第19話
二人というのが誰かは言うまでもない。
一緒に暮らしている丸屋恵那と、彼女が産んだ娘のことだ。
元気だと、今日は二人とも家にいて帰りを待っていてくれるはずと答えると彼は安堵した風に笑う。
「早いわねぇ、来年は小学校でしょ」
「ええ」
実際、月日の経つ早さ、子供の成長の早さにはおどろかされる毎日だ。今年に入って教えだしたピアノは舌を巻くほどに上達が早く、保育園では歌が上手だと評判らしい。遊びに来た康昭くんは天才だなんて言ってはしゃいでいて、私が音楽を始めた頃を思い出す。
藤田さんは続けて、今度は不安げな声で聞いた。
「……大丈夫、なのよね?」
答えに困る質問だった。藤田さんはあの子の正体を知っている。「大丈夫か」という質問の意図もなんとなくわかる。「大丈夫」なのかは私自身もわからなかった。何を「大丈夫」とすればいいのかも。
六年前、恵那は代わり雛を引き裂いた後も殺されることはなく、胎児は順調に発育していった。名前もわからない男と関係を持って妊娠した……そう公表したら周囲からは白い目で見られ、堕ろせなんて声も多かった。筆頭は……母方の祖父母だとか。
恵那はそいつらに謝りながら、当然中絶しろという声にだけは従わず、産むことにした。母親の生命保険金のおかげで経済面ではそれなりに余裕があり、大学を休学して。お腹が大きくなると生活の都合から、私たちと同居することになった。
二人で親になると決めたとはいえ、結局産むのは恵那で、いつ殺されておかしくないというリスクも彼女だけのもの……孤独や不安、恐怖を共有してあげられない。
お腹の大きい彼女の手助けをするとか、物理的な面でしか力になれないのが歯がゆかった。
身勝手につらくなっていた私に、恵那は夜、一緒に寝て欲しいと言った。母とよくそうしていたからと少し恥ずかしそうに。
私は親と同じ布団で寝た記憶がない。試してみて、誰かと寝るのはたしかに気持ちが安らぐのを知った。
臨月を迎えても、どこまでも殺される可能性は捨てきれない。病院で恵那に陣痛が襲ってきた時が一番怖くて、分娩室にまで付き添い、すぐ隣でずっと手を握り続けた。
無事に産まれた時、二人とも涙が止まらなかった。
『生まれてきてくれてありがとう』と心から思った。
恵那は出産の翌年に大学に復学、三年前に卒業し、今は保育園や幼児向けデイサービスを運営する企業で働いている。現場の施設で働くことをあきらめたのは、娘のそばにいられる時間が取りやすいように、だ。
収入が安定し、千川に家を借りて娘と三人で暮らし始めたのが一昨年のこと。
パートナーシップ制度では親権があるのは恵那だけだ。それでも私たち二人があの子の親……そう思っているし、娘もそう思っていて欲しい。
親だと思われたい……自分がそんな願望を抱く日が来るなんて。昔の私ならひたすらおぞましいとしか考えなかったろう。
別に現状が悪いわけじゃない。どころか順調。順調だった。
娘は「いい子」だ。いわゆる「まっとうな子」だ。
それは悪いことでもなんでもない。なのに妙に怖くなる。
藤田さんの言うような危惧とはむしろ真逆の、「果たしてこれはいいことなのか」という感情を時折抱く。
それは多分娘に自分を投影して、だ。子供を自分と同一視して、だ。
あの子の親として生きるにあたって、私も社会とある程度折り合いをつけなきゃいけなかった。
困った時に助けてもらうべく恵那の親戚や『ヤドリギの家』のボランティアに来ていた人たちに積極的に頭を下げた。周囲の子供たちの親とも交流することになった。育児の悩みや不安に共感して、されて、悪くないような気持ちになってしまっていた。
いつしか、ピアノの演奏はあまりネガティブな感情に引きずられなくなって、楽器店での仕事の他に時折レストランやバーで弾かせてもらえるようにもなった。
そういう、大人になる自分が、社会を許していく自分が、やはり自分を裏切っているようにも思えてしまう。
今の世界人口は八十億人超、一年に二億人近くが生まれているらしい。人間が一日あたり五十万人以上生み出されては様々な要因で命を落とし、地を這い宙を漂っている。
娘の他の「邪坊」たちはどうだろう。
あれから、妊婦怪死事件は一件も発生せず、世間的には何もかもが謎のまま収束を迎えることとなった。
新たに取り憑かれる女が出なかったのはもちろん、あの時点ですでに宿っていた大量の「邪坊」全てが、あの子と同じように生きることを選び、この世に生まれてきたことになる。
私たちの言葉が全体にまで届いて、決心させた、ムシがよすぎるけどそう考えるしかない。
当然その子たちの親は子供の正体なんて知るはずもない。私たちはその子たちを無責任にこの世に放り出したことになる。
植え付けられた期待を裏切られ、苦痛に喘いでいる子だってどこかにいるんじゃないか。記憶がないのなら結局「産んでくれなんて頼んでない」という理不尽な苦しみを与えるのと変わらないんじゃないか。
あるいは逆に、かなり高い可能性として、記憶がないまま「いい子」に育ったとしたら、子供を持つことを望むようになる子が多いんじゃないか。生まれる前にあれだけ憎んでいたものに与することになるんじゃないか。
不幸にしてはならない、幸せにも閉塞したイメージが付き纏う。私のこれは多分生涯そのままだろうし、だから子供に関しても、迷いは決して消えないと思う。
「あたしもね、自分がいい親なんだかわからないけど」
藤田さんには娘が二人いるらしい。昌司さんとの縁は、下の娘に憑いた霊を祓ってもらったことだとか。そのあたりを知った頃にはもう、私はこの人を、親を無条件に憎む気持ちは抱けなくなっていた。
彼の言葉で、現実に引き戻された。ラジオの声もまた耳に入ってくる。トーク番組はいつの間にか終わっていて、この後はニュースだという。
「がんばんなきゃいけないわよね、この子が幸せなら何もいらないって、エゴがなきゃ」
「……そうですね」
もっともだった。迷おうと迷うまいと、あの子はもう生きているじゃないか。私たちはあの日誓ったじゃないか。左手薬指の指輪を見つめて思う。
車窓から見える街はさながら「禍事種」の植わった畑か果樹園だ。前世のあの子の呪いも、あの日の私の憤りも間違ってはいない。
八十億の命とその数だけの幸不幸を満載して自転車人類号は倒れないために走り続けている。
音楽に映画にテレビゲームに料理やお菓子作り、昌司さんと康昭くん、
楽しいこと、美しいことはこんなにあるとあの子に、自分に言い聞かせながら死ぬまでペダルをこぎ続ける。私はあの日から、自転車を降りるわけにはいかなくなった。
『最初のニュースです。日本全国の産婦人科で妊娠の確認された女性が一人もいないという期間がすでに一ヶ月以上続いていると日本医師会が発表しました。またWHOの調査では世界一九〇ヵ国以上で同様に――』
・・・
ててーーはぁーーはいいーーかにーぞたぁーーねまぁーーーーくやぁーーーー
洗濯物を取り込んだ後うとうとして、目が覚めるとあの子の姿が見えないことに気づいた。部屋にはいない。どこに行ったのか、ベランダに出てみると頭上から歌声が聞こえてきた。
忘れるはずもない、あの歌。
瞬間に鳥肌が立ち、汗が噴き出してくる。真上を見上げると、屋上のフェンスから顔を出し、娘が歌っていた。
すぐさま部屋を出て、階段で屋上へと駆け上がる。
まぁーーがごぉーーーーとたあーーーーねーーーーをまあーーーーくひーーーーとのぉーー
私がドアを開け放って屋上へ飛び出す。
フェンスによじ登った娘が青空に向かって高らかに、あの呪いの歌を奏でている。
声は娘のものだけど、この年齢のキンキンと高い、ほとんど叫ぶだけみたいな歌い方ではまったくない。
伸びやかで美しい、あの夢で聴いたままの。
たぁーーーーえなぁーーーーばひいーーーーとのーーーーーたあーーーーーーえならーーーーーん
私は歌い終わるまで、やめさせることができなかった。彼女の背中が目に入った瞬間から声一つ発せず、一歩も動けなかった。
この歌がもたらすものを知っているのに。恐ろしさで震えが止まらないのに。
虚無のように澄んだ青空に歌声が響くのが、あまりにも美しくて。
後ろ姿しか見えないけど、この子は今本当に、楽しく歌っているんだなというのが伝わってきて。
「ママ!」
歌い終えると、娘はこっちを振り向いた。
数え切れないほど見てきた、愛くるしいとしか思えない笑顔だった。
危ないことをしているはずの娘に、危ないとかやめなさいとか言う気にもならなかった。
「な、なん、でっ……」
「今日、母の日でしょ。聞かせてあげようと思ったの。本当は
「そうじゃなくてっ!!」
何であの歌を知っているの? 一度も歌ったことなんかないのに。
「わかるでしょ?」
娘の答えはそれだけで、たしかに答えは明白だ。このつもりだったんだ。最初から。
転生を繰り返す間に溜め込んだ呪詛を、今度は生きた体の声で、世界に撒き散らすためにこの子は生まれてきたんだ。
娘はフェンスから降りると、私の方に駆け寄ってくる。
子供特有の細くて柔らかい髪とスカートの裾、首から下げたお守り袋が風に揺れる。
私は愛以上にこの子を、愛は私以上にこの子を守ると誓い合った、世界一大切な娘。
私の目の前まで来て足を止める。娘はさっきまでともちがう、見たこともない笑顔を浮かべていた。こんなに幸せそうな笑顔を私は他に知らない。
青空を背景に、細められた目から覗く瞳は何よりも濃い闇の色をしている。
きっと前世での死の間際もこの顔だったんだろう。
あの時の幸福感が蘇ってくる。同じ気持ちなんだ、この子。
「ねえ、ママ」
「っ……」
「ママとお母さんのこと、大好きだよ。
「みんなって…………? っ、まさか歌ってるの……? この歌、あの子達も」
「うんっ、今もみんなで歌ってたの」
娘が空を指差した。
あの数ヶ月、像に祈りを捧げた女性たちの産んだたくさんの子供達。彼らがこの空の下、高らかに呪いの歌を合唱している。
それが意味することを、私は明確に想像できていた。
『子供を作るのをやめて今生きている人間だけで終われば、もうそれ以上はない』
愛が言っていたことが現実になる。
誰も生まれない、死ぬだけ、減るだけの世界。
様々な形で八十億人が死に絶えて、その後は楽しいことも悲しいことも、可能性のない世界がやってくる。
途絶えた出生と歌の関係に気づいたら、人類はこの子たちを抹殺しようとするかも知れない。その時どうすればいいか。
私は、左手薬指の指輪を見つめる。そんなの決まっている。
愛と誓ったあの日から決まっている。
だってこの子には、それが最高の「いいこと」なんだから。
親がしてやれることなんて一つしかないじゃないか。私たちの言葉を信じたから、この子は生まれてきたんだ。
「絶対応援するよ、ママもお母さんも。がんばって叶えようね」
「うん、一緒に歌おう、ママ」
私たち親子の歌が人類に終末をもたらす。
そのことに思いを馳せて、私は自分が産んだ滅びの子をぎゅっと胸に抱きしめた。
呪胎告知 ヰ坂暁 @sunlight
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