第二話

   

 いったん建物の外に出て、アスファルトの地面をしばらく歩いてから、動物実験棟に入る。

「前に話したように、俺たちが使うのは一階だ」

 説明するT氏に続いて、一階の廊下を進む僕。彼の背中を見失わないように追いながら、軽く左右にも目を配ると、それぞれ個別の実験室が並んでいた。僕たちも、そうした部屋の一つを使うのだ。

 扉に記された『BIOHAZARD』のマークは、理屈の上では危険を知らせる合図のはずなのに、むしろ僕には安心できる記号だった。いつものウイルス研究で慣れ親しんだものだから、動物実験に対する「初めて」感が、少し薄れてきたのだ。

「さあ、ここだ」

 T氏が立ち止まった部屋には『86』という数字が刻まれていた。

「86号室……」

「そうだ。ここが今回、俺たちに割り当てられた部屋だ。そういえば……」

 軽く苦笑いしながら、T氏は少し遠い目をする。

「……俺が最初に使ったのも、この『86号室』だったなあ」

 予備実験を含めて、T氏は既に何度も、似たような動物実験をおこなっているはず。もうすぐ研究室を移る以上、今回の試行が最後になるのだが、最初と最後が同じ部屋というのは、感慨深いのだろうか。

「あの時は……」

 と、何か言いかけてから、

「いや、何でもない。忘れてくれ」

 彼は強引に話を切り上げて、ドアを開けるのだった。


 その86号室に入ると、

「まずは、これだ」

 T氏の指導に従って、専用マスクやゴム手袋、紙製ガウンやキャップ帽など、装備一式を着用。いつもの実験で使う白衣とは素材も全く違うし、そもそも、これらは使い捨てだ。こんなところでも「動物実験は特別」と感じてしまう。

「まあ、そう緊張するな」

 紙製ガウンの紐を縛りながら、T氏が軽く笑う。

「うちの研究室では、もう動物実験のノウハウは確立されているからな。それに従えばいいだけだから、ラクなもんさ」

 そう、ノウハウは確立されているのだ。

 実験というものは、市販の実験書などに書かれている通りにやっても、いざ手を動かしてみると「何か違うな?」「これ、うちのラボでは難しいんじゃないか?」となる場合もある。だが、同じ研究室の同僚たちが似たような実験をした後ならば、そんな問題も起こらないわけだ。

 この研究室では、T氏の研究テーマより前に、免疫系の遺伝子を組み込んだウイルスで、同じような研究が行われていたはず。だから実験手法自体は――特に動物実験の部分は――、それを模倣すれば良かったのだろう。

「うちで最初に動物実験をやったやつは、大変だったらしいぞ。当時の研究員で、動物の扱いに慣れてたやつは一人もいなかったから、最初は大先生がやってみせたらしいが……」

 T氏のいう『大先生』とは、この研究室の室長ボスのことだ。確か室長ボスは、獣医学部出身だったはず。なるほど、動物実験は彼の専門分野というわけだ。

 そう思ったのだが、

「大先生って、意外とドジでなあ。組換えウイルスワクチンをマウスに接種する際、その注射針で、うっかり自分の手を刺してしまうこともあったそうだ」

「ええっ?」

 T氏の言葉を聞いて、僕は驚いてしまう。そして、視線を自分の手へと向けた。

 僕の両手は今、黄色いゴム手袋に包まれている。一緒にいるT氏も同じ手袋だし、おそらく室長ボスだってそうだったはずだ。

 実験用の使い捨てゴム手袋だから、ゴム生地自体は厚手ではない。注射針なんて簡単に貫通してしまう薄さだ。

「マウスだって注射されるのは嫌で、暴れるからなあ。なまじ片手で固定しようとすると、手元が狂うこともあるんだろう」

 と、補足するT氏。

 遠い記憶を思い返してみると、大学の実習授業でマウスの腹腔内注射を教わった時。その腹が上向きになるようにマウスを左手で持って、尻尾や手足を自分の指に引っ掛けるような形で固定して、空いた右手で注射する、という話だったはず……。

 無意識のうちに、左手がその形になる。それを見て、T氏が笑う。

「ああ、もちろん大先生は、正しい持ち方でマウスを持っていたはずだ。でも、あれ、俺には真似できん。結局、最初から最後まで、自己流の持ち方でマウスに注射していたよ。後でやってみせるけど」

 そう言われて僕の頭に浮かんだのは、ジャガイモの皮むきだった。慣れれば大丈夫だが、初めて料理した時は、包丁の刃が自分の左手の親指の方へ向かっていくような気がして、怖かったものだ。

 だから慣れるまでは、変な持ち方・切り方をしていた覚えがある。それと似たような話なのだろう。

「それにしても……」

 僕は軽く頭を振って、頭の中からジャガイモのことを追い出した。こんな時間に食べ物のことを考えていては、夜食が欲しくなってしまう。

「……自分に組換えウイルスを接種してしまうなんて、怖い話ですね」

「まあ、大先生はケロッとしていた、って話だぜ。一応、終わったら病院へ直行して、免疫グロブリン処置をしてもらったらしいが」

 野外でRウイルス感染動物に噛まれた場合と、同じ対応だ。

 Rウイルスは確かに、発症後の致死率は高いウイルスだが、発症さえ抑えれば良い、という考え方もある。そもそも僕たちは事前にRウイルスの予防接種をしているし、定期的に血液中の抗体価もチェックしている。一般人とは違って、理屈の上では「少しくらいRウイルス感染動物に噛まれても大丈夫な身体からだ」と言えるのだ。だから室長ボスは、平然としていたのかもしれないが……。

 あくまでも「理屈の上では」という話に過ぎない。

「でも、なんとなく嫌ですよね。組換えワクチンが自分の体内に入ってしまうのは」

「そりゃそうだ。ワクチンといっても、市販の不活化ワクチンとは違って生ワクチン、つまり生きたウイルスだからな」

 僕たちが実験で扱うワクチンは、ウイルスの死骸である不活化ワクチンではない。きわめて病原性は低いはずだが、生きたウイルスだ。宿主由来の遺伝子を導入した組換えウイルスをワクチンとして用いる以上、もしもウイルスが死んでいたら、その『導入した遺伝子』も体内で増えたり働いたり出来ないのだから。

 そして、この『導入した遺伝子』に想いを馳せたところで、さらに背筋がゾッとする。室長ボスの例は別にして、もしも、僕自身の実験で……。

「やっぱり、嫌ですね。特に、この研究で使っている組換えウイルスは、得体の知れない遺伝子を組み込んだワクチンだから……」

 そう、T氏の研究テーマが問題なのだ。免疫系と知られている遺伝子ならばまだしも、機能が同定されていない遺伝子を使っているのだ。

 そんなものが体内で過剰発現したら、一体どうなってしまうのか、わかったものではない。未知の機能による思わぬ危険性、それがあり得るからこそ、こうして実験動物で試しているのではないか。

 しかし。

「おいおい、しっかりしてくれ。その点は大丈夫だろう?」

 何を言っているのだ、という顔のT氏。

「俺がウイルスに組み込んだのは、マウス由来の遺伝子だぞ。ヒト由来じゃないのだから、人間の体内で機能を発揮するわけないじゃないか」

 そう言って、彼は笑う。

 確かにマウスで実験している以上、マウスの遺伝子を使っている。もちろん遺伝子の相同性次第では、マウスの遺伝子がヒトの体内で機能することもゼロではないかもしれないが、その確率は低いだろう……。

 考え込む僕に対して、T氏は、冗談口調で告げる。

「特撮番組の怪人や怪物じゃあるまいし。マウスの遺伝子の一つや二つ体に入ってきたって、マウス人間になったりしないぜ」

 いや、そこまで空想科学的な話、僕だって考えていないけど。

 そもそも、特撮やアニメのSFでも「ウイルスで化け物を作る」みたいな設定の場合、レトロウイルス――ウイルス遺伝子を宿主細胞の遺伝子に組み込むタイプのウイルス――を想定しているはず。その点、Rウイルスはレトロウイルスではないので、そこまでの心配はない。僕たちの組換えウイルスで特定の遺伝子の過剰発現が起こるのも、あくまでも一時的な出来事だ。

 ……などと、細かく考えていったらキリがない。これ以上この話をするのも、時間の無駄だろう。装備一式を着終わった以上、いよいよ今から、動物実験を教えてもらうのだから。

 そう思って僕は、話を終わらせる意味で、あえて軽口を返すことにした。

「特撮の怪物とは、面白いことを言いますね。怪物といえば、それこそ、この実験で……。少しだけなら問題ないような奇妙な遺伝子が異常に活発になって、マウスの方が怪物になる可能性は、考えられませんか?」

 それもテレビの見過ぎ、と言われるかと思ったのに。

 いや、むしろツッコミを期待したボケのようなものだったのに。

 なぜかT氏は何も言い返さず、その顔からは、笑いが消えてしまったようにも見えた。

   

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