第七話

   

「車の中から見える景色だけでも、十分きれいだわ」

 助手席のS女史は、窓の外に広がる緑を眺めていた。

 彼女を乗せた僕の車は今、自然の中の山道を走っている。山道といっても、森の木々に左右両側を挟まれているわけではなく、片側は崖になっており、視界も開けていた。遠くまで見える自然の風景は、確かに、眺めているだけで心が落ち着くものだった。

「そうだね」

「目的地に着けなくても、これで満足って思うくらい」

「いやいや、それは……」

 ハンドルを握りながら、僕は苦笑する。


 一週間以上前の時点では「買い物? それとも、遊びに行く?」「たぶん買い物」と言っていたのに、結局『遊びに行く』の方になっていた。

 僕が動物実験で忙しかった間、S女史は以前のように、買い物に関しては女友達――隣の研究室の女性――の世話になっていたそうだ。だから僕の身が空いた今、急ぎでスーパーやショッピングモールへ行く用事はなく、むしろ「二人で遊びに行きましょう!」という気持ちになったのだろう。


 僕たちが今、向かっている先は、北へ一時間ほどドライブした辺りにあるN湖だった。

 N湖には、以前にも一度、二人で出かけたことがある。その日は、湖畔を少し歩いた後、車に戻ってN湖の南側へ。ダムのようになっている下には、水の澄んだ川があり、そこでは、人々がマス釣りを楽しんでいた。

 ちょうど夕方だった影響なのか、急に霧が立ち込めてきて……。

「わあっ!」

 わずか三十分ほどだったが、白くもやった水辺にはファンタジーのような美しさがあり、S女史は、とても感動していたようだ。

 だが、むしろ僕は、景色そのものとは違う部分に感銘を受けていた。その絵のような光景の中で、両手を広げて立っていたS女史の姿は、まるでもやという羽衣を纏った天女のように見えたのだから。


 当時のS女史の姿を思い浮かべつつ、

「……今日の目的地はN湖、正確にはダムの下の川だから。ほら、前回すごく綺麗だったじゃないか」

 助手席でリラックスしている彼女に、僕は告げた。今日のS女史はTシャツにジーンズというラフな格好であり、天女とは程遠い。だが、これはこれで悪くない、と僕の目には映っていた。

「そうだけど……。でも、あれって、そういう時間帯で、いくつかの気象条件が重なった結果でしょう? たぶん、二度とは見られないわ」

「……その点は僕も認める」

 さすがに『二度とは見られない』は大げさだと思うが、彼女の言葉に頷いておく。地元の人間ならばともかく、僕たちのようにヒョイっと遊びに行く立場では、好条件が重なる瞬間に立ち会える機会は、そう何度もないだろうから。

 そこそも、前回とは時間帯が違う。

 今日は湖畔を散歩するのではなく、最初から川の方へ行く予定になっていた。あの時は、もう夕方だったから長居はしなかったが、川に沿ってハイキングコースがあるのを見つけており、二人で「今度また来ようね」という話をしていたのだ。

 今日のS女史の服装も、動きやすい格好を意識しているのだろう。そう思いながら僕は、もう一度チラッと、助手席の方に目をやった。


 そうやって、山道で車を走らせていると……。

「……ん?」

 足元に違和感を覚えて、それが声に出てしまった。

「どうしたの?」

「いや、何でもない。気にしないで。どうぞ、外の景色を楽しんでいて下さい」

 車を運転しないS女史に説明するのも面倒だな、と思い、僕は適当に誤魔化した。

 僕の感じた、おかしな感覚。

 それは、アクセルペダルだった。アクセルを踏み込んでいるわけでもないのに、勝手にペダルが沈み込んでいく感じだ。

 正直、初めての感覚ではなかった。

 以前、オートクルーズ機能――クルーズコントロールとも呼ぶらしいが――のある自動車で、高速道路を走った時。試しに装置をオンにしてみたら、設定した速度に応じて――特に緩やかな上り坂や下り坂で――、勝手にアクセルペダルが下がったり上がったりするのが足の裏に伝わってきて、なかなか面白かったのを覚えている。

 昔のSFドラマに出てくる自動運転の車っぽい、と思ったのだ。でも面白かったのは最初だけ。あまり実用的ではなく、すぐに飽きてしまって、ほとんど使わなかったのだが……。


「ねえ、K君。いくら周りに他の車いないからって、少しスピード出し過ぎじゃない? 山道なんだし、これじゃ危ないわ」

「うん、そうだね」

 と言って、僕はブレーキを踏むが、車は減速しなかった。

 だいたい、この車にはオートクルーズ機能はついていないし、あれはブレーキを踏めば解除される仕組みだ。だから、今現在の不可解な現象は、それでは説明できない。

「口ではそう言うけど、スピード落ちてないわよ」

「ああ、うん。実は先ほどから、ブレーキ効かないみたいで……」

 もう誤魔化せないな、と思って正直に言った。厳密にはブレーキが効かないというより、アクセルの方が異常なのだが。

「ちょっと! それ、大問題じゃないの!」

「そうだけど、とりあえず落ち着いて。僕もパニックになりそうだけど、頑張って落ち着いてるから」

「え? ……どうしたらいいの?」

 唖然とするS女史。とにかく黙っていてくれたらいい、と思ったのだが、

「きゃあっ!」

 減速せずにカーブを曲がったため、体が揺れて彼女は悲鳴を上げた。

「しっかり掴まってて! 窓の上に、吊り革みたいなのあるから! あと、出来れば口も閉じてて! 舌を噛まないように!」

 少し大げさに、注意事項を告げる僕。

 ……と、文章にしてしまうと、冷静に対応しているようだが。

 実際、僕の頭の中は、かなり混乱していた。

 ブレーキが故障した時の対処法、昔々教習所で教わったけど、何があったっけ……とか。 いや、そもそもこれ、ブレーキトラブルじゃないから……とか。それに、自分一人の時ならまだしも、S女史が一緒の今、事故を起こしたら彼女の身にも危険が……とか。

 色々と考えながらも、この状態のまま山道のカーブを曲がることに集中。自然の中の山道だから、道は結構、曲がりくねっているのだ。

 いやいや、山間部であることに文句を言ってはなるまい。むしろ、こんな場所だからこそ信号もない一歩道であり、助かっているのだ。このまま、交差点とか横断歩道とかに出くわしたら……。

 そこに思い至って、ゾッとした瞬間。

 突然、車が減速し始めた。

 まるで見えない誰かに勝手に踏まれていたような、あのアクセルの異常。それが突然、何の前触れもなく終わったのだった。

   

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