ポンと叩けば

詩一

ポンと叩けば

 会社からの帰り道。自宅の惨状さんじょうを思い浮かべて、頭が痛くなった。


 家に帰っても自分の居場所などない。どこに座っていいのかさえもわからぬほど家の中には妻の所有物が散らばっていた。棚からはみ出し床に寝転がる書物の数々。洗濯カゴから溢れ出し身の丈ほどまでに積み込まれた洗濯物たち。いつ買ってきたのか見当もつかない、何に使うつもりなのかもわからない100円ショップの品物が、私の椅子の横にビニール袋ごとぶら下げられている。そしてその椅子の上には妻のルームウェア。


 部屋が片付かないのがこれほどまでにストレスだとは独身の頃には想像していなかったし、なんだかんだ言って共同生活をする以上、相手のことを思って過度に散らかすような真似はお互いしまいと思い込んでいた。しかし散らかさないのは私だけであった。それどころか、私が掃除をしようとして妻の所有物に触れようものなら、


「それは私が片づけられないことへの当てつけか!」


 と、たちまち癇癪かんしゃくを起こす。

 そうではない。そうではないのだ。私はただ散らかり続ける部屋と圧迫されるスペースに窒息しそうなのを何とかしたいだけ。言うなれば防衛本能なのだ。しかしその防衛すらも許さない妻は、私に片づけや掃除を一切させず、とにもかくにも散らかしていった。


 家に帰るとやはりそこには惨状が広がっている。

 ただ今日はどうやら妻は居ないようだ。書置きがある。友達と遊んでくるようだ。私が毎日仕事で稼いだお金を使って、友達と豪遊か。

 ただただため息を吐く他ないが、しかし家に人がいないというのは新鮮だった。


 妻の所有物さえなければ。

 このストレスもなくなるのだろうか。


 私は苛立ちのあまり少し気が触れていたのであろう。妻の物が一切合財この部屋から無くなりますようにと念じて目をつむり、手を叩いた。


 ――ポンッ。


 私は目を開けて驚愕した。った。そのまま倒れて床に尻餅をく。


「本当になくなっている……」


 目の錯覚と思ったが、今まで見えていなかった壁が、床が、綺麗に見えるのだ。棚もがらんどうだ。本も洗濯物も100円ショップの品物も全部ない。ただの目の錯覚なら、さっき尻餅を搗いた時点で、なにかを尻の下敷きにしてしまっているだろう。


 やった! これで私のストレスは無くなる。


 と思ったところで、ふと思った。

 妻が帰ってきてこの状態を見たらどう思うのか。確実に私は問いただされるであろう。手を叩いたら全部消えたなどと子供でも言わない嘘みたいな真実を誰が信じるのであろう。


 私はもう一度ダメもとで手を叩いた。


 ――ポンッ。


 すると部屋の中は妻の所有物であふれかえった。


 なんだかよくわからないが、物凄く素晴らしい能力を手に入れてしまったようだ。

 私はそれ以来、妻がいない時を見計らって妻の所有物を消す魔法を使うのが楽しみになっていた。日々の苛立ちも消し飛ぶ爽快感。他人の物が無い部屋がこれほど素晴らしいとは。独身の頃にこの感覚を知っていたら恐らく結婚などしなかっただろう。


 いい気になって魔法を使っていたある日、私は妻の物を消した状態で転寝をしてしまった。そこへ妻が帰ってきた。


「ちょっとあなた」


 寝ている私をゆすって起こす妻の声で覚醒すると同時に、はっとする。

 妻の目は怒気をはらんでいる。

 辺りを見回すと妻の物が無い。


 やってしまった。


「いや。これは違うんだ。別に君の物を捨ててしまったわけじゃあない。ちょっと待っていてくれ。手を叩けば」


 ――ポンッ。


 辺りには妻の物が溢れる。


「ほらこの通り。ちょっと魔法で消していただけなんだ。ははは」


 すると妻は呆気あっけにとられたようにしばらく私を見ていた。


「夢でも見ているの?」

「夢じゃないさ。ほら。ほらほら!」


 私は手を叩いて妻の物を出したり消したりして見せた。


 すると妻は私の手を掴んで外に引っ張り出した。どちらにせよ、消していたという事実は消えない。怒っているのだろう。


「病院に行きましょう」




 私は病院に連れて行かれ、医師の診断を受けた。


「それで、どこが悪いのですか?」

「いえ、悪い所はありません。ただ魔法が使えるようになっただけなんです」


 私はことの経緯を全て医師に説明した。その後で、妻だけが呼ばれ、医師と何やら話していた。


 私は入院することになった。

 確かにいきなり魔法が使えるようになることは珍しい事で、医学的にも驚愕の事実なのだろう。しかしだからと言って入院する必要もない気はしたが、医師と妻が薦めてくるのでしかたなかった。

 不必要なものが一切存在しない病室は妙に居心地がよく、とてもリラックスした日々を過ごすことができた。


 数日後、家に帰ると部屋は綺麗に整頓されていた。

 妻が迎えに来てくれないことに対しては不満があったが、その分部屋を綺麗にしてくれていたのだと思うと嬉しかった。

 しかし、そのお礼を言う相手が不在だ。


 ふと机の上を見ると、そこには書置きがあった。


『お医者さんから聞きました。あなたには相当精神的なストレスが掛かっていると。部屋が散らかっていたのが随分とストレスだったようですね。私が居ない人生の方が良い様なので、私はここを去ります』


 ——え。


 書置きの下には離婚届が置かれていた。

 そこには妻の名前も印鑑もある。あとは私が名前を書くだけ。


 そんな……。いったいなにが起きたんだ。私はただ魔法が使えるようになっただけだ。完全に医者の誤診じゃあないか。というか、仮に医者の言うとおりだったとして、私のストレスを取り除くために部屋をきれいにするのではなく、出ていくなんてあんまりだ。


 ……あんまりだ。


 私はため息をついて椅子に腰かけた。

 整然とした暗がりの中で、突然ぐぅとお腹が鳴った。

 そう言えば、妻は片付けは出来なかったが、彼女が作るご飯は美味しかったな。

 妻の作るご飯を想像して、手を叩いた。


 ――ポンッ。


 今まで暗かった部屋が急に明るくなり、テーブルの上には豪華なご飯が並んでいた。


「食べましょう?」


 声がした方を見ると、そこには妻が居た。

 周りは妻の物でごちゃごちゃと溢れている。


 そうか。


 今までは妻の物だけを消していた魔法が、いつの間にか妻ごと出したり消したりできる魔法へと変貌へんぼうしていたのだ。確かに入院中にも何度か手を叩いて魔法の有無を確かめたことがあったが、ONとOFFで言うところのOFF状態で家に帰ってきてしまっただけなのだ。


 良かった、ああ、良かった。


 それから私は魔法を使わないようにした。入院したおかげで、ストレスがなくなったのだろう。部屋の汚さに対して、前より鈍感になっていた。それに、妻もどういうわけか、昔よりやや優しくなったような気がする。


 だがしかし、その鈍感さもなかなか長くは続いてくれないようで、私は我慢できずに手を叩いた。


 ――ポンッ。


 妻も彼女の物も消え、テーブルには離婚届が、置かれている。

 どういうことだ。そういえば、手を叩いて妻が出現した時に離婚届も同時に無くなっていた。あの時はそんなことにも気が付かなかった。

 もう一度手を叩く。


 ――ポンッ。


 すると隣の部屋から妻がやってくる。


「どうしたの? なんだか手を叩く音が聞こえたけれど」

「あ、いや」


 私は妻の問いに曖昧な返事をしながらテーブルを見る。そこには離婚届はない。妻の物は溢れている。


「ここに、紙が……」

「紙?」

「あ、いや、なんでもない。多分記憶違いだ。そういえば、今度の日曜日どこに行きたいって言っていたっけ?」

「東京の方に、私の好きなアクセサリーショップが出来たから、それでね——」


 私が手を叩いたことにより、なにかが失われ、なにかが生み出される。どちらの状態が幸せなのかを測るものさしは、その日によって長さや形を変える。

 分からない事ばかりで、謎も多い魔法だが、明確に言えることが一つある。


 私はまた手を叩くだろう。


 何度でも。

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