第35話 旅立ち





 カミュは己の家を出る。


 まだ感情が高ぶっているイリーナに静かに微笑み、


「ちょっとだけ待っていて」


 とだけ伝えて出た。


 ただ、その表情は出来の悪い彫刻のような微笑みだった。握りしめて真っ白になった彼の拳にこそ、彼の本当の感情が現れていた。


『切羽詰まった状況で、どうしても何かを押し通さねばならないとき、人はどうすると思う?』


 ソルウェインの言葉がカミュの脳裏に甦る。


 他人事ではない。明日は我が身だと哀しげな微笑みを浮かべていたソルウェインの顔が一緒に甦っていた。


 彼は、今から己がすべき事を決めていた。


 向かう先は、本部。つい先日までブラムがいた場所だ。


 普段ならば、誰かしらと行き交うものだが、今は誰と会うこともなかった。自分をからかう声すら掛けられない。ひどく閑散としていて静かなものだった。


 カミュも、すぐにこれがどういう状態なのかを理解する。せざるをえなかった。


 本部に着くと、やはりドラゴとハスがいた。二人は少し疲れた顔をしながらも、今後の群狼について話し合っているところだった。


「おっさん、ハス姐……」


 二人は、正真正銘の本部と言える地下の部屋ではなく、扉を潜ってすぐにあるリビングともダイニングとも言える場所で眉根に皺を寄せた顔を突き合わせていた。


「……カミュか」


「よかったわ。あんただけでも無事で……」


 チラリと視線をくれるドラゴ。無理やり作った笑みを浮かべるハス。どちらも心の疲労具合がありありと分かる顔をしていた。


「人がいない……やはり、みんな去ってしまったのか?」


 カミュは、言葉を飾ってもどうしようもないと単刀直入に切りだす。


 ドラゴとハスは、一瞬顔を見合わせた。しかし、深い溜息を吐くと共に力なく頷いた。


「やはり団長を失ったのは大きいわね。なんのかんので、群狼は団長が率いていてこそってところがあったからね。それにうちの看板でもあったソルウェインもあんなことになってしまって……」


「イリーナから聞いた。ソル兄が虚無化したって……」


「なんで、あそこまでしようと思ったのか……」


「…………」


 首を傾げるハスに、カミュは口を噤んだ。代わりに、


「親父は?」


「何も残っていない。異形なる者が放った光の中に消えた」


 今度はドラゴが口を開いた。


「そっか……」


 カミュは、それ以外に言葉を見つけることは出来なかった。


 個人としても組織としても、替えの利かない大事な二人を失ったのだ。なんの心の準備もなく、目覚めていきなりその現実を突きつけられたばかりだ。彼とて心が整理し切れているわけではなかった。


 ただ、己がやろうと決めたことはあった。だからこそ、ドラゴとハスがいるであろう、ここにやってきたのである。


 少し考え込んでいるようなカミュに、ドラゴとハスは再び確認するかのように視線を合わせた。そして、ハスが口火を切る。


「……それで、カミュ。これからどうするの?」


 ハスは彼女には珍しく少し遠慮気味にそう口にした。


 一応、カミュが正当な組織の後継者ということになる。しかし、今のカミュには継ぐだけの力はないと思っていた。戦う力は申し分ない。彼の隠していた力は、彼女が予想していたものよりもはるかに強大なものだった。十分すぎるほどに団員たちの心の拠り所となれる力はあるだろう。


 ただ、今のカミュは、辛うじて残ってくれた者たちからの信頼がまったくない状態だった。先はともかく、今が持ち堪えられないのだ。もし、ブラムが生きていたら、本当に申し分ない二代目として期待できたことだろう。ただ、彼は時間を奪われてしまった。それ故に、すべての判断が『今』にならざるをえなくなったのが痛すぎた。


 ドラゴも個人的には受け入れたくない答えを出さざるを得なかった。彼は、この群狼が本当はどういう目的の組織かを知っている。しかし、それを維持するためには組織を潰すことになるというジレンマに雁字搦めとなっていた。その結果、沈黙せざるをえなかった。ただ、静かに言葉を交わすハスとカミュに視線を向けている。


 カミュは良かれと思って今の自分を選んできたが、それは負の遺産となって自分にのし掛かってきていた。


 カミュも、今の二人の心中は容易に想像できていた。細かい部分までは分からずとも、今の自分では団を維持できないと二人が考えていることだけはすぐに分かった。そして、それはカミュ自身の考えとも一致していた。


「……うん。俺ね……。団を抜けようと思うんだ。それで、二人に同意を獲りに来たんだよ」


 『戦士』は団を脱することを許されない。


 それは、カミュもよく知っている鉄の掟だ。なにせ団を脱走しようとした者たちを狩っていた本人なのだから、知らないわけがない。


 ただ、カミュがこれからしようと思っていること……そして、群狼のこと。諸々を考えると、これが最良だろうと思わずにはいられなかったのである。


「いや、カミュ。それは……」


 ドラゴが即座に反応した。だが、そう口にしたドラゴにも、何か代案があるわけではなかった。


 ハスの方は、そう口にしたカミュの目を静かにじっと見ている。彼女は、カミュが残った団員の信頼を勝ち取るまで、ドラゴに団長を代行してもらって……などとも考えていた。


 だが、カミュが団を脱することを希望している。その理由が気になったのだ。


 その理由次第では、認めてもいいと彼女は思った。彼女にしても、そしてドラゴにしても、カミュが群狼を裏切ることなどチラリとも考えていなかったからだ。


「うん。戦士が団を脱するってのは容易に許されるべきことじゃない。でも、現状それが一番だと思う。俺は群狼をおっさんに任せたい。少なくとも、いま俺自身が親父の子供だからと無理やり跡を継ぐよりは、ずっとマシなはずだ」


「……それで、あんたはどうするの? ただ荷物を投げて寄越すだけなら御免被るわよ?」


 ハスは、そうはっきりと言う。ドラゴも、その言葉に反するところはないのか、ただ静かにカミュの次の言葉を待っていた。


 二人の視線はカミュに集まったが、彼はそれに怯むこともなく静かに頷いて見せる。


「俺は、まずソル兄を探そうと思う。ソル兄をきちんと眠らせてやりたい。それを他の誰かに任せるのは嫌だ。だから……」


「そう……それから?」


「ジョベルを殺す。奴が何を思って異形なる者なんかに手を出したのかは知らない。しかし、その結果がこれだ。俺たちは泣き寝入りしなくてはならないのか? 冗談じゃない。奴には、この落とし前はつけてもらう」


「復讐?」


「ああ、復讐だろう。復讐の先に満足なんかないって言うが、満足なんかしなくてもいい。そもそも親父もソル兄も奴を殺ったところで生き返りはしない。奴を殺しても満足なんかいくものか。でも……」


「でも?」


「奴を生かしておくことだけは受け入れられない」


「……その為に群狼を捨ててでも?」


 ドラゴがようやく口を挟む。その目は、偽りは許さぬとばかりにカミュの目をしっかと凝視していた。


「いや、捨てるつもりはない。ただ、いま俺が残るよりも一度出た方が群狼にとってもいいのではないかと考えている。闇の紋章のこともある。あれだけに派手に人前で使ってしまったら、もう隠せない。必ず漏れる。群狼の現状とか色々考えると、俺がここにいるのは絶対にまずいと思う」


「……それは、今までのあんたと何か違うの?」


 ハスが再び口を開く。


「逃げるという意味では同じかもしれない……。でも、もう『逃避』をするつもりはない。これは『回避』だ」


「ふーん……」


 ハスは鼻を鳴らした。


 ドラゴは、二人が話している間もカミュの目から視線を外すことはなかった。そして、言う。


「……決着をつけようというのか?」


「つけられるものなら。いずれにせよ、今すぐに俺が群狼を率いようとするのは害悪でしかない。だから、おっさんに任せたいんだ。頼めないかな?」


 まったく揺らぐことのない眼差しで、カミュはドラゴの目を見つめる。それを見て、ドラゴは胸に溜めていた息をゆっくりと吐き出しながら言った。


「……預かるくらいなら、してやる。気の済むようにしてこい。ただ、俺は預かるだけだ。それだけは忘れるな」


「分かった。有り難う」


 カミュは頭を下げた。


 そして、そんなカミュにハスも言う。


「……そうね。なら、あたしの方も一つだけ条件をつけようかしら。カミュ、あんた一人で行くつもりでしょ?」


「もちろん、そのつもりだけど……」


 疲れた顔にうっすらと意地の悪い笑みを載せながら言うハスに、カミュは突然何を当たり前のことをと目を見開き尋ね返した。


「イリーナを連れて行きなさい」


「は?」


「イリーナを連れて行きなさい」


 間の抜けた顔で聞き返すカミュに、ハスは同じ言葉を繰り返す。


「いや、だって、俺の旅ってどう考えても安全なものにはならな……」


「そんなことは分かってるわよ」


「じゃあ、なぜ?」


「あんた、馬鹿だからね。しっかりしたお目付役がいないと、お姉さんとしては安心して送り出せないのよ」


「……そんな子供じゃあるまいし」


「あら、そう。なら、なおのこと連れて行きなさい。大人の男なんでしょ? だったら、どんな道を歩こうが女一人ぐらい背負ってみせな」


「んな、無茶苦茶な……」


「こんな状態の団をあたしたちに放り投げていこうってんだから、女一人背負えってぐらいの何が無茶苦茶なのよ」


「いや、そうなんだけどさ。いやいや、そもそもそれとこれとは違う話で……」


 慌てるカミュに、ハスはぴしゃりと言い放つ。


「違おうが違うまいがどうでもいいわよ。あたしの条件は、イリーナを一緒に連れて行くこと。銅貨一枚マケないわよ? どうするの?」


「うぐぐ……」


「うぐぐじゃないわよ。ほらほら、どうするの? あんまり待たせると、あたしの気が変わっちゃうかもしれないわよ?」


「……分かった。分かったよ! それも呑む!」


「そう。良い子ね」


「でも、イリーナが嫌がったら、この話はなしだぞ?」


「いいわよ」


 ハスは、そうならないことを知っていた。カミュが眠っている間は、自失していたイリーナに付き添っていたからだ。


 彼女が天涯孤独となり、その寂寥感に耐えきれずにいることを知っていた。本人は隠しているつもりだが、このうえ仲間以上の感情を寄せているカミュにまで出て行かれたら、それこそイリーナは心を折ってしまうだろう。それが分かっていた。波乱の道を歩む逞しさはあれど、これ以上の寂しさに耐えられる強さは今のイリーナにはない。だからこそのカミュに付けた条件であり、言葉だった。それに……。


 カミュは執行人の役目を果たすときのように、情を凍らせて目的を果たす覚悟をしていた。しかし、それはハスの要求によっていきなり頓挫した格好になった。短い期間ではあったが執行人をやった経験上、女連れであのテンションを保てる自信がカミュにはなかったのである。


 それを見抜いたがゆえの彼女の言葉だった。


 カミュはがっくりと肩を落とす。そんな彼を見て、ハスはようやく作り物ではない笑みを浮かべた。




 それからカミュは、ドラゴとハスの二人と話を詰めた。


 群狼はハスを副団長とし、ドラゴが率いる。


 彼らに任せている間は、すべての決定権を二人に委ねる。


 今回のカミュの旅立ちは、国や教会の手前、公的には出奔とする。


 闇の紋章の件に団を巻き込まない為にも、外に出ている間のカミュに団は関与しない、など。


 カミュは家に戻ると、薄暗くなった部屋の中でランタンに火も灯さずにぼーっと待っていたイリーナに団を出ることを告げる。それをドラゴとハスの二人と話してきたと。


 それを口にした時、イリーナは「そう……」とポツリと漏らした。


 顔から不安という感情すら消え、その瞳から光が失われたようになった。だが、その後でカミュから自分に付いてきて欲しいと伝えられると、彼女は静かに顔を上げ、再び泣いた。とめどなく溢れる涙で頬を濡らしながら、カミュに縋り付いた。


 彼の胸に顔を押し当て、声を殺して涙を流し続ける。


 押し殺しきれずに漏れ出た嗚咽が二人がいる部屋に静かに響いた。カミュも、彼女が満足するまでずっと抱きしめ続けた。


 そして、その日の晩に二人は拠点を出ることにした。


 持って行ける荷物など、ほとんどない。時間が経てば経つほど、ソルウェインの足取りは掴めなくなるだろう。それに、そもそも旅立ちに際して用意をしなくてはならないほど、二人は物を持っていなかった。イリーナがドラゴとハスに別れの挨拶を済ませれば、それですべての準備が完了したのだ。


「……じゃ、行こうか」


「……ええ」


 二人を見送る者はいない。出奔なのだから。見送りなどあろう筈がない。森の蟲の威嚇音……そして、森の魔力で変性していない虫たちの鳴き声のみが住み慣れた場所に背を向ける二人を送った。


 そんな二人の足下は月の光のみが照らしている。松明やランタンをつけることも、今は許されない。


 二人の旅立ちは、そのようなものとなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

聖なる闇の紋章と 木庭秋水 @akimi-koba

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ