硝子少女・中篇

「あなたって、とても綺麗ね」

 保健委員の少女は、まじまじとこちらを見つめて、そんな賛辞を口にした。硝子の彼女は、戸惑うばかりだった。

 体育の授業中にぼうっとしていた彼女は、グラウンドで急に走り出した時に、足をくじいてしまった。落としたグラスを心配するように、教師は仰々しく騒ぎ立て、保健室へ連れていくように命じた。ひとりで大丈夫です、と断ったが、保健委員の少女がついてきた。肩を貸すよ、と再三申し入れてきたので、仕方なく応じた。連れ立って歩き、校舎へ向かった。

 養護教諭の姿は見えなかった。保健室のベッドに勝手に横になり、彼女は眼を閉じた。大したケガでもないが、サボれるのはありがたい。体育は嫌いだった。座学とは違い、まったく好きになれない授業だからだ。回し車で走りつづけるハムスターのような、みじめな気分だけが残る。とはいえ、口実をもうけて見学していると、「硝子にも生理ってあるのかな」とクスクス笑われたのが聞こえたので、できるだけ参加するようにはしている。

 彼女は負けず嫌いで強情だった。危ういほどに。

 ふと眼を開けると、保健委員はまだベッドの近くに立っていた。そうして、彼女と眼を合わせながら、意味のわからない妄言を口走ったのだ。

「……キレイ? わたしが?」

「うん、とても綺麗。どっかのお姫様みたい。うらましいな――」

 彼女は保健委員の言葉に、一瞬、虚をつかれた。それから、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。彼女は身を起こした。

「……バカにしたいなら、好きなだけバカにすればいいけれど。他のところでやって。ケガしたときくらい、ゆっくり休ませてよ」

 彼女は保健委員の少女を睨みながら、棘のある言葉を放った。また外敵か、とうんざりしたような口ぶりで。

「ううん、違うのよ。気にさわったなら、ごめんなさい。でも本当に、いつもあなたを見るたびに思うのよ。なんていうかな――。凜としてる、っていうかさ。透明で、澄んでいて、綺麗だな、って。硝子だから、ってわけじゃなくて、さ。それとは関係ないの。まあ、あたしなんかは、肌荒れとかニキビもあるし、硝子もいいな、とか、正直、思ったりもするんだけど、さ」

 保健委員は彼女の怒りに気づいているのかいないのか、アハハ、などと笑いながら、なおも腹立たしい言葉を吐きつづける。硝子もいいな――だと? 硝子の彼女が、いままでどれほどこの身体を憎んできたことか、どれほど粉々にしてやりたいと望んできたことか、眠れない夜に幾度吐きそうになって消えたくなったことか。

 もちろんそんなことは、彼女以外にはだれも知らない。だれにも伝わらない――。

「……だったら、代わってみろよ。硝子の身体で、生まれてみろよ。顔のないまま、生きてみろよ。なにも……なにも、知らないくせに――」

 うめくように、ぼそぼそと、彼女はつぶやいた。泣きたいくらいの気持ちだった。小学生のとき以来、人前で泣いたことなどないが。彼女をなぶる人間たちは、彼女が泣き出すとますます増長し、つけあがった。だから、二度と泣かないと決めたのだ。たとえ殺されようとも、弱みを見せたくなかった。彼女は世界を絶対に許さないし、彼女をなぶった他人を許さない。だから、泣かないと決めたのだ。

「――ごめんなさい。怒らせちゃったみたいね。あたし、どうも空気が読めないっていうか、無神経なところがあるみたいで、さ。自分ではよくわからないんだけど。でも、あなたが綺麗だと思うのは、本当なの。って、それがむかつく、っていま言われたのよね? ごめんなさい、ホント、ごめんなさい。でもね……って、ダメだ、また言いそうになっちゃった、ごめんね」

 保健委員は、ひとりで焦ったり謝ったりあたふたしながら、なおも勝手にしゃべり続けている。とはいえ、本人の言うとおり、悪意はないようだった。彼女は毒気を抜かれてしまった。

「……まあいいけど。もう、戻ったら? わたしは大丈夫だから。どうせ、大したケガじゃないし」

「うーん、ここにいちゃダメ? あたし、体育って苦手なんだ。付き添いってことなら、サボってもオッケーかなー、って。だから、ついてきたってのもあるんだけどね。せっかく先生もいないことだし、さ。お話しでもして、時間つぶそうよ」

 彼女の返事も待たずに、保健委員は椅子をベッドの傍らに持ってきて座った。そうだ、せっかくだし、と思い出したようにつぶやき、また立ち上がって、保健室に置いてある冷蔵庫に向かった。

「身体動かして疲れちゃったし、お茶タイムお茶タイム。ちょうど、麦茶があるみたい。麦茶でいいよね? あたしも、麦茶好きだし」

 言って、またしても返事を待たず、二人分のコップに麦茶を注ぎ始めた。保健委員の少女は、どうも、マイペースなところがあるようだ。少しばかり、変わった人間だった。

「はい、どうぞ」

 保健委員は彼女にコップを差し出した。ありがとう、と言って、彼女はそれを受け取った。かすかに、二人の指先が触れた。

「――あれ? ちょっと、いいかな?」

 保健委員は、コップを持っていない方の手を、彼女の、これまたコップを持っていない方の手へのばし、ぎゅっ、と握った。彼女は、唐突に触れられて、ちぢこまる猫のように内心でおののいた。硝子のコップが揺れて、琥珀色の液体が震えた。

「うわっ、冷たい! すごく冷たい! えっ、大丈夫? なんか、あなたの手、すごく冷たいよ?」

 保健委員は、眼を丸くして、本気で驚いている。透明な彼女の握られた手が、保健委員の手の温もりで、白く色づいた。

「……別に、いつもこんなものだけど」

 硝子だから、と彼女はつけ加えた。

「そっか、体温低いんだ。末端冷え症ってやつ?」

 納得したように保健委員は言って、握った手を、ぱっと離した。

「でもさ、どこかで聞いたことがあるよ。身体が冷たい人は、こころが温かいんだって。ということは、あなたって、優しい人ってことだよね。あれ? でも、そうなると、あたしって、身体はけっこう温かいんだよね。ということは……」

 うーん、などと保健委員は悩み始めて、ずずっ、と麦茶をすすった。

 彼女は、保健委員の手が離れた後も、依然として落ち着かなかった。胸が高鳴ったままだった。

 保健委員は、放っておいても、ひとりでしゃべり続けていた。彼女はそれを聞きながら、そう、とうなずいたり、へえ、と相槌を打つだけだ。保健委員は、彼女の返答などお構いなしだった。会話とはいえても、対話とは呼べなかった。

 それでも、不思議と不快感はなかった。これは驚くべきことだった。彼女は、他人とのコミュニケーションに、いつも居心地の悪さしか感じたことがなかった。いつだって、彼女は人間に怯えていたし、いつだって、人間は彼女を物珍しがった。硝子の彼女は緊張で言葉少なになり、硝子ではない人間は表情のうかがえない彼女を不審がった。そこにはいつも、こわばった時間、ぎこちない時間だけが流れた。

 保健委員とは、そうはならなかった。なぜかはわからない。同じクラスでも、これまでは、ろくに話したこともなかったのに。とはいえ、ろくに話したことがないのは、他のどの人間でも同じだが。学校であれ、家庭であれ、硝子の彼女のまともな話し相手など、この世には存在しなかった。これまでは。

 やがて時も過ぎ、チャイムが鳴った。養護教諭は、けっきょく保健室に戻ってこなかった。

「あー、終わったか。最後までサボれて、ラッキーだったね。って、これじゃあ、あなたがケガしてよかったって言ってるみたいか……ごめんね」

「ううん、それは別にいいんだけど……」

 彼女は、この時間が終わるのが、少しだけ残念だった。こころ残りだった。そう思って、そう思ってしまったことに気づいて、彼女は愕然とした。

 わたしは、どうしたというのだろう。硝子でしかないわたしが。人間でしかない相手と。ほんのひととき、和やかに話したというだけで。

「あ、そうだ。それで、ものは相談なんだけど、さ。あたしさ、昼休みに、いつも一緒にご飯食べてた相手がいるんだけど。そいつ、いま入院しちゃっててさ。よかったら、今度から一緒にお昼たべない?」

 保健委員は、ついでのように、最後にそんな提案を口にした。

 硝子の彼女は、断りきれなかった。

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