続・深夜の動物実験「呪われた86号室」
烏川 ハル
プロローグ
いつ頃だったのだろうか、このガラス張りの『家』に、彼が連れてこられたのは。はっきりとは覚えていないのだが……。
彼は現在、数匹の仲間と一緒に暮らしており、水も食料も『家』に備え付けられている。そこまでは、特に不満は感じていなかった。
だが毎日二回、ちょうど彼が餌を食べて満腹になった頃。気持ち良く休んでいると、彼の『家』は大きく揺れる。『家』そのものが、どこかへ運ばれていくのだ。
これは彼にとって、心地の良い日課ではなかった。しかも、揺れが収まると、今度は『家』の天井が消失する。驚いて見上げれば、彼の『家』を覗き込む者と、目が合う。それは彼とは比べ物にならない、とてつもなく巨大な存在だった。
白い衣を――彼の体毛と同じ色を――纏った、大きな者。この『大きな者』のことを、彼は嫌いだった。なぜならば……。
この『家』に来て
その器具が注射器と呼ばれる医療器具であることも、彼が受けた仕打ちが注射と呼ばれる行為であることも、彼は知らない。ただ彼の中に『大きな者』に対する嫌悪と憎悪が刻まれただけだった。
この『大きな者』は日課として、彼や仲間たちの様子を観察する。その視線から逃げ回るように動いていれば、ただ見られるだけだが、おとなしくしていたら、それだけでは済まされない。巨大な指を、彼らの
彼らが弱っているのかどうかを確かめるためなのだが、そんな事情、もちろん彼にはわからない。ただ「じっとしていたら酷い目に遭う」とだけ刷り込まれており、彼は『大きな者』を目にする度に『家』の中を駆け回ることにしていた。
しかし。
そうやって元気でいることを見せつけても、その後に、また『大きな者』の手が伸びてくる。観察するだけでは飽き足らないらしく、『家』から別の場所へと移されるのだ。
移送先がデジタル計量器であることも、そこで行われるのが体重測定であることも、彼にはわからない。ただ、少しそこに載せられた後、また『家』に戻してもらえる、ということだけは学習していた。だから彼は、デジタル計量器の上では、静かにおとなしくすることにしているのだが……。
この日は、いつもと少し事情が異なっていた。
体重測定の後、『家』に戻してもらえたのは、いつも通り。だが少し経ってから、また『家』の外へと連れ出されたのだ。
不思議に思う
そこで麻酔薬を嗅がされて、意識を失った。
意識を取り戻した時。
おかしなことに、彼は高いところから、自分の体を見下ろしていた。しかも、その体は、頭と胴体の二つに分断されていたのだ。
死という概念も幽霊という知識もなかったが、自分の意識が肉体から遊離していることだけは、彼にも理解できていた。
そんな彼が見守る中。
あの『大きな者』が、彼の胴体をオレンジ色の袋の中へと投げ捨てる。続いて頭部にハサミを入れて、彼の脳を取り出した。
もちろん彼には、それが『脳』であることまでは理解できていない。ただ、何か大事なものを頭の中からくり抜かれたことだけは、何となくわかっていた。
彼の中にあった『大きな者』への憎しみが、激しい怒りに変わる。
今。
ちょうど『大きな者』は、脳だけ確保して用済みになった頭部を、オレンジ色の袋へ入れるところだった。袋の中には、彼だけではなく、仲間たちの胴体や頭部の残骸も詰まっている。
それに気づいて。
彼の怒りは、さらに膨れ上がった。だが肉体を失った彼に出来ることなど、もう何もない……。
いや。
霊体と化した彼には、幽霊独特の能力が備わっていた。
ポルターガイスト現象。
彼は『大きな者』が使おうとしていた道具へと意識を向けることで、それを『大きな者』の手から離れる方向へと、移動させることに成功したのだ。『大きな者』が動揺しているのが、彼にもわかった。
さらに、彼は意識を増幅させる。今度は、『大きな者』が座っている椅子を揺らすことも出来た。
「な、なんだ……?」
あの『大きな者』が、驚いて何か言っている!
愉快になった彼は、続いて『大きな者』を痛い目に遭わせてやろう、と思った。かつて彼を痛めつけた鋭い器具――注射器――があれば使いたいのだが、あいにく、今ここにはないらしい。
代わりに彼は、彼の頭部を切り開いた銀色の道具――ハサミ――を、『大きな者』の方へと動かしてみた。
「……馬鹿な! 誰だ! 誰がいるんだ?」
椅子から立ち上がって、『大きな者』が叫ぶ。さらに『大きな者』は、小さく呟いた。
「ポルターガイスト……」
彼の『家』よりも大きな、本当に大きな空間。『大きな者』が動物実験室と呼ぶその部屋から、『大きな者』は飛び出してしまった。
彼は『大きな者』を追う。
動物実験室の中の様子は、彼の『家』からガラス壁を通して、今までも見ることがあった。だが実験室の外――廊下――は、彼にとっては、完全に未知の世界。
そこは、細長い世界だった。だが細長いが故に、まっすぐ進めば良いのだと彼にもわかった。逃げていく『大きな者』を追うのに、迷うことはなかった。
すぐには追いつけなかったが、それでも意識を伸ばせば、何かが『大きな者』に届いた。『大きな者』の方でも、それは感知できたのだろう。
「……!」
恐怖で顔を歪ませながら、振り返る『大きな者』。それでも『大きな者』は、必死に逃げて……。
やがて。
廊下の突き当たりに達して、そこの扉を開けて、建物の外へと『大きな者』は走り去っていった。
それ以上、彼は追わなかった。いや、追えなかったのだ。
彼にとっては、廊下だって十分、未踏の領域だった。ましてや、建物の外へ出ることなど……。
一応、一瞬だけ『外』へ出てみた。だが、そこには信じられないほど広い空間があった。しかも建物の中とは異なり、自然の風が吹いており、それだけでも異質な場所だと思わせるに十分だった。
ここは、自分のいるべきところではない。
そう思った彼は、廊下を逆に辿って、実験室へと戻り……。
室内には、彼の『家』と同じような飼育ケージが、ズラリと並んでいた。残念ながら彼の肉体は失われてしまったが、飼育ケージの中には、彼と同族の生き物が、まだ無事に、たくさん暮らしていた。
羨ましいと思いつつ、そうした同族へと近づいて……。
触れた瞬間。
彼は知った。今の自分は、相手が『同族』であるならば、その体に憑依できる、ということを。
こうして。
新しい肉体を得た彼は、そこで休むことにした。
一つの体に、二つの意識。元々の――もう一匹の――意識の方は、彼とは違って、異常な霊力の持ち主ではない。無理に同居したことで、せっかく高まっていた彼の霊力も、少し弱まってしまうのだが……。
しかし。
それでも普通よりは高い霊力であり、同じ肉体を共有するうちに、相手の意識を自然と飲み込む形になってしまった。
そして。
二匹分の意識が一つになったことで。
確実に、何かが大きくなっていくのだった。
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