硝子少女・後篇
屋上の風は澄んでいた。さわやかで涼やかで少し寂しい。空は広々。雲は軽々。羽根に手が届きそうな真昼時。
「外で食べた方がおいしいのは、なぜだと思う?」
隣に座る保健委員が、箸で卵焼きをつまみながらそう問う。
「さあ。なぜなの?」
「あたしも知らない」
ぱくりと食べる、咀嚼する。呑み込んでからまた喋る。
「ひとつ言えるのは、どこで食べるかは極めて重要ってことね」
それに、だれと一緒に食べるかも、と硝子の彼女は付け加える。口にはしなかった。言っても言わなくても同じかもしれない。保健委員は、あまり人の話を聞かないところがあるから。
いい場所があるんだ、と初めて昼食を一緒にした日、保健委員はこの屋上へと案内してくれた。扉には鍵がかかっていたが、柱の陰にあるよくわからないスペース、その暗がりにあるよくわからない小窓から、身をよじって、なんとか外に出ることができた。保健委員も、食事を共にする相手から教わったらしい。
「ここは静かだからね。あたし、ざわざわしたところで食べるの、苦手なんだ」
彼女にとっても、それはありがたかった。食事時かどうかに関わらず、彼女は喧噪が苦手だった。人が多い場所はすべて居心地が悪かった。疎ましい視線、耳障りな声、募る隔絶感。人が多ければ多いほど、彼女の砂漠は広がっていった。
「いつもパンなのね。飽きないの?」
彼女が惣菜パンを鳥のように啄んでいるのを、保健委員は不思議そうに見つめる。
「あまり、食べることに興味がないから」
その言葉どおり、彼女は食事に好みや不満を持たなかった。必要ということになっているから食べるだけ、という感覚だった。
硝子生命体の食事風景は、好事家の興味をそそるらしい。どんなふうに嚥下して、どんなふうに消化しているのか。いかなる構造で成り立っているのか。トイレにカメラを仕掛けられそうになったこともある。そんな諸々も、彼女が食という行為を愛せない理由の一端かもしれない。胃の内容物が透けて見えないのは、不幸中の幸いだった。
そんな彼女が、いまは昼食の時間をひたすらに待ち望んでいる。この二週間ほど、彼女はそれだけを楽しみに日々を過ごしていた。それだけが生き甲斐だった。期待に胸が躍るなんて、生まれて初めてのことだった。
「ふうん。あたしは無理だなー、毎日おなじものなんて。飽きっぽいんだよね、あたしって。ピアノもバレエも結局つづかなかったし……」
保健委員は、今日も相変わらず小鳥のように、幸せそうにさえずりつづけている。その声に耳を傾けているだけで、彼女も幸福だった。内容なんてどうでもよかった。とはいえ、どんなにたわいのない話でも、彼女は記憶に大切に刻みつけ、後で何度も反芻した。
恋をしている、と彼女が自覚したのはいつだったか。なぜ保健委員にこんなにも惹かれるのか。そんなことは、どうでもいいことかもしれない。考えたところで、わかるものでもなかった。
ただ、保健委員は彼女をことさらに特別視しなかった。興味本位の質問も時おりはあったが、硝子の彼女に好奇心を抱いたというより、本当に、当座の話し相手が欲しかっただけのようだった。それは単に、ずぼらと無神経が少々ないまぜになった性格によるものかもしれないが、彼女にとっては居心地がよかった。他人の前で安らかな気持ちになれるなんて、いままで思ってもみなかった。
「あーあ、空って本当に綺麗ね」
それまでの話題とは関係なく、保健委員が伸びをしながら、出し抜けに言った。
「青い空。白い雲。これで太陽が赤ければ、フランス国旗の完成ってとこね。でも、太陽って別に赤くは見えないよね? 絵に描くときは、クレヨンで赤く塗ったりしてたけど。緑色の信号を青って言うくらい、詐欺の匂いを感じちゃうな」
「夕日は、赤いじゃない」
「夕日? まあ、たしかにね。でもそれだと青が台無し。フランス国旗は完成しないわ。画竜点睛を欠くってやつね。ま、完成しなくても、別にいいけど、さ。そうそう、竜といえば、あたし、夕焼け雲って、血まみれの竜みたいに見えるんだよね――」
保健委員は、彼女の返答も待たず、ひとりで気のおもむくまましゃべりつづけている。のどかだった。保健委員に言われると、たしかに空は綺麗に思えた。いつでもそれは頭上にあったのに、いま、初めて見つけたという気さえした。
青い空。白い雲。それらを背景に、二羽の鳥が寄り添うように飛んでいた。つがいだろうか。
比翼の鳥、連理の枝。そんな故事成語を、彼女はなんとはなしに思い浮かべた。それはたしか、もともとは中国の詩の言葉だ。仲睦まじいふたりを表す、羽根のついた言葉。
――わたしと彼女も、つがいになれたらな。
硝子の少女は、空と鳥を眼に映しながら、想い人の声を耳で聴きながら、激しい恋情を胸に抱きながら、そんな儚い白日夢を夢みていた。
「最近、なんだか楽しそうね。いいことでもあった?」
晩の食卓で母親にそう言われて、彼女は意外の感があった。いいことは、あった。楽しいという感情は、あった。しかし、それを近親に見抜かれるとは、思っていなかった。
――わたしの表情が読めるというのだろうか。硝子でもないこの人に? 顔のないわたしの表情が……。
彼女と母親の距離は、遠かった。冷たく扱われたわけではない。特異な体質を蔑まれたわけでもない。それでも、ふたりのあいだには、薄い氷が常に張られていた。
彼女は、母親からの愛を実感できなかった。母親も、娘への愛に自信を持てなかった。表情のない透明な表情を、徴候のない透明な感情を、読みとれるほどでは、あったというのに。
だから、彼女はいつもどおり、言葉少なに答えるだけだった。
「別に」
そして、母娘の食卓には、いつもどおりの気づまりな沈黙。箸と食器のたてる音が、やけに耳についた。
「――え?」
寝耳に水だった。時がひび割れる音がした。
「最後って……?」
「うん。入院してたやつが、月曜からやっと戻ってくるみたいで、さ。そうなると、また一緒にご飯を食べるってことになるだろうしね。ありがとね、いままで付き合ってもらって、さ。あたし、自分勝手にべらべらしゃべってばかりで、呆れたでしょ? ごめんね、今日までの辛抱だから」
昼休み、学校の屋上、青い空の下。保健委員は、唐突に終わりを告げた。いともあっさりとしたものだった。
「呆れるなんて……そんな……」
彼女は、平静を装おうとした。が、無理だった。声が、震えた。胸が、裂けるようだった。頭の奥が熱くなった。耳鳴りがした。
保健委員は、そんな彼女の様子に気づかなかった。動揺したところで、硝子の彼女に表情はない。保健委員は、母親とは違った。そうだ、明らかなことだった。保健委員は、硝子の彼女にさして関心があるわけではなかった。とりとめのない話を聞いてくれる相手が欲しかっただけだ。そんなことは、最初からわかっていたことだ。彼女の異質性を気にかけないほどに。保健委員はマイペースな人間なのだから。
「あたし、人ごみは嫌いなくせに、ひとりで食べるのは退屈で、さ。どうしても、話し相手がいるんだよね。だから、すごく助かった。いろいろ我慢させちゃったんじゃない? あなたは、黙って食事する方が好きだろうから。前にも言ったけど、あたしって、どっか無神経なところがあるらしいから、さ。こんど退院してくるやつにも、散々そんなこと言われたんだよね」
一緒に昼食を食べないとしても、会えなくなってしまうわけではない。それでも、昼休みの屋上以外では、彼女と保健委員は特に親しく言葉を交わすわけでもなかった。朝や放課後は、保健委員は別のクラスメイトと和やかに過ごしていた。彼女には、そこに近づく勇気はなかった。変になれなれしくして、保健委員にまで白い目が向けられるのは嫌だった。だから、昼休みをのぞけば、彼女は相変わらずひとりで、相変わらず孤立していた。まるで、他人と楽しく過ごした時間など、夢でしかなかったというように。
――そんな夢すらも、わたしには許されないのか。
「……嫌だ」
「え?」
「これで最後なんて、嫌だ」
駄々っ子のように、彼女は言ってしまった。どうしようもなかった。
保健委員は、眉根を寄せた。その困ったような視線が、嫌だった。そんな眼を向けてほしくなかった。わたしの呟きなんて意に介さず、しゃべりつづけてほしかった。でも、保健委員はぴたりと黙って、言葉のない風が鳴っていた。
言うな、言うな、言うな。気持ち悪い。気持ち悪い存在のわたしが、気持ち悪いことを言おうとしている。困らせるな。大切な相手を、困らせるな。言うな、言うな、言うな。口にするな。
「わたし、あなたのことが好き」
言ってしまった。どうしようもなかった。堰が破れていた。
保健委員は、明らかに戸惑っていた。
「……もちろん、あたしも好きよ。こんなに話せて、ありがたかった。そんな相手ってなかなかいないのよ。あたし、気さくとかフランクとか、そんなふうに思われてるかもしれないけど、実はそうとも言い切れなくて――」
「違うの」
彼女は初めて、保健委員の話を遮った。
「違うの――そういう意味じゃ、ないの。わたし、本当に、あなたが好きなの」
じっ、と彼女は顔のない顔で、保健委員を見つめた。睨むようだった。
保健委員は、相手の想いを少しばかりは察したようだった。糸の切れた人形のような表情が浮かんだ。
「ありがとう」
そう言って、保健委員は残念そうに口許を歪めた。
「でも、あたしは、普通に男の人が好きなのよ」
拒絶された。面と向かってはっきりと。普通。
彼女は、生まれた時から普通ではなかった。身体が透けているという、その事実だけで、普通ではあり得なかった。その事実を、保健委員は気にせずにいてくれた。ただ、同性を好きになってしまったという、それだけの些細な事実によって、彼女は、保健委員にとっても、普通ではなくなってしまった。
「そう」
彼女の外面は、氷像のように冷たく固まった。彼女の内面では、いま、なにかが砕けようとしていた。
「ごめんね」
保健委員は、屋上から立ち去った。彼女は後に残って、チャイムが鳴るまでその場にじっとしていた。
月曜日。昼休み。彼女は、そっと階段をのぼり、小窓から屋上をのぞいてみた。
保健委員が座っていた。いつものように、弁当を箸でつついていた。その隣に、彼女はもういない。代わりにいるのは、男だった。
つがいの鳥のように、仲睦まじく、ふたりは笑っていた。
「…………」
彼女はゆっくりと歩き去った。パンを食べる気にはなれなかった。なにをする気にもなれなかった。
火曜日。空気の抜けた風船のように彼女は過ごした。
水曜日。皮膚を剥がれた鹿のように彼女は過ごした。
木曜日。音の出ないラジオのように彼女は過ごした。
保健委員は、教室や廊下で彼女とすれ違っても、目を合わせようとしなかった。声をかけようともしなかった。要するに、以前と同じだった。それまで通りだった。ひとときの夢が、消えたというだけだ。
毎晩、眠れなかった。夜が終わらず、頭がおかしくなりそうだった。ろくに食べてもいないのに、吐き気がおさまらなかった。胸を刺されたわけでもないのに、痛みが芯に響いてえぐれた。夜は長かった。異常なまでに長かった。光など、どこにも見えなかった。
不眠の夜が明け、十三日の金曜日。俗説によれば、神の子が磔刑に処されたとも言われる、剣呑な日。
放課後だった。彼女は、屋上に立っていた。保健委員はいない。だれもいない。彼女のそれまでの世界そのままに、ひとりで立っていた。
夕暮れだった。景色が赤かった。空は赤く、雲も赤かった。フランス国旗も、血まみれの竜も見えなかった。ただ赤かった。
彼女は泣いていた。泣くものかと、自分自身に祈るように誓ったはずの彼女が、いま、脆さをさらけ出すように泣いていた。
硝子の表面を滴がつたい、透明な感情の液体と、透明な玻璃状の肉体が、夕日に照らされ、プリズムのような輝きを放っていた。
それが、彼女の痛みの色だった。
孤独を生涯の友としてきた彼女が、初めて他人を切実に求め、初めて狂おしく恋をし、初めて痛ましく破綻した。クラスメイトのすべてから忌み嫌われ、しつこくなぶられたときも、彼女は平気だった。彼女は他人が心底嫌いだったから。他人はすべて敵だったから。痛みは外側にとどまったから。
すべて敵だと断じる性急さは、短絡的で余裕のない、彼女なりの防衛機制だった。自身を守護する外殻だった。自身を隔離する防壁だった。そんなふうにしか、生きられなかった。
いま、痛みは内側から彼女を苛んだ。敵とはどうしても思えない、近くに寄り添いたいと願った、唯一の相手。その相手からも、拒まれてしまったという現実。幸福だった記憶が浮かぶたびに、痛みは鋭さを増していった。埋められない喪失感が棘となって、彼女を襲った。そんなことくらいで、と嗤われるような脆弱さだとしても、彼女には耐えられなかった。
――わたしの一番目の罪は、この世に生まれたことだ。二番目の罪は、人並みに他人を求めたことだ。三番目の罪は、これからやろうとしていることだ。
彼女は赤い空をあおぎ、羽根を持つ者が過ぎ去っていくのを眺めた。かつて憧れた、空を横切るつがいの記憶。
夕暮れだった。鳥は
遺骸は、粉々に砕けていた。しおれたように制服が地に伏し、周辺にかけらが散らばっていた。血なまぐさくなくて助かる、と片づけながらだれかが言った。この高さでここまで砕けるのはおかしい、とだれかが言った。そもそも硝子が生きていたのがおかしい、とだれかが笑った。
物珍しい投身者は、無関係な他人にもことしげく話題にされ、そして、すぐに忘れられた。所詮は他人の死だからだ。
だが、疑問は残る。彼女は本当に死んだのだろうか。
硝子が生きるのが可能ならば、砕けたかけらがもういちど人になる可能性も、ゼロとは言いきれないだろう。人間は、たとえこころが砕けても、立ち直れないほど粉々になっても、それでも生きようとする、奇妙な生物だ。たとえ死を願い、死に焦がれ、死を求めても、なにかのはずみで生きつづけてしまう、いいかげんでずぼらな、愉快な生物だ。砕けて粉々になったはずのこころが、つぎはぎだらけでもまた生き始め、もういちど恋をし、もういちど笑うこともある、不屈の生物だ。死んでしまったはずの彼女にも、夢をみられない道理はない。
硝子がふたたび人になるならば。だれかがそれを伝えなければ。
硝子少女 koumoto @koumoto
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