望月、灰燼を照らす 下
「!」
苦悶の声を上げる姚係祖を、
姚係祖の判断は素早かった。
「
朱齢石に肩をぶつけて押し飛ばしたあと、張粋を抱え、部屋から逃げ出す。
「出会え! 謀反者ぞ!」
背後から朱齢石の叱咤が飛ぶ。合わせて、姚係祖らの前に兵士らが姿を表した。
姚係祖は肩口に刺さった短刀を引き抜き、得物とする。真っ先に躍りかかってきた兵士の剣を短刀で受け、いなし、奪い取る。
そして、斬り捨てた。
「よ、姚殿?」
「なにも考えるな! 逃げるぞ!」
姚係祖の顔色は見るからに青く、短刀が刺さった傷口からの出血はおびただしい。
行く手を阻まんとする兵士らは、姚係祖の相手にならなかった。姚係祖が雄叫びを上げれば兵らは怯え、あるいは退くものすら現れる。
無人の野を征くがごとく、である。姚係祖の足取りは鈍らない。
折しも物資の出し入れにぶつかったか、
姚係祖は一人を斬り伏せ、門にたどり着くと、後ろにつく張粋の襟首をむんずとつかみ、外に放り出した。そして自らは門の前に立ちはだかる。
「張粋! ここは俺が守る!」
「そ、そんな! 私などを――」
「黙れ! 行け!」
有無を言わせぬ口調でありながらも、姚係祖の面持ちは、やや柔らかい。だが、それもわずかな間に過ぎない。
朱齢石は、もはやすぐそばにまで迫る。
「おぉおおおおお!」
「う、うわぁああああ!」
姚係祖と張粋、両者の叫びは絡み、しかしすぐさま離れゆく。
脇目も振らず、張粋は走った。
武康の町のうち、乱雑に小屋が建てられ、入り組んだ街路が形成された区画に入り込む。
張粋を追い立てる声たちが小さくなる。力尽き、立ち止まったとき、近辺から兵たちの声は消えていた。
肩で息をし、やがてその腰は砕け、路地に倒れ込む。
「おい、おやじ。どうした?」
粗末な小屋の中から、ぼろぼろの衣を身にまとった男が出てきた。歩み寄り、張粋の肩に手をかけると、囁きかける。
「何が起こった?」
「――よ、姚殿が」
張粋が言えたのは、それだけである。
だがそれだけで、男――
「わかった。もう、何も言うな」
周囲を見回したあと、男は張粋の肩を担ぎ、小屋の中に引き入れる。
遠くでは、謀反者を追及する声が上がっていた。
あれから、何日が経ったのか。
「なっ、貴様は――」
小屋の外で、骨を打つ鋼の音がした。
うつろな眼差しでいた張粋が、否応なしに目覚めさせられる。しかし身動きを取ることは叶わない。腰を浮かべこそしたものの、あえなく尻餅をつく。
小屋の扉が叩き割られると、薄暗かった室内に容赦なく光が注ぎ込まれた。いちど張粋は目を背けたが、その手でひさしを作り、目を細めながら入り口に向き直る。
後背より光を受け、そのすらりと伸びた上背は、しかし影の塊である。
その後ろには血にまみれ、地に伏す戴昱の姿がある。
「しばしのお見限りでございましたな、張粋殿。お迎えに上がりました」
影は慇懃に、甘ささえはらみ、張粋に呼びかける。
声を上げる暇もない。張粋は組み伏され、縄をかけられた。その上で目隠しと、口には轡がかけられる。
もがいてはみるものの、取り囲むのは屈強な兵たちである。数人がかりで担がれ、申し訳程度に
先程の声の主、朱齡石が出立の号令をかけた。
自らは馬に乗り、動き出した監獄車の隣に並ぶ。
「ようやく、張粋殿をもてなす準備が整いました。表向きは謀反人とせざるを得ぬため、乱暴な扱いになってしまいましたこと、お詫び申し上げます」
一団は
「姚係祖殿は、まことに惜しき人材にございましたな。なれど、悲しきかな。その武では、かのお方の罪はあがない切れませぬ」
進む道の左右を草木が覆うようになってきた。かたわらに流れるせせらぎは木漏れ日を受け、ちらちらときらめく。
張粋にできるのは、うめき声を返すこと、くらいのものだ。
朱齡石が張粋の轡に手を伸ばし、外した。
しばし息を荒らげたあと、朱齡石の声がする方に顔を向ける。
「私を、どうするつもりだ」
「姚係祖討伐の補佐の功を以て、特別にその大罪を不問といたします」
「なんだと?」
やがて一団は山道に差し掛かった。そう急峻な道ではない。だが、歩みはどうしても鈍らざるを得ない。
「車騎は仰りましたでしょう。
小鳥たちのさえずりが辺りを彩る。合わせて辺りに充満していた草いきれに、異質なものが混じり始める。
それは血と、肉の焦げた匂い。
「姚係祖殿を讃えるのであれば、その武よりは、むしろ己が足跡を隠し通される手立てでございましょう。事実我々は、姚係祖殿がどこに潜まれておるかを見いだせずにおれました――」
車が、止まる。
「――あなた様が、お仲間に姚係祖殿の死をお伝えになるまでは」
目隠しが、解かれる。
飛び込む景色に、張粋は目を見開く。
上げるのは、声ならぬ声。悲鳴とも言えた。
正面にそびえる、切り立った崖。
そこにへばりついていたはずの、砦がない。岩肌はすすにまみれ、そのたもとには未だ煙を立ち上らせる炭が散乱している。
その手前には、人の形をした、黒い塊の山。
「お仲間は、我らの目から自由であったと思っていたのでしょうな。一切の謀りもなく、我らをこの地へと導いて下さりました」
叫びやまぬ張粋が、監獄車より降ろされた。
一人の兵から、腹に膝の一撃を受ける。
かは、と息の塊を吐き出すと、張粋はうなだれた。
「失敬。話を進めねばならぬものでしてね。あらためて申し上げます、張粋殿の功績は並ならぬもの。なれど、あなた様が姚係祖と連れ立ち、反旗を翻してこられたのも、また事実。この点をいかに裁くべきか、
朱齢石は懐から竹片を取り出した。そこに記されていたのは、やはり「杼軸之悲、奈何建武為所云乎?」である。
「その車騎の目に留まりましたのが、こちらです。車騎は仰っしゃりました。含意を最低限の文字に込め、突きつける。その創意そのものは讃えるに値する。なれど、我が官位は皇帝陛下より賜りたるものである。我が官位を否定するは、陛下のお心を蔑ろとするに等しい。このような不遜なる句を綴る筆には、然るべき罰を下さねばならぬ、と」
縄が解かれると、その両手を重ね、板の上に載せられた。更にその上にあてがわれるのは、朱齢石が抜き放った、白刃。
「まっ――」
張粋が言えたのは、そこまでだった。
手首より上、二寸ほど。
ごり、という音とともに、張粋の四指が切り落とされる。親指もまた、つま先より、はじめの節までが。
「ああぁあああぁあああ!」
激痛に、張粋がのたうち回る。動きに合わせて、周辺には血が飛び散った。そのうちのひと粒が朱齢石の頬につく。
そこで初めて、朱齡石の笑顔が消えた。腹立たしげに舌打ちをすると、懐より手ぬぐいを取り出す。
とは言え、拭き取ったあとにはもう、先程までの笑顔を取り戻す。
「以上で、裁きは終わりました。晴れてあなた様は自由の身。仲間と
のたうち回り、叫ぶ張粋に、その言葉はどこまで届いたのかどうか。そのありさまをしばし眺め、朱齡石はことさらにうやうやしく拱手する。
「それでは、息災にあらせられませ」
どれだけの時間、張粋は叫んだことだろう。
声と、涙。唾液と、血。あらゆるものが枯れ、もはや満足に身動きを取ることもできない。
寝返りを打ち、仰向けとなる。
とうに、夜は更けていた。
「――」
何かを言おうにも、言葉にはならない。
遠く、狼の鳴き声が岩肌に響く。近くでは、そこであった惨劇など知らぬかのように、虫たちが歌い上げる。
いまし日の面影が、ことごとく喪われた中。
望月、灰燼を照らす――武康俠客悲録 ヘツポツ斎 @s8ooo
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