第五話

   

 T氏が研究室を去って、数ヶ月が過ぎた頃。

 昼休みに食事をしていたら、同僚のA氏から声をかけられた。

「Kは、今日も遅くまで残るのか?」

「ええ、そうです」

「……毎日毎日、大変だな」

「いやあ、それほどでも。動物実験が始まっちゃうと、仕方ないですからね」

「まあ、そうだろうな。俺の研究テーマ、そういうのじゃなくて良かったよ」

「ははは……」

 そう苦笑いを返したように。

 僕の研究は、動物実験の段階に進んでいた。組換えワクチンの接種も、病原性ウイルスの接種も終わらせており、今は観察の時期。何度か採血はおこなったが、マウスから脳を取り出すのは少し先、という状況だった。


 マウスの具合をチェックするのも体重を測定するのも、毎日二回。約十二時間おきに行うわけだが、例えば「朝七時と夜七時」と決めてしまえば、深夜まで働く必要はなくなる。もちろん一瞬に終わる作業ではないので――マウスの数が多いので――、『夜七時』に設定したところで作業終了は八時や九時を過ぎるのだが……。

 もしも最初から僕一人だったら、そうしていたかもしれない。でも元々はT氏から教わる形だったため、自分で自由に実験スケジュールを組めるようになっても、彼のスタイルを真似た感じで、昼と夜になってしまった。

 いや、この言い方は、少し語弊がある気もする。T氏と一緒に実験をしていて、僕も気づいたのだ。これはこれで良いのではないか、と。

 例えば、なまじ『夜七時』くらいだと、他の実験作業の後、それまで研究室に残っているのが普通になるだろう。でも、これがもっと遅い時間帯ならば、夕方定時に一度帰宅して、食事と一休みの後、また戻ってくる……。そんなパターンもあり得る、というより、むしろその方が多くなっていた。

 それでも最初の頃は、ただ『深夜』というだけで少し不気味に感じたものだが……。誰もいない研究室だって慣れてしまえば、気を使わなくていいからラク、という一面もあった。

 それに、動物実験の場合。人間は僕しかいないとしても、たくさんのマウスと一緒なのだ。まるでペットに囲まれているみたいで、寂しくない……。最近では、そう思えるようになっていた。


「動物実験といえば……」

 近くのテーブルで食べていた別の同僚――S女史――が、会話に参加してくる。

「うちに割り当てられるのは86号室が多い、って聞いたわね。今回も、そうなのかしら?」

 この研究室にS女史が来たのは僕よりも後なのだが、彼女は病理学の分野からウイルス研究に入ってきており、動物実験には詳しい。

 というより、動物実験では「分子生物学者ではなく病理学者でないと解析できない」という種類のサンプルもあり、そこはS女史に任せている。要するに共同研究者であり、論文発表の際には共著者の一人として――前任者であるT氏や責任者の室長ボスと一緒に――、名前が載る人物だ。

「そうだけど……。86号室って、何か特別なの?」

「あら、K君は知らないの? 『呪われた86号室』の噂」

「おいおい、なんだか面白そうな話だな」

 A氏も知らなかったらしい。動物実験と無縁な彼は、『呪われた』なんて不穏な言葉を聞いても、むしろ楽しそうだ。

「動物実験棟の人から聞いたんですけど……」

 僕たちは動物実験の時だけ行くから一階を使っているが、あの建物の二階には、動物を専門に扱っている人たちがいる。

 S女史は僕たちの研究室所属だから僕と同じ側だが、それでも元々が病理学者だけあって、動物実験棟の人々とも交流があるのだろう。

「……一階の動物実験室の一部で、オカルトとしか思えない現象が起きるんですって。それで、その中心が86号室だから『呪われた86号室』って言葉が生まれたとか」

「オカルトとしか思えない現象、って何だ?」

「さあ? 地震でもないのに急に部屋が揺れたり、触ってもいないのに物が動いたり……。そんな話らしいですわ」

「Sさん、それってポルターガイスト現象みたいな感じ?」

 当事者であるはずの僕も、尋ねてみる。『触ってもいないのに物が動く』という話には、少し心当たりもあるのだから。

「そうそう。あっちの人も言ってたわ、『ポルターガイストだ』って。もしかして、K君も何か経験した?」

 小首を傾げるS女史。やや童顔の彼女がそうした仕草を見せると、可愛らしくも見えるのだが……。

 見とれている場合ではなかった。そんなポルターガイストの噂があるのだとしたら、T氏と一緒だった時にハサミが勝手に動いたのも、それだったのだろうか。そして、あの時T氏が見せた態度も、それを知っていたからなのだろうか。

 だが、あえてT氏が何も言わなかったのだから、

「いや……。特に思い当たることはないけど……」

 と、僕も誤魔化しておく。

 そんな僕の肩を軽く叩きながら、A氏が言う。

「それじゃ、最近Kにドジが多いのも、86号室の呪いか?」

 確かに最近、僕は何もないところで転びそうになったり、取ろうとした物を掴み損ねて落としたりすることがある。幸い、実験器具やサンプルを落とすことはないので「大事なことは大丈夫なのに、それ以外の些細な点でのみミスが出るということは、単なる気の緩みだろう」と、自分では判断していた。動物実験が遅くまでかかることで、疲れが溜まっているのだと思っていたが……。

「いやあ、そうかもしれませんね」

 A氏に合わせて、冗談口調で言ってみる僕。

 彼は笑っているので、全く本気にしていないらしい。だがS女史に視線を向けると、彼女の顔には、少し心配の色が浮かんでいるようにも見えた。

   

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