五章 生滅

第18話

「ごめんね」


 相川さんは泣くのをやめると、私の足下にしゃがみ込んでそう謝った。

 ひどく優しくて哀しい声音だった。私のお腹にいるハナに、染谷さんの仇と思っていた少女に語りかけている。

 謝るような筋合いは、多分ない。

 それでも「ごめん」と口にしてしまう彼女の気持ちが、私にもわかった。藤田さんが私に謝ったのも、多分これに近い思いからだったんだろう。

 そこにいる、苦しむあなたを見ているのに助けてあげられなくてごめんなさい。彼女は目にしてきた多くの霊にもそう思ってきたのかもしれない。


「私も、ごめんね……」


 自分のお腹を見下ろして謝る。

 彼女の母が、村で一番豊かな庄屋の家に嫁がせようとしたのも来世での救いを願ったのも、きっと親として真っ当な願いで、でもそれじゃあ救われなかった。

 私は親じゃないけど、この子に何もしてあげられないのか。黙って殺されてやることくらいなのか。

 動悸はあまり感じない。びっくりするくらい、自分の気持が落ち着いている。その心地のまま、私は言葉を発した。


「三つ、お願いがあります」


 三つのお願いはどれも、人生を左右するものだった。

 一つは相川さん小室さんに、「私が死んだら一生にわたって像を保管し続けて欲しい」というお願い。

 少なくともこれから新たに祈る人間は決して出ないよう厳重に。寿命があるから永遠には無理でも、死後も最大限、人に見つからない場所へ。

 二人はそれを受け入れてくれた。

 そして。


 明け方――北千住の自宅マンションに私は戻っていた。家で死にたかったから、じゃない。相川さん小室さんも一緒だ。

 母のいない家に帰っても涙は出なかった。少しの間母のベッドに寝そべって、それからバスルームへ向かう。

 私は浴槽のへりに腰掛け、相川さんは洗い場で膝立ちの体勢。小室さんは、少し離れて脱衣場から見ている。

 藤田さんにダメだった時の始末をお願いし、傍らに千切れる寸前の代わり雛を置いて、首からはもはや用を果たさないへその緒のお守りを下げて、私は事に臨んだ。

相川さん小室さんが黙って見守る中、自分のお腹を見下ろして語りかける。


「一度断られてるけど、言うね……もう一度、生まれてきてみない?」


 神の力に守られている邪坊は祓うことも殺すこともできず、この子達は生まれる前に母胎ごと死を選ぶ。死を逃れる可能性があるとすれば、改めて説得を試みるしかない。

 これは二つ目の、ハナへのお願い。

 三つの中で一番重大な、文字通り命がけのお願いだ。


「前にお願いした時の私は、子供を産むってことの重さを全然、わかってなかった。今は、わかってるなんてとても言えないけど、あの時よりは。

 嫌……だよね? あなたが望んで、あの神様が許してくれるなら、消えさせてあげるのが一番いいのかも知れない。だけど叶わないなら」


 相川さんが、私のお腹に手をかざした。そこにはハナがいて、目を丸く見開いて相川さんを見つめている。


「私も、人間も世の中も死ぬほど嫌い。自分たちの都合で作って都合のいいように教育して働かせて、それを繰り返す……まるで奴隷……金持ちも貧乏人も男も女も長生きでも早死してもみんなみんな奴隷。

 なのにそのことに疑問を持ったら『大人になれ』って。そんなの糞だってずっと思ってた。あなたとちがって口だけ、いや口にも出せないけど人類なんかさっさと滅べばいいって思ってた」


 小室さんの見ている前で、相川さんは親への、生への呪詛を吐露する。染谷さんも見ているだろうか。


「だけど、生きている間に好きな人や好きなことがほんの少し、少しだけできて……、そういう時だけ、マシな気持ちになって……あなたたちからしたらふざけるなって思われてもしかたないけど……でも今のところは、私は生きていたい」


 相川さんの呪詛も小さな救いも、結局は彼女のものだ。境遇に似たところがあって、共感した気になっても、相川さんとハナは別人なんだから。

 だから生まれてきてもらうには、やはりハナに、『いいことあるかも』って思ってもらうしかない。そして、生まれてきてくれたなら『いいこと』を私たちは命に代えても守らなきゃいけない。

 また、私から語りかける。


「どんなに親ががんばっても……前世のあなたのお母さんも、美咲さんも私のお母さんも、染谷さんも小室さんも藤田さんも、絶対に子供を守れるなんてことはない。私達も、絶対に守れるとは言わないだけど私達は……あなたがどんな子でも、絶対に拒まない」

「私も丸屋恵那も……優秀であって欲しいとか、普通の子にとか、真っ当な子とか、そんなものは期待しない。世界や人間が嫌いならあなたの嫌いも含めて。あなたの『いいこと』がどんな形でも、あなたがたとえ悪魔でも、その『いいこと』が実現して守られるように、命をかけて尽くす。

 だから――」


「私たちと、一緒に生きて欲しい」


 もしも生きて産むことができたなら、私と一緒にこの子を育てて欲しい――それが、相川さん小室さんへの三つ目のお願いだった。

 下腹部から頭を突き出したハナは特に反応めいたものを見せない。受け入れてくれたなんて考えるのは早計すぎる。直後に攻撃を受けても不思議じゃない。

 脇に置いていた代わり雛を掲げ、彼女の目の前に見せつけるようにする。もう本当に首の皮一枚というところまで来ている私の命綱。

 もはや、あと一日か二日の猶予。逃れる手段がないと確定した今ではほとんど意味のない猶予だけど、お願いをする上で彼女に誠意じみたものを示せるとしたら、それも差し出すくらいしかできない。

 相川さんと視線を交わし、頷き合う。

 ハナの瞳をまっすぐに見つめ、私は千切れかけの代わり雛を自らの手で引き裂いた。

 

・・・


 恐ろしく爽やかな日だった。。

 雲一つない、どこまでも澄んだ青空。暑くも寒くもなく、適度な風に新緑の葉が揺れるような、絵に描いたような「お出かけ日和」の休日だった。

 私はこの日、北区にある一軒の家を尋ねていた。緑化地域の一角に佇むごく普通の二階建て。緑に囲まれ、この家自体も庭が広々として、傍目には気持ちのいい家かも知れない。

 

「やめろっ! あたしの子だ! 触んじゃねえっ!」


 カーテンを締め切った部屋、古いベビー用品の散乱する室内で、女は赤ん坊を胸に抱き、私たちから庇った。

 女は異常なほど痩せ細っていて、同じく骨と皮の体の赤ん坊が母の腕の中でこちらを見つめる。女とちがい、この子自身は何の敵意も持っていないようだ。

私はたしかにその子の敵で、だから女は親として正しい。

 ただその子は八年前に死んでいる。死んだ原因はこの女の育児放棄だ。

 女は、死んだ子の亡霊を抱いていた。私の後ろにいる、この女の叔父に当たる初老の男性が「やはりいるんです?」と聞いてきた。

 

 保護責任者遺棄致死罪で収監されていた彼女は服役中から赤ん坊の声が聞こえると訴えていて、途中から医療刑務所に移されていた。

 出所して身元引受人である叔父の家で暮らしだすと、最初は恐怖の対象だったはずの目に見えない赤ん坊を甲斐甲斐しく世話するようになったらしい。

 死なせた赤ん坊の幻を相手に育児ごっこ……精神に異状を来しているのは明らかで、しかしそれだけじゃ説明がつかないことに女の体は目に見えて衰弱しだした。

医学的には原因不明だというけど、骨と皮みたいな体にどす黒い顔色は重病人と言われても不思議じゃない。

 実際、このままなら遠からず死ぬだろう。

 なのに、開けた服から覗く乳房だけは大きく張っていて、乳頭から母乳が滴り落ちている。私たちが来た時はちょうど「授乳」の最中だったようだ。体も子供が生きていると錯覚しているのか。

 授乳し、あやし、添い寝し、一緒にボールやカードを使って遊ぶ。見えていない人間には、赤ん坊の触れた物が動くのがそれこそポルターガイストとして映っただろう。

 それで私たちは叔父からの依頼で除霊に来た。たしかにこの女の衰弱の原因はあの赤ん坊だ。このままでは死ぬと周囲がどれだけ説いても、彼女は受け入れようとしない。そもそも霊なんかじゃない、生きてるだろうと言い張る。

 自分で放置して死なせた赤ん坊を必死になって庇う。かつての罪滅ぼしのためか、それともあの子に精神を支配されているのかはわからない。ただ。

 彼女はそばにあったフォークを引っ掴み、自分の首に押し当てた。先端が軽く刺さって血が滲む。自分自身を人質に鬼気迫る様子で叫んだ。


「この子殺すんならあたしも死ぬ! 出てけえっ!!」


 結局除霊は中止になり、私と藤田さんは退散することになった。

 昌司さんが死んだ後も「仕事」をすることがたまにあった。今回の件は、藤田さんの警察時代の伝手での紹介だった。

 玄関を出たところで藤田さんが私に聞く。


「やっぱり、殺されるしかないの? あの……お母さん」

「今のままだと」


 タイミングを見計らい、強引に彼女を押さえつけて祓うことはできなくはない。でも、誰もそうしようとは言わなかった。そうした時、本当に自殺しない保証は全くない。

 庭に出ると、カーテンの僅かな隙間から室内が一瞬覗いた。

「高い高い」をしていた。

 頬はこけ眼窩は落ち窪んだ骸骨みたいな横顔は本当に楽しそうで、赤ん坊も母親に甘えることができて無邪気に笑っている。

 正直少し、感動していた。あんなに幸せそうな霊を私は初めて見た。

 あの子の生前、ああいうことはどれくらいあったんだろうか。

 あの女は死ぬだろうけど、それでいいんじゃないかという気がしてくる。

 六年前、星野美咲を線路に引きずり込んだあの子も、ひょっとしたら憎悪から来る殺意じゃなかったのかも知れない。死ぬまでそばにいてくれた母親に「自分たちの方」に来て欲しかっただけなのかも。

それがあんな結果になったんだとしたらよけいに胸が悪くなるけど。

 近くの月極駐車場に着くと、使わなかった除霊道具一式を藤田さんのセダンに積み込む。バイクで来るには大荷物の私も彼に送ってもらって来た。

 車を発進させると、藤田さんはカーラジオをつける。軽快な調子で喋る男の声が聞こえてきた。聞き覚えがある。有名な芸人だと藤田さんが言う。


『今日は母の日ということで、お題は「お母さんとの思い出」でいこうと思います。子供の頃の話からごく最近の出来事まで、お母さんとのエピソードならなんでも大歓迎! ちなみに僕自身の話をすると――』

「ああ、母の日なのねそういえば。ごめんなさいね、なんか、そんな日に」

「いえ」

「さっきの今で聞くのもなんだけど……元気? 二人」


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