仔羊たちの血肉

夏野けい/笹原千波

豊かで罪のないお食事をお楽しみください

 採取室は低温に保たれている。


 収穫人が微小ロボットを放つ。俺の蓄えた肉が静かに回収されていく。

 麻酔はしないが、猿轡さるぐつわが必要なほどの痛みは生じ得ない。ナノマシンと名乗るには大きすぎるこの機械たちも、神経をよけ、細胞を無駄に傷つけない程度には小さく、鋭い。衛生法の定めにより使い捨てディスポーザブルである彼らの宿命は、俺なんぞよりよっぽど悲劇的だ。


 笑気も鎮静剤も使わないのは、俺の肉を喰う奴の為ではない。そんなものは加工の段階で無害化されることになっている。

 富裕層のためのブランド食材。俺の手首にはわかりやすく販売時のラベルが括り付けられている。金持ちが気にする不健康さを、すべて取り除いた商品。ストレス解消の名目で趣味やスポーツも推奨される。働かずして本ばかり読むという俺の願望は簡単に叶った。気分転換程度の運動を別にすれば、日常はページを繰る喜びに満ちている。


 そう、本だ。一般人には贅沢な品物。生活を切り詰めてまで買う奴は少ない。真実を握り潰す金持ち、あるいは知を諦めた貧乏人。世の人間の大半はその二つで説明できる。

 なぁ知ってるか? 金持ち用の食糧フードは動植物を喰う人間から作られるんだ。配給食クラスだって微生物を使う。完全合成の罪なき飼料なんて大ボラもいいとこだ。


 人間は初め、愛らしい動物を屠ることを嫌った。肉は大豆に代替された。


 人間はやがて、植物にも権利があると訴えた。野菜や穀物は、微細な生き物の寄せ集めに変じた。


 人間はついに、命を奪ってまで生きることを恥じるようになった。そしてヒトは自らを喰らうようになった。


 屠らずして肉を取る。それも家畜となることを望んだ人間から。殺しの罪を負うことなく食糧を得るには、最適の方法。


「処置は終わりました。居住エリアにお戻りください」


 採取口の小さな傷にテープを貼って収穫人は言った。俺の肉の品質に異常はないらしい。


🐑


 図書室には先客がいた。若い女だ。冷房が効いているとはいえ、夏らしくもなく露出の少ない服装、長い髪。分厚い本を開いている。こいつも文字を求めてここに来たのだろうか。

 そっと紙面を覗き込む。


「聖書、かよ」

 こんな世の中でも売れ続けている例外的な本のひとつ。文字数の割に安価。この国じゃ珍しいが。


 女は手中にある小型のディスプレイ端末を示す。

『はい。御言葉みことばを声に出せずとも、触れることはできますから』

 口がきけないのか。女の胸には指先ほどの、銀色に輝く十字架クロスがある。


「若い女が来るトコじゃねぇだろ。一歩入れば一生家畜だ」

『私にできることが、他に思いつかなかったのですよ』

「神に仕える身なんじゃないのか」

『福音を告げ伝えるべき声を失ってしまった今、私に何の力があるでしょう』

「酔狂にも程があるな」


 女は目を伏せる。図書室の柔らかな光が宗教画めいてその白い顔に影を生む。唇が震えたが、浅い吐息のほかは出てこないようだった。

 かわりにディスプレイは語る。


『私の身体を施せるなら、誰かの生きる糧になるなら、それがいいんです。今まで、あまりに弱くて、迷惑をかけてばかりで』

「生贄の仔羊より仏教の逸話が似合いそうな話だな」


 口が滑った。慌てて言葉を継ぐ。


「すまん、信仰に口を出すつもりじゃなかった」

『いいんです。人は不完全なものですから。私も、あなたも』

「そうやって赤の他人の罪を全部背負って生きるのかよ」


 物を喰うという罪さえ一人で受けるつもりかよ。俺は俺のためだけに、怠惰の罪を極めるためにここにいるってのに。


「庭にユリが咲いてたな。お前の部屋、どこだよ。持っていってやるよ」

『もったいないお話です』


 真白きユリ、純潔、聖母の象徴。俺はむしろ、神よりお前を崇めてみたくなった。そう言ったら、笑うだろ?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

仔羊たちの血肉 夏野けい/笹原千波 @ginkgoBiloba

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ