず外へ行く気配が全く感じられない自分を見ることになる。そんな気がする。
読みながら寝返りをうつせいか、天と地がくるくる入れ替わる視線の先には、まばらに散らばっていた小物や放ったらかしの衣服。そろそろ埃が気になりだすテレビ台なんかもある。思いつきで床に小指の腹をすっと滑らせると、灰色の粒がたっぷり乗った。そんなだらしのない、私の部屋。
しばらく耽っているうちに、目を通していたページに陽光が降りかかってきて、その音の無い白いきらめきが目にちらついた。まだ、夕の色は帯びていないみたい。どのくらい経ったのだろうと、どこかに転がっているはずの目覚まし時計を探して、視線だけできょろきょろさせる。
すぐに見つかった。キレイに畳まれていた布団とそばで、おとなしく佇んでいるようだ。
「あれ?」
ここで違和感を覚えた。
不思議なことに、部屋がきれいさっぱり片付いている。
「……なんで?」と、素直な疑問が肚の底から漏れた。
すると、
「片づけたんだよ」
と、男の声が後ろから。
そう、この部屋には自分以外にもうひとり、こいつがいた。
「だらしないなぁ」
肩を竦めながら、乾いた洗濯物を抱えている。
「ごめん。ありがとう」
寝そべりながら感謝の気持ちを込めてみた。
「いいよ。いつものことだろ」そう言って笑いながら、そいつは洗濯物を畳み始める。
いつも思う。よく、笑うやつだなって。
「
「うん?」
「ひと段落したら、私も手伝うから」
「おう」
それからまた読書に戻ってみたものの、流石にさせっぱなしは申し訳なく、ふたりで洗濯物を畳み始めた。明らかに向こうの方が手際も整え方も素早く、少し悔しい。私の下着にも全く遠慮がなく、丁寧に畳んで引き出しに放り込んでいた。
「今更、知らんわ」
そう言って軽やかに笑う。どこか、楽しそうにも見える。
「そうね。今更ね」
対して、私は軽くため息をつく。こうして、こいつが一人暮らしの私の家にちょくちょく遊びに来るようになってから、どのくらい経ったかな。もはや、お互いの関係に恥じらいもへったくれもない。
「
「そんなもの、実家に置いて来たわ」
すると、賢が苦笑した。私はあえて、余裕ぶった表情をしてみせる。
たまに、ふと思う。こいつは一体、私の何だろうって。
彼氏と言われると、背中がこそばゆい。
ついムズムズしてお腹や背中を掻きたくなる。かと言って、それを否定する気はさらさらないし、そうなのだろうと思っていた。付き合いたいと宣言もされたし、それを受け入れたのだから。少なくとも、友達程度の距離感なら、お互いとっくの昔に踏み越えてしまった。
ただやっぱり、二人で街を歩いているときなどに、友人知人の輩から「もしかして、彼氏さん?」とか言われたりすると、もう本当に背中が痒くなったりするわけで。口に出すのはこそばゆいし面映ゆい。
どちらかと言うと、空気のようなヤツなんだと思う。
そう思うと、どこか納得できた。
恋愛小説や少女漫画のように、見つめ合うとか、熱い想いを交わし合うとか、そういうことはあまりない。ただ、お互い近くにいて、それが普通のことになって、ずっと続く。同じことをしていなくても、背中越しにいることがわかるような、そんな何か。私が寝転がって文庫本を読んでいたら、こいつは椅子に腰かけて漫画を読んでいるような、そんな空気を纏った心地よい時間がいつまでも続く。そのための、なくてはならない存在。私は、ふたりで居られるこの空間に慣れきってしまっていた。重ねてきた時間は心の中で記憶の塵となり、いまや山のように積みあげられている。
そのだらだらと続く幸せな空間と記憶に、私は今日、一区切りをつけなければいけない。そう思うと、なんとも気が重かった。
この時間を、これからどうしようか。その決着を、賢とふたりで話し合うのだ。
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