七夕の風が坂を下る

ななくさつゆり

七夕、ふたりで坂を下る

 夕方の下り坂。

 うっすらと筋になってたなびく雲の端々が、音もなく茜色の空に染まっていく。その空から地上に降りてくるぬるい風は、ふたり連れ歩く私たちを悠々と追い抜いていった。風は私たちを柔らかく撫で、そのまま坂を滑るように下っていく。夕焼けの夏空の下でふたり、私とコイツは歩いていた。

 コイツ……まァ、幼なじみ的な? ヘンな明るさだけが取り柄の——運動も得意かな——とにかく、一人だと、ふらりとどこかへ行ってしまいそうな、そんなヤツ。私は彼をタイチと呼んで、もう何年も経っている。

 そのタイチが隣で、

「七夕って、結局なんだったっけ?」

 と、トボけた顔でそんなことを言っていた。そうした他愛のない話を私にしょっちゅう振ってくる。私は大した抑揚もつけずに、軽くため息をつきながら言った。

「織姫と彦星が、年に一度だけ会うんでしょ? それで私たちは、短冊に願い事を書く」

 見ると、片手で担いでいるカバンはズッシリと重たそうだ。あの頃のタイチの成績なんて、吹けば飛ぶ雲みたいな軽さだったのに。

 帰宅の途にあって自転車を押しながら坂を下る私達は、他愛のない話に興じつつ、時間をかけて歩いていた。……主に、私が歩幅に気を払いながら、スピードを少しずつ下げて歩いているのだけれども、タイチはそれにすら気づかないと思う。


 でも、隣にいてくれるのは嬉しかった。一緒に歩いてくれるのも、嬉しい。


 そのとき、ふと横目に、溶けるように山の稜線へと沈んでいく夕日が映る。隣で歩いていたタイチの顔も視界に入った。空は透き通る青に、薄紫のグラデーションが帯び始める。気の早い家庭だと、そろそろ明かりを灯しはじめるかもしれない。そんな時分。

 ——夕焼けって、良いな。

 私たちふたりの帰り道。こうして一緒にいられる時間帯。そんな私の想いなんて露知らず、タイチはまだ七夕の話題を引きずっていた。

「なんで、それで願いが叶うんだろうな」

「そんなこと言われても、私は知らないわよ」

 沈んでいく夕陽は、遥か遠くの地平線——山の稜線の向こうへとその姿を隠しつつある。照りつける茜色の西日がしだいに弱くなっていく。

 ここで私は、ほんの少しだけ、勇気を振り絞ってみた。

「——そういえば、久しぶりよね」

 つい、消え入りそうな声になってしまった。そして、隣のコイツは言う。

「なにが? 」

 何食わぬ顔で、そう言った。

「……はっは」

 勇気が空ぶった。つい、ため息が出る。

 でも、正直に言えば、そう返事して来そうな予感はあった。

 それでも、二人で気軽に話すことができる。それだけで、私はふんわりと胸が浮き上がるような嬉しさを感じていた。

 私が、タイチとこういう風に、ふたりきりで話せるということ。

「そういえばさ」

 知ってか知らずか、重なるタイミングでタイチが言う。

「こういう話をするの、何年ぶりだ? 」

 なんてことを聞いてくるから、

「アンタがいきなり引っ越してから、二年三か月と六日!」

 と、私は言った。

「そこまで覚えているのか、お前……」

 やかましい。……それでも、そうね。

 本当に、すごく久しぶり。

 あの頃、ふたりでこうして歩くときはだいたいこんな夕暮れ時だった。当たり前と思っていたそんな日常が、あっという間に消えた。

 それが二年三か月と六日前のことだから。


 私とタイチの家は少し離れていて、でも、部屋のカーテンを開けたらなんとなくアテがつく。部屋らしき場所に電気が点いていたら、たぶんコイツはそこにいたのだろう。お互いが自宅にいてもそのくらいには存在を感じられる。そんな距離感で私たちの関係性は保たれていた。

 そんなタイチの家に灰色の幌が掛けられる。リフォームでもするのかと思っていた。それなのに、その幌が取り去られると、その家は知らない誰かの家だという。それから、両親に、引っ越したということを知らされた。

 最初は、すごくショックで、薄情だとも思った。

 突然いなくなって、何のお別れの言葉もなくて。当時の私は連絡を取れる端末も何も持っていなかったから、尚更だった。

 それから今日までが、二年三か月と六日だ。

 タイチと一緒に下校しなくなってから。コイツが、私のそばからいなくなってから。年数で言えば大したことなんて、ない。まだお互い、高校二年生になったばかりだもの。——それでも。


 毎日のように、一緒に帰っていた。

 ホームルームが終われば、私の席に来てくれていた。

 同じ習い事に通っていた。

 ふたりで初詣に行った。

 プレゼントはなかったけど、私の誕生日を覚えていてくれた。

 お弁当はうまく作れなくて……チョコレートは、お母さんに手伝ってもらった。


 傍から見たら、本当に些細なことなのかもしれない。だけど。

 そんな私の小ささを、笑うひとがいるのかもしれない。それでも。


 過ごしていたひとときはいつも充実していて、過ぎ去っていく時間をふたりで受け流していたような、穏やかだけど満たされていた記憶。

 いつも、失くしてから気づく。

 もっと早く——それが大切なものだったって、気づきたかったな。


 それから、二年三か月と六日。

 音沙汰もなく消えたコイツが、今度は突然現れた。同じ高校の制服を着て。


 暮れゆく七夕の空。自転車のカゴに鞄を放り込み、私はのんびり歩いていた。そこへ風に吹かれて流れてきたみたいに、さも当然のようなカオをして現れる。

 タイチは屈託もなく、笑っていた。


 ——なんで、いなくなったの?


 その言葉を吐きだそうとしたすんでのところで、押し留める。

 それからほんの少しだけ間を作って、最初の言葉を考えた。


 久しぶり?

 どうしたの?

 ……元気にしてた?


 ううん、たぶんそうじゃない。

 気軽に泣きたくもない。

 私は軽く息を吸って言ってしまう。


「待ちくたびれたわ」


 驚きと胸の高鳴りで、声がかすれていたのが自分にもよくわかった。けれど、おそらく向こうは気づかないと思う。

 コイツは案の定、こんなとぼけたことを言ってきた。


「ほら、七夕だから」


 ……何言ってんの。

 それから、ふたり同じ方を向いて、坂を下り始めた。



 坂を下り終わる頃には陽が沈みかけていた。ふたり分の足音と無機質につらつらと鳴る車輪の音だけが周囲に響いている。

 坂を下りきり、分かれ道に差し掛かった。

「ここまでだな」

「えっ——」

 ふたりの足が止まる。

 私の胸が、きゅっとしめつけられた。

 また、いなくなるの。

 そういう想いが脳裏に過ったとき、それを察したかのようにコイツが穏やかな表情で、私の瞳を捉えた。

「またな」

 柔らかい風が吹く。吹く風に包まれていくような気がした。それはとてもささやかで、気のせいなのかもしれないけれど。

 そして、私は答える。

「うん。また、明日——」

 そうしてまた一歩、今度はふたり違う方向に家路を辿っていく。

 何も告げられず、何も伝えられず、そのまま消えかかっていったあの頃の寂しさは、暮れゆく七夕の風がきれいさっぱりつれ去っていった。

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七夕の風が坂を下る ななくさつゆり @Tuyuri_N

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