月色の夏

月澄狸

一話完結

 これはある人の元へ届けられた小さな記憶の物語だ。



 地を焦がすようなアブラゼミの声が響く中、新築のとなりの空き地で背の高い草たちがさわやかに揺れていた。

 草たちは不思議な力を持っていて、日々鳥や虫と言葉を交わしたり、空を泳ぐ雲に声をかけたり、はるか遠い海を眺めたりして楽しく暮らしていた。


「この間、私についていたサナギからきれいなテントウムシが出てきたの。その子のことは幼虫のときからずっと見ていたから、『とうとう飛べるようになったのね』って嬉しくなって、一緒にお祝いしたのよ」

 通り雨のあとの空き地で、葉をキラキラと輝かせながら一本のセイタカアワダチソウがささやいた。


「それは素敵ですね。私も虫たちが羽化するのを眺めるのが好きなんです。自分の葉から飛びたっていくのを見られたら、それは感動的でしょうね」

 隣に生えているメマツヨイグサが返事をした。セイタカアワダチソウの名はクク、メマツヨイグサの名はリィといった。


「そういえば昨日の夜、となりの家の窓に初めてヤモリが来たの。『新しいニオイがする』『ガラスがツルツルできれいすぎる』なんてぼやいて落ち着かない様子だったけど、結局大きな虫を三匹も平らげて満足そうに帰ったわ」


 おしゃべり好きのククはいつも誰にともなく話しかけている。風やカラスが返事をしてくれることもあるけれど、大抵リィが話し相手になっていた。ククの話すことがリィの知っていることばかりでも、リィは今初めて聞いたかのように楽しそうに耳を傾けていた。


「リィはもう何回も花を咲かせているわね。あなたが満月の日に咲かせた花はすごく大きくていい香りで、特に美しかったわ。私、ずっと見とれてた。ああ、私も早く花を咲かせたいわ」

 ククがうっとりとしながら語っている。


「ククの花を見るのを、私も楽しみにしていますよ。咲いたら虫たちを呼んでみんなでパーティーをしましょう」

 リィが優しく葉を揺らした。



 ある曇りの日、ククたちの友達の鳩が空き地に舞い下りてきた。


「やぁ、今日も蒸し暑いな。水は足りているか?」


「夏に向けてしっかりと根を張っていたから大丈夫ですよ。雨雲もよく様子を見にきてくれますしね」

 リィが鳩を迎える。


「あなたはいつも一人なのね。鳩の群れが時々頭の上を通るけど、誰もここには下りてこないわよ」


 ククが鳩に言うと、鳩は地面をつつきながら答えた。

「他のやつらは駅とか公園が好きみたいだが、俺は好かんな。とにかく落ち着かないし、あんなところにいたら寿命が縮んじまうぞ。民家の屋根にたむろするグループもあるが、あそこもやっぱり苦手だ。俺にはここが一番だな」


 鳩はこのあたりに住んでいるが一人であちこち飛びまわるのが好きで、見知らぬ町や森のことをよく話してくれる。人間の動きにも詳しくて、大きな店ができたとか祭りや花火大会があったとか、ワクワクする情報を持ってきてくれた。想像力豊かな植物たちは、鳩に気持ちを重ねあわせ鳥になった気分で話を聞いているうちに、自分の翼で飛びまわりその目で色々な景色を見たような感覚になれるのだった。


 こんなふうに鳩やカエルやトンボと交流したり、犬や猫を眺めたり、人間の観察をしたりしているうちに穏やかなときは流れていった。


 焼けつくような暑さのある日、いつものように鳩がククたちの元にやってきた。しかしいつもは調子よく話す鳩が、この日は黙りこんで餌を探していた。そしてしばらくすると、ためらいがちにポツリとつぶやいた。

「お前たちは歩けないし飛べないし、ずっとここから動けないんだよな。……不自由だと思ったことはないのか?」


 ククがカチンときた様子で答える。

「不自由ってなによ。私は毎日ここで楽しみを見つけているし、そんなふうに思ったこと一度もないわ」


「そ、そうだよな。悪かった」

 鳩は目を白黒させつつ謝った。


 リィはその様子を静かに見守っていたが、日が暮れても鳩が帰ろうとしないので口を開いた。

「……どうしてあんなことを言ったんですか?」


 ククはこの暑さで疲れたのか、スヤスヤと寝息をたてている。

 鳩はゆっくりとリィの方を向き、話しはじめた。

「少し向こうの空き地がつぶされた。家が建つんだ。もしかしたら、ここもじきにそうなるかもしれない。だからお前たち、ここを離れてどこかへ引っ越さないか?」


「どうやって?」

 リィは落ち着いた様子で尋ねた。


「俺が運んでやる。今からやれば家を建てはじめるまでには、お前たちを根ごと掘りだせるはずだ」

 鳩はリィの根本をつつきはじめた。しかし砂が飛び散るだけで、鳩の力ではリィをここから連れだせそうになかった。


 リィは鳩をまっすぐ見つめて言った。

「……知っていましたよ」


「え?」

 鳩が顔を上げた。


 生ぬるく不気味な風が通り抜け、空き地の草たちを揺らす。それに合わせて雲がゆったりと動き、隠れていた月が現れてリィたちを照らした。

 月明かりの下、葉を煌めかせながらリィは静かに語る。


「ここに生まれたときから薄々気づいていました。そしてまわりに家が建ち、となりにも家ができた頃に確信したんです。私たちの命は長くはないと。もうじきここにも家が建つでしょう。そう感じるんです」


 鳩は返す言葉が見つからなかった。


「私はいいんです。あなたのような友達もできたし、たくさんの生き物たちと話ができた。花も咲かせられて、もう思い残すことはありません」

 リィが空を見上げた。月明かりのせいか、星はまばらだった。


「けれど、花を咲かせることを心待ちにしているククにそれを伝えるのは残酷すぎて……。できることなら、ククを広い野に連れていってほしかったですが」


 鳩が空気を吹き飛ばすかのように大きな声を出した。

「そう簡単にあきらめるなよ! 俺の力では無理かもしれんが、誰かに力を借りればきっとここから出られる。そうだ、犬を呼んでこよう! 大きな犬ならパワーがあるし、楽々お前たちを運べるはずだ」


 リィがたしなめるように言った。

「どうやってここに連れてくるんですか。それに犬さんでも無理だと思います。私たちを傷つけずに抜くことも、別の場所に植えてもらうことも難しいでしょう。どこかに連れていってもらったとしても、おそらくそこで私たちは枯れてしまいます。それに遠くの地に行けたとしてもそこが開拓されるかもしれないし、刈り取られるかもしれない。危険というならどこだって同じなんです。それより私はここで最後まで、まわりの草や虫たちと共に生きたいのです」


 しばらくの沈黙のあと、鳩がその場に力なく座り込んだ。


「なんでだろうな」

 鳩はボソリとつぶやいた。


「俺は種や虫を食って生きているから、たとえ猫なんかにやられたとしてもまだ納得できる。だがお前たちは誰一人傷つけたことはない。なのになぜ、お前たちが……」

 そこで鳩の言葉は止まった。


「誰一人傷つけない者なんていませんよ」

 リィが答える。


「私たちが大きくなった陰で、大きくなれずに枯れてしまった草もあるんです。私たちだって、他の草の分まで水や養分を吸って生きている。鳩さんと同じです」


 リィは月に向かってのびをしながら力を込める。その瞬間、ぽっと小さな音がして黄色く可憐な花が開いた。目を潤ませつつ見上げた鳩に、リィは穏やかな笑顔を向けた。


 柔らかな月光と優しい香りが二人を包み込んだ。



 数日たつと一部の虫たちがなにやら騒がしくなり、別の空き地へ移ったり遠くへ飛んでいったりした。不穏な空気を感じ取ったのか、ククが不安気にあたりを見まわしている。心配そうに飛んできたテントウムシに、ククは怯えた様子でささやいた。

「なにか起こるみたいよ。ここを離れた方がいいわ」


 野原へ向かって飛んでいったテントウムシを見送ったとき、鳩が飛んできて空き地に下りた。

「ねぇ、あなたもここに近寄らない方がいいんじゃない? なにかが起こるってみんなうわさしているわ。危ないわよ」

 ククが鳩に注意を促す。


 鳩は申し訳なさそうにうなだれた。

「俺は大丈夫だ。なにか起こってもすぐに飛べるから」

 そして妙に明るい声で

「そうそう、土産話があるんだ」と話し始めた。


 遠くにあるひまわり畑がきれいだったことやカブトムシを見つけたこと、田んぼの稲がよく育っていることなどどれも面白い話だった。

 ククはそれらを黙って聞いていたが、やがてなにかを察知したかのようにつぶやいた。


「私もひまわりだったら大事にされたかしら。花を咲かせて、みんなに笑顔になってもらえたかしら。たくさんの人が私を見にきてくれたかしら」


 明るく笑い飛ばしてほしくて不安を吐きだしたのだろう。しかし鳩はうつむいて涙をこぼした。


「ち、ちょっとなんで泣くのよ。怖いからやめてよ」

 ククは助けを求めるようにリィに声をかけた。

「ねぇ、変なうわさなんて気にすることないわよね?」


 リィは返事に困って視線を泳がせた。


「私、花を咲かせられるよね……?」

 ククは悲しげに尋ねた。


 リィは憂いを帯びた表情を浮かべたが、もうごまかせないと観念したらしく、葉を震わせたあと凛とした声で答えた。

「……クク。私たちの命にもうすぐ終わりが来ます。ここに家が建つんです」


「……えっ!?」

 ククはショックを受けて固まった。


 一瞬の静寂ののち、数々の思いがククの頭の中を駆け巡る。

 嫌な予感はしていたが、想像を上回る最悪の事態だ。この楽しい日々が終わるなんて。そして夢も叶えられぬまま、もうすぐ自分が死ぬなんて。やり場のない感情が沸きあがり、ククは思わず声を荒らげた。


「分かっていたの!? 二人とも……。なんで教えてくれなかったのよ!」


 鳩は申し訳なさのあまり、リィとククに背を向けた。


「すみません、クク。ククには一日でも長く笑顔で過ごしてほしかったから……、だから言い出せなかったんです」


 リィの言葉を聞き終わった瞬間、ククはわぁっと泣きだした。

 そしていつまでも泣きじゃくるククのとなりで、リィははるか遠くを見つめていた。



 日暮れ頃まで感情を爆発させたククは、少しスッキリとした様子で鳩とリィに謝った。

「……ごめん。あなたたちは気遣ってくれていたのよね」


 二人は黙って優しい眼差しをククに向けた。


「あなたたちのおかげで私は夢を持てたわ。そして長い間夢を見られた。これで十分幸せよ。ありがとう」


 この日も鳩は一番星が輝きはじめる頃までその場に留まっていた。そしてポツリポツリと話しはじめた。

「以前俺は駅や公園が苦手だと言ったが、実は居場所が見つけられなかっただけだ。群れになじめなかったんだ。だけど一人でフラッとここへ現れた俺に、お前たちは優しく声をかけてくれた。仲間として受け入れてくれた。……それが嬉しかった」


 リィはにっこり笑って言葉を返した。

「私も嬉しかったですよ。あなたはどこへでも飛んでいけるのに、私たちのところへ来てくれた。あなたの翼で、遠い世界を見せてくれた。そしてなにより、あなたの温もりが心地良かったんです。……出会ってくれて、ありがとう」


「お前たちの辛さとは比べようもないだろうが、俺も辛い。……また一人ぼっちになるな」


「きっと私たちは同じ気持ちですよ」


 涙ぐむ鳩の目から罪悪感を読み取ったリィは、明るい声で言った。

「大丈夫です。あなたはこれからも、広い空を心置きなく飛んでください。私たちはここから逃げられなかったんじゃない。自分の意思でここに生まれ、幸せに生きたんです。だからもう悲しまないで」


 鳩はそれを聞いて、心の重荷が下りた気がした。

「……ありがとう」



 空に星々が輝きはじめた。


 ざわざわとした空気の中、リィはぼんやりと考えていた。自分の根は今も水を吸い上げ、葉は穏やかに息づいている。病気になったわけではなく、水が足りないわけでもなく、確かにここに自分の命が存在するのに本当に終わりが来るのだろうか、と。


 ずっと黙っていたククが、となりでふぅとため息をついた。


「起きていたんですか」

 リィが話しかけると、

「眠ろうって気になれないわ」とククが涙声で返した。


 鳩は座り込んだまま静かに二人に寄り添っている。


「幸せとは言ったけど、やっぱり怖くて悲しくて、納得なんてできないわ。誰だって死ぬのは嫌よ」

 ククは震える声でつぶやいた。


「確かにそうですね。でも私たちはこの星に生きている以上、いつも誰かを追いやっている。もちろん人間も同じです。誰も悪くないし、誰かを困らせようなんて思っていないんです」

 リィはそう答えつつ静かに涙をこぼした。ククの恐怖を拭い去ってあげられないことが悲しかったのだ。


「分かっているわよ。でも私は、ただ咲きたいだけ。ただ風に揺られて歌って、みんなとお話ししていたかっただけなの。それを求める私がわがままなのかしら?」


「……」


 鳥も草も人も、ただ喜びに満ち溢れて生きていきたいだけなのに、それを願い続けるほど誰かの命をつぶしてしまう。歌い踊り、みんなで手を繋いで生きていくことはできないのだろうか。それを願う心はあれど、叶わない夢なのだろうか。

 リィはじっと目を閉じて未来に思いを馳せた。


 しばらくあたりがしんと静まりかえる。そのあとリィが急に大声を出した。

「見えました!」


 まどろんでいた鳩がその声に驚いて羽を震わせ、目をぱちくりさせた。


「ここに三人家族が引っ越してきます。お父さんと、お母さんと、女の子。優しい人たちです。女の子は空や森の声を聞ける子で、きっと鳩さんに話しかけるでしょう。仲良くなれるはずですよ」


「本当か……?」

 そう答えた鳩の声には、疑いや複雑な心境が表れていたが、希望の響きも確かに混じっていた。


「そうなの。リィが見えたって言うならきっと本当よね。リィは海や星を感じるのも得意だもの」

 ククは半ばあきらめたような落ち着いた声で言った。


 リィはなぜだかやけに嬉しそうに、二人に提案した。

「ねぇ、この家族に私たちみんなで歌をプレゼントしませんか? 家族がいつでも幸せな笑いに包まれていますように、この子が健やかに大きくなれますようにと願って」


「歌を? 今ここにその家族がいないのに?」


「女の子にはきっと私たちからの贈り物が聞こえます。そして彼女を守る力になるでしょう。花を咲かせる夢を、彼女の人生に託しませんか?」


「……それは名案ね」

「そうだな」


 二人はそう言ったものの気乗りしない様子だった。リィはそれに構わず、花の香りに思いを乗せて空き地の仲間たちを誘った。

 まず始めにリィが、透き通るような声でメロディを奏でた。月や太陽、星々に語りかけるように。風や雨や、命の巡りを慈しむように。

 そこにククと鳩の寂しげな声が合わさり、切ないハーモニーになった。


 まわりで泣き濡れていた草たちも、羽を広げ飛び去ろうとしていた虫たちも、そこにいたサナギやミミズたちまでそのハーモニーに声を重ねた。憂鬱で暗く重い低音や不安気な高音も加わり、その歌は不気味でありつつもゾッとするほど美しかった。

 そうしてみんなで声を合わせているうちに、みんな心が安らぐような感覚を覚えていた。胸の底から温まり癒されて、恐怖や悲しみがほどけていく。そうしてつぼみがゆっくりと花開くように、曲が短調から長調へと変わっていった。それは夜明けのようでもあった。


 歌声の輪は近くの公園に咲く花々や雲をも巻き込んで広がっていき、のびのびとした明るい合唱が町全体に響きわたった。

 それは引っ越してくる家族のみならず、すべての命への慈愛と、今生きている自分たちへの誇りで満ちあふれていた。


 歌声が夜を照らし続け、それは朝まで奏でられた。


 かすかなもやの中を朝が駆け抜け、柔らかな光が空き地の草たちを照らす。

 リィもククも鳩たちもみな、涙を落としながら「ありがとう」と声をかけあっていた。

 悲しかったのではない。今ここに命があること、そして出会えたことへの喜びがわき上がっていたのだ。



 それから長いときが過ぎた。


 鳩は新築の庭に植えられた若木の上から家の中を覗きつつ、物思いにふけっている。すると家の奥からかすかな物音と人の気配がして、鳩は我に返り姿勢をただした。


 家の中にいる女の子が、目を閉じ静かに耳を澄ませている。そしてあとから来た父親と母親に、

「この町には天使の歌声が響いているわ」とささやいた。


 少女はゆっくりと庭へ近づき、カラカラと掃き出し窓を開けた。少し顔を上げた少女と鳩の目が合う。鳩は身じろぎ一つせず彼女の目を見つめ返した。

 その女の子は人間のかたちをしていたが、瞳の奥に森や草原のような優しさがあるのを感じて、鳩は目をそらせなかった。


「こんにちは。あなたがリィとククのお友達?」

 すべてを受け取った彼女は、そう言って微笑んだ。


 鳩の体を軽い衝撃がつき抜け、思わず若木から落ちそうになるほど前のめりになる。


 初めて会ったばかりなのに、お互いの心に懐かしさのようなものが込み上げた。少女の中にリィやククたちの記憶が流れこんでいた。

 少女がその場に腰を下ろすと、鳩は半分口を開いたまま、吸い寄せられるように彼女の足元に歩み寄った。


 庭や家のまわりでは草たちからこぼれ落ちた種が芽吹き、優しい風に身をゆだねている。温かな日差しと若草の香りが、鳩たちを包み込んだ。

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月色の夏 月澄狸 @mamimujina

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