第2話

魔法に用いる花や薬草の香りが立ち込める部屋の奥にぽつんとたたずむ、古ぼけた姿見の前に魔女は立った。


降り積もった雪色の髪と、蝋でこしらえような頬は揺るぎもしない。

純度の高い紅玉をはめたような瞳も、同じだ。


「……だめです、これでは」


そう呟いてから、彼女は取り掛かる。

頬をつねる。つねる。つねる。

しばし、自分の表情筋と無言の格闘を繰り広げた後に。

「……さっぱり笑えません」

無表情のままがくりと肩を落とした。


それから、はたと気づく。

蝋人形のごとく青白い魔女が、無表情で自分の顔をつねり続ける姿――

これは傍から見れば、かなり不気味というか怖い光景ではなかろうか。


「……今日はここまでにしておいた方がよさそうですね」

 とりあえずやめることにした。


ふと顔を上げて、

「そういえばそろそろ彼が来そうですね」

と独り言を漏らし、いそいそと出迎える準備をした。


こんな風に、誰かと会う時間を心待ちにすることなど今までなかった。

今まで誰かと会って言葉を交わした結果、得られた感情は憤怒、悲嘆、後悔ばかり。

だからこそ、今まで人と接することをなるべく避けてきた。


それは傷つけられて臆病になったというより、単に怠惰だったからかもしれない。

陰気に黙りこくって心を閉ざして生きるのは、ある意味でひどく楽だ。

冬枯れの森を包む空気みたいに冷えて乾いた気持ちで、過ごすのはある意味で安心だ。


けれど、あの春の日差しみたいな笑顔を向けられたら、もう冷えた気持ちで過ごすことはできそうにない。

彼に抱く感情は、憧れであって恋愛――ではないのだろうとは思うが、はっきりとは断言できない。

何せ魔法の知識のみ豊富で、それ以外はからきしだ。

だからこそ、これからゆっくりと知っていきたい。そのためには、もっとうまく他者と交流することを身につけたい。

そう考えつつ、彼の到着を待ちわびていたが――


「はい、これ」

 出会い頭に少年から渡されたそれを、魔女はまじまじと見つめ

「……何ですか、これは?」

「スミレの花だよ」

「それは見た時に分かりました」


夕暮れ時の空のような、青みの強い深紫色の花弁を眺める。


「……これをなぜ私に?」

「ここに来る途中に沢山咲いているのを見かけたんだ。昨日、夕暮れを見ていた時の君の顔を見て、紫色が好きなのかな・・・て思って」

「……そう……ですか」

 言うべき言葉を探しあぐねて、魔女はただ宵の空のような色の小さな花々を眺めた。


「……あの、ひょっとして嫌いだった?」

「い……いえ、そういうわけではありません」

こういう時はどうするのだったか。何を言うべきだったか。

戸惑いと焦燥に駆られて、思考は熱く濁ってどうすべきか分からない。



「そ……それでしたら」


と、自分の庭を見渡す。魔法を併用して育てたたくさんの花や野菜や薬草があふれかえっている。

 その中の一つを摘み取って差し出す。


「ど……どうぞ、差し上げます」

「……え?どうして?」

「そ……その、お礼というか代わりというか・・・」


晴天のような明るい色合いの勿忘草を差し出したまま、魔女はおどおどと言葉を絞り出す。

沈黙が流れてその場を満たす。


どうしよう。的外れなことをしてしまっただろうか。こういう時どういう行動をとるのが正解だったのだろうか。

思考はますます熱を帯びて空回りして、どうすればいいのだろうと半ば狼狽しかけた時。


「そっか……ありがとう」

 

優しい手つきで花を受け取ってもらう。少年の言葉を聞いた時に、ぱっと顔を上げて


「い……いえ、こちらこそ」

「ん?」


「あ……ありがとうございます」


 私と親しくなってくれて。

 私に誰かと接する楽しさを教えてくれて――と伝えたかった。だけどその言葉がどうしても口から出なかったので、代わりに別の言葉を紡ぐ。


「お花をくださって」

「気に入ってくれた。じゃあ、今度来るときも積んでくるよ」



少年を家まで送り届けた後に、家で魔法薬を調合している時も、少年の笑みが脳裏から消えない。

自分もあんな風に笑えたらいいな。あんな風に素直に、屈託なく他者への好意や感謝を伝えられる顔に。


試してみようか。そう思い、約束の時間通りに薬を受け取りに来た依頼人に言葉をかける。

いつもは無言で、なるべく目も合わさぬようにしているのだが。


「その……どうぞ。お大事に」

「……!」


はじかれたように目を見開く依頼人。愕然とした表情のまま、逃げるように走り去っていく。


「あ……」

どうしよう。うまく笑えず、ぎこちなくて不気味な表情になっていたのだろうか。やはり慣れないことをするのではなかった。


魔女はしばしうずくまり、羞恥の念にさいなまれていたが。


「これしきの事でくじけていたら、彼に近づくことなどできません。・・・今度、彼に会った時に相談してみましょう」


そう呟いてから、思考を切り替えて部屋の掃除に取り掛かることにする。


脳裏に、少年のあの笑顔がよぎる。

あんな日差しみたいに柔らかくて温い表情ができるようになりたい。

そのためなら、失敗しても傷ついても、何でもやってみよう。少しずつでもいい。


そう思って、ふと空を見上げると、夕焼けに淡い薄闇が混ざり薄っすらとスミレ色に染まっていた。

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森の魔女と少年 緑月文人 @engetu

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