望月、灰燼を照らす――武康俠客悲録

ヘツポツ斎

望月、灰燼を照らす 上

 ぼろをまとったふたり組を、甲冑姿の男たちが、顔に笑みさえ浮かべて追い立てる。

「おらっ、もうすこし気張ってみせろや!」

 投げられた石が、一人の背中に当たった。それで倒れるということはない。だが、足取りは目に見えて鈍る。

張粋ちょうすい!」

 先をゆく男が声を上げた。

「構うな! 行けっ!」

 痛みに顔をゆがめながらも、張粋は叫ぶ。

 迷ってなど、いられるはずもない。みるみる間に追手は迫り来る。

 張粋の言葉に、しかし男は従わない。立ち止まり、張粋の手を取りに戻る。

「ばかな、戴昱たいいくっ!」

 獲物が自分から向かってきてくれているのだ。喜ぶべき展開のはずである。だが、追手の目に浮かぶのは、失望。

 張粋がその表情に激高する――

 よりも、早く。

「相変わらずだな、ヘドが出る」

 声とともに、茂みから無数の矢が飛ぶ。

 追っ手の笑いはたちまち恐怖で凍りつき、脳天に矢を受け、崩れ落ちた。

 倒れたのは先頭の数人である。いまだ数人は残っていた。彼らはすぐさま円陣を組み、全方位からの襲撃に備えた。

 いや、全方位ではない。

「上だよ」

 声とともに降ってきた男は、降りしなに二人の、着地後には一人の首筋を懐剣で割いた。

 さらに二人が血の海に沈む。残るは、一人。

「あ、っあ、ああ……」

 腰が抜け、倒れる。ろくろく歯も噛み合わない。

 男が冷ややかに、相手を見下ろした。

「殺される覚悟もないわけか。気楽でいいな、北府の犬は」

 相手を蹴り倒すと、男は張粋らに振り返った。

 その立ち振る舞いはしなやかで、例えるならば、猫、だろうか。虎と呼ぶには、やや細きにすぎる。

 茂みからは七、八人ほどがあらわれる。めいめい、手には弓矢を待っている。

「災難だったな、あんたら。よく逃げてきた」

 男は張粋らの前で立ち止まる。血にこそまみれているが、そこにはもはや、先程までの獰猛さはない。

 張粋と戴昱は、慌てて拱手した。左手を前に出し、そこに右手を覆いかぶせる形の挨拶である。

「っか、桓謙かんけん将軍が配下、張粋と申しまする! ともにあるは、戴昱。この度は誠に――」

「あぁ、かたっ苦しいのはなしで頼む。いいんだよ、俺らはやつらを殺しに回ってる。あんたらはそのついでだ。ついでなりに感謝してくれさえすりゃな」

「む、ついでとは、また難しくござる」

「俺もそう思った」

 男はからからと笑う。周りの配下たちも、合わせて笑った。

「っと、俺が名乗ってなかったな。姚係祖ようけいそってんだ」

 その弾けるような笑顔のまま、姚係祖は拱手した。


 馬に乗せられ、目隠しをさせられる。途中何度か降ろされたあと、その場で回らされ、足がふらつくかどうか、といったあたりで再び馬に乗せられた。

 それを五、六回繰り返し、ようやく姚係祖が言う。

「面倒かけたな。着いたぜ」

 目隠しを外せば、正面には、切り立った崖にへばりつくような砦が築かれていた。

「ここの場所知られちまうのは、いろいろやべえからよ。なんで、匿うやつにゃみんな、同じことをしてもらってんだ」

 姚係祖の声が聞こえていたのか、どうか。張粋はあんぐりと口を開け、断崖を見上げる。兀突とした巌は、その先で霞の向こうに隠れる。

 促され、砦の中に入る。

 中には、少なからぬ老若男女。新たな訪問者に、みなが好奇の顔を向けてきた。

「桓謙将軍が配下、張粋殿と、戴昱殿だ!」

 姚係祖が怒鳴る。すると辺りは静まり返った。その中にあって、すすり泣く声さえ聞こえ始める。

「姚殿。ここにおられる方々は、一体、どのような……?」

「あんたらのお仲間さ。家族を殺され、家を、畑を焼かれた。北府軍、劉裕りゅうゆうのクソ野郎に」

 その声色に激したところはない。だが、目の奥には底暗い火がうかがえた。張粋は息をのむ。あらためて周囲を見渡せば、何人かが近寄って来ていた。

「よく生き延びた、同志! 虎狼のごとき北府兵、さぞ恐ろしかったろうに!」

 そう涙ながらに訴える壮年は、見れば張粋らと同じ仕立ての服を着ていた。

「あなたも、西府に?」

 壮年は涙も拭わず、二度、三度とうなずいた。

「わしの上官は、都に攻め上がらんとする劉裕めを阻まんとなされた。が、あえなく一刀のもとに斬り捨てられた。そのままやつらの軍勢に飲まれかけたところを、姚係祖様に拾っていただけたのだ」

「お、おい、おっさん! そういうこと言うんじゃねえよ!」

 慌てふためく姚係祖を見て、周りから、ぱらぱらと笑いが漏れる。「ったく、勘弁してくれよ」ときびすを返し、砦の奥に向かう姚係祖の振る舞いは、思った以上に、若い。

 壮年が言う。

「ああいうお人よ。自分のことなど顧みず、北府の敵を助けて回っておられる。武技だけではない。そのお心も強くおられる」

「な、なるほど……」

 遠ざからんとする背中が、ふと止まる。

「張粋! 戴昱! おまえらが食わんのなら、用意した飯は、俺が全部食うぞ!」

 すでに呼び捨てである。

 ふたりは見合い、苦笑し、付き従った。


 広間に食菜と酒とが散らばり、その合間に寝息を立てる者らが転がる。窓際にたたずまう姚係祖は、広間のありさまを見てまなじりを薄らがせると、くい、と手にした盃を口元で傾げた。

 そこに、張粋が歩み寄る。

「勘弁してくれ。そろそろ落ち着いた酒にしてえ」

「なに。もはや酒である必要もございますまい。古来より言われております、月は人を酔わせる、と」

 張粋から見て、姚係祖の、さらにその向こう。黒ぐろとした夜天に望月ぼうげつ煌々こうこういます。

 姚係祖は口をへの字に曲げ、足元に落ちる影を見た。

「おまえの言葉に悪酔いしそうだ」

 その渋面はやや、緩い。

 張粋は微笑むとひざまずき、姚係祖を仰ぎ見た。

「姚殿は、まこと命の恩人。この襄陽の張粋にできることであれば、何なりとお申し付けください」

「だから、そういうかたっ苦しいのは――」

 そこまで言いかけ、ふと、止まる。

 思案の後、張粋を見る。

「お前、文章はいける口か?」

「人並みにはそらんじているかと思いますが、何故そのような?」

 言わねえよ普通、諳んじるなんて。姚係祖は笑う。

「俺がこんなんだろ? いねえんだよ、書けるやつが。どんだけ叫んでみたとこで、声じゃ一里がせいぜいだ。だが文章なら、あっさり百里を超える」

「百里……」

 杯を放り、窓枠から下りる。

 しゃがみ込むと、その目線の高さを張粋に合わせてくる。

「それで、劉裕は力を得ただろう? あいつは手前を正義だと言い切った。ふざけた話だ、あいつのせいでどれだけ死んだ? どれだけのやつが悲しみに、憎しみに暮れた?」

 静かで、だが、圧のある声。

「姚殿も、やはり劉裕に?」

 思わず、張粋の口から言葉がついた。

 ひとときの間が落ちる。ややあって、言っちまったか、姚係祖が決まり悪そうに頭を搔く。

「まぁな。俺の兄貴はな、地元領主の苛烈な取り立てに反乱を起こしたんだ。鎮圧に来た劉裕の野郎も、かなり苦しめたんだぜ」

 へへ、と自慢げに笑う。

 だが、すぐに沈む。

「だが、そいつが仇になった。劉裕の野郎、別動隊に、兄貴の故郷を襲わせた。偶然俺は狩りに出てたから難を逃れたが――その代り、俺が村に戻って来た時にあったのは、村の焼け跡と、兄貴、家族の首なし死体だ」

 張粋は息をのむ。

「ここで山賊まがいのことやって、確かに今んとこはどうにかなってるさ。けどな、そいつにも限界がある。こっから先にゃ、言葉が要る。やつの仮面を引っぺがし、その醜悪な姿を世にぶちまけなきゃいけねえからな」

 そうして姚係祖は、再び笑顔を浮かべた。

 覚えず、張粋の瞳に涙が浮かぶ。慌てて袖で拭い、拱手と共に顔を伏せる。

「この微力、決して惜しみますまい」


 ――杼軸之悲、奈何建武為所云乎?

(杼軸の悲、なんぞ建武の云いたる所たらんか?)


 以後姚係祖が剣を振るった地には、必ずその書き込みが残されるようになった。

 杼軸の悲とは、編み物のための糸車に通す糸もないほど困窮している、といにしえの悲歌に残された句による。過去に劉裕が、西府を打ち倒さんと決起したときに題目とした言葉である。民を虐げる西府に、どうして義があろうか、とうそぶいたのだ。

 その劉裕が、各地での収奪をほしいままとしている。そのような暴挙、どうして許されようか? それが、書き込みの含意である。

 一向に進展しない状況に業を煮やした劉裕は、やがて対策を講じた。武康、即ち姚係祖らが根城としている地に、一人の将軍を派遣したのである。

 その名を、朱齢石といった。

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