第三話

   

 T氏に連れられて初めて動物実験室に足を踏み入れた夜から、一週間が過ぎた。このかん、僕は毎日のように、T氏が動物実験をする際は同行するようにしていた。

 あくまでも『毎日』ではなく『毎日のように』だ。この一週間のT氏の動物実験は、既にウイルスやウイルスワクチンを接種したマウスの状態観察と、体重測定のみ。毎日毎日、同じ作業だから、

「一度やってみせれば、十分だろう?」

 と、T氏も言っていた。

 それでも僕としては、一応なるべく行くようにしていたのだが……。T氏の実験スケジュールと僕の都合が合わない時もあり、そんな場合に無理するほどではない、と判断したのだった。


 しかし。

 今夜は違う。

「ええっと……。麻酔薬に、注射器に……」

 僕たちの研究室から動物実験室へと持っていくものを、T氏が声に出しながら準備している。おそらく自分自身に対する確認というだけでなく、改めて必要器具を僕に教える、という意味もあるのだろう。

 T氏が口にする器具や薬品を、メモしていく僕。本来ならば今夜は必要ないものも含まれているのだが、それは僕の練習用だ、と理解しながら。


 そして。

 いつものように二人で無人の廊下を歩き、いったん外に出てから、動物実験棟に入り……。

 もはや見慣れた『86』という数字のある部屋へ。紙製ガウンなど一式を着込んでから、T氏は、ズラリと並んだ飼育ケージに視線を向けた。

「さて。こいつらとも今日でお別れかと思うと、ちょっと感慨深いものがあるなあ」

「最後まで結構、生き残りましたね」

 と、T氏の言葉に応じる僕。

 そう、今回の動物実験は、今日が最終日なのだ。

 致死率の高いウイルスと、それに対するワクチン。両方を接種された結果、死なずに済んだマウスたちが今、飼育ケージの中で普通に暮らしていた。

「ああ、でも俺の作った組換えウイルスは、本来の免疫遺伝子を使ったものじゃないからな。免疫を強めると言っても、この程度だ。以前の研究の時は、もっと凄かったはずだぞ」

 T氏の研究でワクチンウイルスに組み込んだのは「Rウイルス感染時に体内で活性化される遺伝子」ではあるものの、「免疫系に分類されているわけではなく、機能未同定の遺伝子」に過ぎない。一方、T氏より前の研究で使われたのは「免疫系に分類されており、かなり解析済みの遺伝子」。マウスの生存率に差が出るのは当然だろう。

 だが、せっかく生き残ったマウスたちも、

「さて。では、殺処分の手順だが……」

 と、T氏が説明し始めたように。

 今から殺されてしまうわけだ。僕とT氏の手によって。


 例えばテレビの料理番組やバラエティー番組などで食べ物を扱う際、テロップで「残りはスタッフが美味しくいただきました」と表示されることがある。だが残念なことに、動物実験においては、そうもいかない。

 生き残ったマウスたちは、今回の実験でウイルスやらワクチンやらを接種された身だ。普通に健康そうに見えても、その体内では何が起こっているかわからない。だから別の実験には使えないし、もちろん個人的に持ち帰ってペットにするのも禁止だ。もう殺すしかないのだった。

 いや考えようによっては、これからやろうとしていることが、料理番組における『スタッフが美味しく』に相当するのだろうか。

 少しでも有効活用するという意味で、このマウスたちには色々と、僕の練習台になってもらうのだから。


 だが、それは二の次。

 まずは、本来の手順を教わるのが先だった。

「ここで動物実験をする場合の決まりの一つに『なるべく動物に苦痛を与えないように』というのがあってなあ。だから、殺処分も『苦しまずにラクに死なせてやれ』ということで……」

 説明しながらT氏は、実験キャビネット内のシートの上で、マウスを眠らせる。

「いや『どうせ殺すのに、麻酔なんてもったいない』と思うかもしれんが、ルールだから仕方ない。そもそも、こんな動物実験をしておいて『なるべく動物に苦痛を与えない』なんて偽善じゃないか、と俺は思うのだが……」

「ええ、そうですね」

 適当に、当たり障りのない返事を口にする僕。

 おそらくT氏の今の発言は、ここで動物実験をし続けてきた彼が、これまで胸に秘めてきた想いなのだろう。もう最後だからということで、ポロッとこぼれたに違いない。

「やっぱりKも、そう思うか。ともかく、薬で意識がなくなったマウスを、こうやって……」

 彼はマウスの頭と胴体を、それぞれ左手と右手で掴んで、グキッと引っ張った。そう、『グイッと』ではなく『グキッと』という感じに引き伸ばしたのだ。

 結果、少しマウスの首が伸びたように見える。「ああ、頚椎を外すことで、マウスを死に至らしめるのか」と、医者でも獣医でもない僕のような者にも、一目瞭然だった。


 さらに何匹か実演してみせた後、

「もうわかったな? じゃあ、Kもやってみろ」

 と、T氏は僕を促す。

「はい」

 オーバーなくらいに真剣な口調で、大きく頷いてから。

 T氏と交替して、僕は席に着いた。続いて、飼育ケージ――実験キャビネットの近くへ移動済み――に、手を伸ばす

 飼育ケージの中では、夜だというのに、元気に動き回っているマウスもいる。僕が選んだのは、手から逃げようとするマウスではなく、大人しく休んでいるマウスだった。

 捕まえてみると、体重測定の時と同じく、小動物特有の生温かさを感じる。生きているあかしだ。

「ごめんな……」

 横にいるT氏にも聞こえないくらいの小声で呟きながら、僕はマウスを薬で眠らせて……。

 先ほどのT氏と同じように、マウスの首を引っ張る。

 外から見てもわからないが内側では、頭部と胴体を繋ぐ首の骨が、完全に離れたのだろう。ブランという感触が手に伝わってきて、ふと僕は「人間の首吊りも、こんな感じかもしれない」と考えてしまった。

   

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