第六話
昼食の席で『呪われた86号室』について耳にした数日後。
実験中の待ち時間、ただし五分ほどの化学反応だったから「他の作業をするには時間が足りない」ということで、自分の席で少し休んでいたら、S女史がやってきた。
「K君、今、時間ある?」
「ああ、うん。少しだけなら」
確かS女史は、先ほどまで別室にこもって、ずっと顕微鏡を覗いていたはず。
そう思って見ると、目元に疲労感が出ているようにも感じられた。
「じゃあ、今のうちに口頭で伝えておくね。今回のサンプルで一つ、面白いのがあったのよ。海馬の組織変異が、その一つだけ、やたらと大きいの」
S女史の言う『今回のサンプル』というのは、僕の研究で組換えウイルスを接種したマウスの脳だ。
病理学的な脳の解析なんて、僕が見ても「これ何か変わったかな? 一応そんな気がする」くらいしかわからないので――「どこがどう」と具体的に言葉に出来ないので――、病理学者の出番となるのだ。
「へえ。それは定性的じゃなくて、定量的に解析してみたかったなあ」
顕微鏡で病理学的に調べる際には切片サンプルを用いるが、これは脳を薬品で固めてから薄くスライスしたものだ。
一方、分子生物学的な解析では、薬品添加などしたら大変。ただし脳全体の形を保持する必要はなく、それどころか、すりつぶして溶解液にして――濃厚ドロドロの野菜ジュースみたいにして――、実験サンプルとする。
つまり、同じ個体のマウスからは、どちらか一方にしか使えない。それぞれ同一条件の別個体を用いることになるのだった。
その『やたらと大きいの』と言われたマウス、僕の方の分子生物学的な解析に回せていたら、色々と面白い数値が得られたかもしれないのに……。
「写真は撮っておいたから、後で整理して見せるね。もちろん、ラボのミーティングにも出すけど……」
「ミーティングより前に、お願いするよ。Sさんの解説付きでないと、僕には理解できない部分もあるから」
「わかった。じゃあ、いつも通りに」
軽く手を振って、S女史は立ち去ろうとしたが……。
「そうそう。今回の動物実験、あと一週間くらいで終わるのよね?」
もちろん、得られたサンプルを用いた解析実験そのものは、まだまだこれからだ。彼女が言っているのは、観察とかサンプル回収とか、動物実験棟で作業する段階のこと。
つまり、僕のスケジュールが「毎日二回、動物実験棟へ通う」という形で拘束されてしまうのも、そろそろ終わるという意味だ。
「うん。今週末は無理だけど、その次の週末なら、僕もフリーさ。買い物? それとも、遊びに行く?」
「……たぶん買い物。お願いね!」
そう言ってS女史は、自分の仕事に戻った。
僕たちの研究室は、緑豊かな自然に囲まれている。
……といえば聞こえは良いが、要するに、辺鄙な田舎町に位置しているということだ。
この町に鉄道は走っていないし、バスも普通に運行しているのは平日のみ。休日になると、極端に本数が少なくなる。
町外れにあるスーパーや、隣町のショッピングモールまで買い物へ行くには、車がないと不便な場所だった。
S女史は自分の車がないので、最初の頃は、隣の研究室の女性と一緒に買い物へ行くことが多かったらしい。ただし、その『隣の研究室の女性』自身も免許は持っておらず、彼氏の車で出かけるのだという。だから、
「なんだか二人のデートを邪魔しているみたいで、少し気まずくて……」
というのが、S女史の気持ちだったそうだ。
最近では、僕がS女史の買い物に付き合うようになっていた。いや買い物どころか、二人で自然公園や湖、川などへドライブに出かけることもあるくらい。
だが、別に付き合っている、という感じでもない。異性ではあるが気の合う友人同士、と言えば良いのだろうか。ここのように「車がないと不便」という地域では、こんな「恋人カップルではない男女二人組」というのも、結構ある関係らしい。
そんなS女史との関係だが、僕が動物実験をしている期間は、週末だからといって遠出は出来ない。一応、昼の作業と夜の作業の間を利用して、町外れのスーパーくらいまでならば行けたのだが……。そういう「作業と作業の間」では気分的に余裕もなく、僕はS女史に声をかけずに、一人で買い物へ出かけてしまっていた。
というわけで、来週末は久しぶりに二人で出かけよう、という話になったのだった。
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