望月、灰燼を照らす 中
「
それ以外のことは語らない。民は朱齢石を好奇の目で見、あえて近寄ろうとする者もいない。朝方から昼を過ぎ、夕刻になるまで、正座をしたままだ。そして日が暮れるとやおら立ち上がり、県令府へと引き返す。
そのような振る舞いが、一週間ほど続く。
「
「間違いありません、朱齢石です。
自らの肩を掴む張粋の手が、ぎち、と音を立てる。
「そうか」
それ以上の言葉はない。
その代わり、姚係祖は、ただひとり大股で首塚に歩み寄る。あまりにも自然なふるまいであったため、誰も姚係祖を止めることができなかった。
「ずいぶんと下品なあつらえものだ」
笑みすら浮かべ、朱齢石に向け、言う。
対する朱齢石の面持ちも、また柔和なものに転ずる。
「無論、趣味ではありませぬ。なれど、精算さるべきは精算されねばならぬのです」
朱齢石が、懐から一本の竹片を取り出し、姚係祖に渡す。そこに記されていたのは「杼軸之悲、奈何建武為所云乎?」である。
ぱきり、姚係祖の手元で、竹片が折れる。
「
「
笑みをこそ残しながらも、両者はにらみ合う。
ややあって朱齢石は立ち上がり、拱手をしてみせた
「姚係祖殿にございますな。お待ちしておりました。
「ああ。で、何の用だ?」
「劉車騎は、姚係祖殿の登用をお考えでいらっしゃいます。曰く、
朱齡石の言葉は、姚係祖自身はさておき、その周りに侍る者たちを大いに揺るがすに足るものであった。
演技がかったしぐさを交えながら、朱齢石は語る。
「武を以て天下に臨むに、ただ
姚係祖は鼻で笑う。
「ずいぶんとうまい話だ」
「仰る通り。ならば、姚係祖殿のご判断に任せるしかございませぬ」
「なに?」
いぶかる姚係祖に対し、朱齢石はくるりと振り返り、背中を見せた。
天を仰ぐ。
「間もなく、この武康に車騎がお見えとなります。あなた様にとっての仇敵、怨敵が、いかなる
ちらりと目のみで振り返り、挑むような、あざ笑うような、へつらうような、いわくし難きまなざしを飛ばしてくる。
「面白い。乗ってやろうじゃねえか」
寸刻ほどの迷いもなく、姚係祖は答える。周囲からは口々に姚係祖をとがめる言葉が出るが、取り合おうともしない。
そう仰っていただけると思っておりました、朱齢石はあらためて向き直り、姚係祖に拱手を示した。
武康県令府に姚係祖と張粋が姿を現すと、守衛はうやうやしい拱手ののち、開門の号令を挙げた。
「不思議なもんだな。まさかこの俺が、お役所に歓迎されるなんてよ」
「何をのんきな……それに、どうして伴が私のみなのです」
「決まってんだろ、おまえが一番弱いからだ。朱齢石のやつは、それでもこっちに身一つをさらしてきやがった。だのに俺が護衛なんぞ付けられると思うか?」
「思いますとも」
迷いなき即答に、姚係祖は大いに笑う。
案内人に続き、館に入る。宴まで待つよう通された小部屋には、一切の飾り気がない。
落ち着き払った姚係祖と、腰が定まらず、きょろきょろと周囲を見回す張粋。二、三度落ちつけ、と声をかけてみたものの、効果はない。そこで姚係祖は調子の外れた声で歌い始めた。突然のことに張粋は目を丸めたが、ややあって
「まさかこのようなところで、姚殿の詩吟を聴けますとは」
「めったにない機会だぜ?」
姚係祖はにやりと笑うが、すぐさまその目つきが厳しいものに変わる。入口に目を走らせれば、戸口近くに、足音。
「お楽しみを妨げてしまいましたかな」
朱齢石だ。
「暇つぶしだ。待ち飽きたんでな」
「それは申し訳ございませぬ」
戸が開くと、礼服姿の朱齢石が拱手姿で現れる。顔を上げると、意図の見えぬ笑顔を示す。
「宴の支度が整いましてございます」
「ああ」
張粋が、ごくりと唾を飲んだ。立ち上がった姚係祖は、ぽん、とその肩を叩くと、先導する形で進む。慌てて張粋も従った。
武康県令府は、さほど大きな建物ではない。廊下に出て十数歩も進めば、突き当りの扉に当たる。その扉が開くと、やはり飾り気に欠けた部屋。
その上座で、男があぐらを組んでいた。
側には給仕と思しき者が、二人。そこに姚係祖ら三人を加えた、以上が宴の顔ぶれである。
男が、その厳めしい口ひげを持ち上げる。
「良く来た。
劉裕は酒盃をぐい、と飲み干すと、目で席を示す。劉裕からすれば、多くの酒菜を挟んだ、その向こう。
しばし固まった姚係祖ではあったが、意を決し、劉裕の正面にどっかと座り込む。拱手を示す。ただし高さは、胸よりも下。
「劉将軍、お招きに感謝する。しかし、まさかこうも質素なものとはな」
「好かんのさ。歌も、踊りもな。
さきほど乾したばかりの酒盃に、劉裕は手ずから二杯目を注ぐ。ただし自ら飲むわけではなかった。姚係祖の眼前に突きつける。
「余計な小細工はせんよ。まずは飲み、食え。腕にはよりを掛けさせた」
酒盃と劉裕の顔とを見比べた後、姚係祖は受け取り、やはり一息のもとに飲み乾す。劉裕はうなずくと箸を取り、料理に手を付け始めた。
「張粋殿はこちらに」
朱齡石が示したのは、姚係祖らが向かい合うよりもやや手前、品数こそ主賓らには及ばないが、それでも色とりどりに取りそろえられた食膳である。
先に朱齢石が上座側に着座すると、その手前に張粋を促す。
一度、姚係祖を見る。
振り返りはしない。
どころか、そのうなじあたりに汗が滲んでいるのが見えた。
姚殿、呻くように呟いたあと、恐る恐るの体で張粋も席につく。
「将軍、俺がここに来た理由は一つだ。あんた、本当に収奪をやめるのか? これ以上、民を苦しめることはねえのか?」
料理には手もつけず、姚係祖が切り込む。対する劉裕は、箸も止めずに答える。
「ない。思い知らされたからな。貴様のような者を生めば、軍を強めるはずが、かえって被害を出す」
それよりも食え、と劉裕が促してくる。
「それにな。収奪は割に合わん。あんな不安定なやり方に頼れば、得られる物資の見通しも立たん。これから儂らは外に打って出る。そのためにも体制を正さねばならん。此度はその、良き契機となった」
姚係祖は相も変わらず、酒のみを流し込んでいる。
「礼を言われるようなことじゃねえ。俺はおまえに肉親を、仲間を殺された。なんだったら、今この場でくびり殺してやりてえくらいだ。だが、そんな俺でもわかることだってある。なら、おまえの代わりに誰がこの国を引っ張ってけんのか、ってのをな」
だん、と、盃を置く。
「将軍。俺がおまえを許すこたあ、ねえ。だが、いま残されてるやつらが笑ってられるってんなら、話ゃ別だ。使いこなしてみろ」
ふむ、と劉裕があごをしゃくる。
「自らよりも、ともがらのため、か。好ましいぞ、姚係祖。我よ我よと言い出す者は、とかくわずらわしいのでな」
盃を置き、食膳を除け。
「ならば、貴様には話しておこうか」
ぐい、と劉裕が、姚係祖に寄る。
「今の儂にはな、より強き将が要る。この国は未だ多くの外敵に囲まれている。やつらをねじ伏せおかねば、民の安寧などありえまい。貴様を招いたのも、そのためよ。そして直に語らい合い、はっきりと分かったぞ」
劉裕が、姚係祖の肩に手を置いた。
浮かべるのは、見下しきった笑み。
「――貴様十人ぶんの武で、朱齡石ならば、なお釣りが来る」
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