零節、異界残侠伝、ひときり包丁。

 日本の東海地方。

 旧東海道の脇街道にあるやきとり屋『鳥源とりげん』は、平日の昼どきにワン・コイン――五百円の日替わりランチを提供している。これが人気を呼んでサラリーマンや配送業務の運転手、それに付近の大学へ通う大学生などの客で昼どきの鳥源は賑わった。ワン・コインのランチなど手間がかかるばかりで利益がそう厚いものでもないのだが、昨今の世の中は永続的な不況状態であるから、今日こんにちに至って店主が三代目となり、秘伝のタレが入った壺も三代受け継がれた本格的なやきとり屋の鳥源でも、暖簾を上げる昼頃から通して酒を飲む場所としてきた営業形態を、昼だけはランチ・サービス主体に切り変えた。

 その平日のランチ・タイム・サービスが終わった頃合いである。

 曇りガラスの引き戸をガラリと開けて、初老の男が鳥源の暖簾を潜った。

 店内の高い位置にあるテレビでは夏の高校野球選手権大会が中継されている。

「カンッ!」

 白球を打ち返した金属バットの高い音が鳴って、

「――ぅわああっ!」

 スタジアムを埋めた観客の歓声が高くなった。

 真夏の平日、木曜日の午後だ。

 店内に客は誰もいない。

「――あっ、らっしゃい」

 テレビを眺めながら、カウンター・テーブルの向こうで串打ちをしていた店主が声を上げた。頭に紺色のバンダナを巻いて、紺色の作務衣を着て、丸い腹が前へ出張った、太っちょの若大将だ。

「――おう、昼からでも飲めるか?」

 来客は老い始めた声でいった。初老の男はズタボロになったワーク・キャップを頭に乗せて、白い開襟シャツに黒いズボン、足元は年季の入ったアーミー・ブーツの姿だった。その初老の男は暗いオリーブ色の外套を小脇に抱え黒い刀袋を持っている。目立つところがもうひとつ。腰には革の剣帯が巻かれていた。

 やきとり屋を訪れた初老の男はツクシである。

 奇妙な客に目を見張っていた若大将が気を取り直して、

「――あっ、へい、もちろんです。元々のウチは昼からずっと居酒屋ですから。どぞどぞ、お好きな席へどうぞ」

「懐かしいな――」

 ツクシはカウンター席の右端から二番目の席を引いた。

「え、はい? お客さんは以前にもウチへいらしたことが?」

 若大将は怪訝な顔でおしぼりをツクシの前へ置いた。

 年代物のエアコンが稼働中の店内は温度が高めである。

「――若大将は二代目になるのか?」

 おしぼりで顔をぬぐったツクシである。

「ああ、いえ、自分は三代目になります」

 若大将が壁に掛かっていた写真の一枚へ顔を向けた。

「三代目。先代の大将は――」

 ツクシは若大将の視線を目で追った。壁に掛かった写真のなかでツクシがよく知っていた先代の大将が、なにがしという昔のプロ野球選手と並んで嬉しそうに笑っている。このプロ野球選手が来店したときにとった写真らしい――。

「ああ、へえ、自分の親父はもう七年も前に――」

 若大将が弱く笑った。

 ツクシは先代主人の笑顔へ目を向けたまま、

「この店の先代はもうあの世あっちへ逝っちまったんだな。そうだよなあ、俺が日本にいたのは、今から二十年以上前の話だ。その当時で先代の大将は結講、年齢としがいってたからなあ――」

「――となると、お客さん、先代が店をやっていた時分から、ウチを贔屓にしてもらって?」

 若大将が冷水の入ったコップと一緒にプラスチック製品のピッチャーを、ツクシの前へ置いた。

「二十年以上前の話だ。それも、月いっぺん通っていたくらいでな。店構えはあの頃と、あまり変わらねェな」

 ツクシは油と煙でテカテカと黒ずんだ木造の店内を見回した。畳の席が五つと、コの字型のカウンター席が十二個ていどでさほど広くない。狭い階段から続く二階には宴会に使う座敷がある。

「それは、ありがとうございます。あっ、ウチは炭火なんで焼きに時間がかかりますが、いいですかね。すんません、最近は昼から飲むひとがうんと少なくなって、昼は火を完全に起こしていないんで――ホラ、飲酒運転の取り締まりやら罰則も、その昔に比べると、やたらと、うるさくなったでしょう――」

 若大将が焼き場へ追加の炭を放り込んだ。

 顔を歪めたツクシが、

「ああ、心配をしなくても俺は歩いてきたぜ。運転免許をもってねェんだ。いや、だいぶ昔に失効しちまってな、クソッ、お役人はどこの世界でも融通が利かねェよな――ま、待つのは構わねェさ。今日の俺は休みで暇を持て余してるんだ。若大将、先に大瓶でビールをくれ」

「へい、ビール大瓶一丁。これ今日のお通しです。ひとによって好き嫌いがあるんで、駄目ならいってください。他のお通しに代えますから――」

 若大将がビールの大瓶と一緒に出したお通しは小皿に入ったもずく酢だった。

「俺は結講好きだぜ、もずく酢。久々に食うなあ――うん、酸っぱい」

 ツクシはもずく酢をすすりながら、目を細め口角を歪め、コップへビールを注いだ。

 黄金色こがねいろの冷たい日本のビールである。

「お客さん、串は何にしましょうか?」

 若大将が訊くと、

「何でもいいぜ。適当に五、六本、見繕みつくろって――ああ、とり皮を入れてくれるか。あとは適当でいい」

 ツクシは顔を上向けてビールを呷っている。

「へい、わかりました」

 若大将は「とり皮は必須と、老人の歯に軟骨とズリ(※砂肝)は硬いから、これは一応やめておいたほうが無難か、ねぎまに手羽先にレバーとつくね――」などと考えつつ、うちわで炭火を煽った。焼き場にあった火が強くなって、網の上のやきとりがジュウジュウ呻きながら白い煙と匂いを上げだした頃である。ツクシは高校野球のテレビ中継を興味がなさそうな態度で眺めながら、ビールの大瓶五本を空にしてあった。


「――お客さん、すんませんね。随分とお待たせしました」

 ツクシの前にやきとりの皿を突き出した若大将の顔が引きつっていた。ツクシのビールを呷るペースが異様に早い。「待たせたから、苛立っているよな」若大将はそんな心配している。しかし、元々ツクシは不機嫌な形相なのである。むしろ、上等なビールを飲む今日のツクシはこれでも上機嫌な部類だった。

「――若大将。そこの酒の瓶」

 上機嫌でも上機嫌に見えないツクシは、カウンターの向こう天井に近い箇所にズラリと並んだ日本酒の空き瓶を眺めていた。

「――あ、へい?」

 若大将もツクシの視線の先を見やった。

「あの銘柄だ――もしかして、『皇御國すめらみくに』って読むのか。真ん中にある緑色の日本酒の瓶だよ」

 ツクシの視線の先には、太く荒々しい文字で皇御國とラベルに書かれた日本酒の瓶がある。

「へえ、そうですよ。純米大吟醸・皇御國。あれは、の酒(※ご当地の酒の意)です。あまり知られていないんですけどね。東海地方って結講な酒所なんですよね。お客さんは目が高い。あの酒はウチで一番のオススメです」

 若大将は笑顔でいった。

「へえ、じゃあ、あれを冷やでもらう」

 ツクシの視線は皇御國の空瓶に貼りついたままだ。

「えっと、お客さん、純米大吟醸ですから――値段は結講張りますけど、いいですか?」

 戸惑った笑顔の若大将である。

 ツクシはあまり金を持っているように見えない。

「いや、若大将、この際だ。値段はこだわらねェ。ひどく懐かしい銘柄の酒でな――」

 ツクシが真剣な声で促した。

「じゃあ、お客さんはこの酒を――皇御國を元々知ってたんだ。この味を知っているのは、相当な日本酒通ですよう」

 若大将が厨房にあったガラス戸の冷蔵庫から皇御國の瓶を手にとって、玉虫色に光るガラスの一合徳利へ皇御國の瓶から酒を注いだ。

「俺の舌は大したことがないぜ。昔々のすげえ昔の話なんだがな。こいつとおなじ銘柄の日本酒を俺は飲んだことがあってな――」

 ツクシは神妙な顔つきで、ガラスの徳利からガラスの御猪口へ酒をゆっくりと注ぎ、しばらく手にある杯を見つめたあと、それを一息に呷って、

「――旨い。間違いなくこの味だった。『並行世界にはまったく同様の存在が同時にあることも多いのだ』ってな。女王様やイデアがそんなことをいってたんだ。なるほど、こういうことをいうのか」

 ツクシは長く重い息を吐いた。若大将にはツクシの独り言の意味が、よくわからなかった。墓石のように沈黙したツクシは冷や酒を呷りつつ、たまにやきとりの串を口に運びながら、遥か遠くへ想いを巡らせている様子である。

 これを邪魔しちゃあ悪そうだな――。

 そう考えて若大将は沈黙した。

「ああ、若大将、一合徳利じゃ面倒だ。一升瓶とコップを寄越せ」

 ツクシは冷や酒のガラス徳利をあっという間に三つ空にした。どのみち、このまま一人で一升瓶を全部空けてしまいそうだ。

 苦笑いの若大将が皇御國の瓶を冷蔵庫から取り出しながら、

「お客さんのもってるそれって竹刀か何かですか?」

 ツクシが座るカウンター席の脇に黒い刀袋が立て掛けてある。

「――うん、ああ、これ真剣だぜ」

 ツクシが二本目のとり皮をもぐもぐしながら生返事をした。

「ひっえっ! いいんですか、真剣を持ち歩いて――」

 若大将が一升瓶を抱きしめた。

「立派な銃刀法違反だよな。ただなあ、こいつの場合は持ち歩かないほうが危険だと思うんだよなあ――」

 ツクシは脇にある刀袋へ視線を送って眉根を寄せた。

「はあ、持ち歩かないほうが危険なんですか?」

 若大将が皇御國の瓶とコップをツクシの前に置いた。

「あのな、若大将。俺はこの刀で押し込み強盗をやるつもりはないから心配をするな。今のこいつは俺の商売道具だ」

 ツクシが脇にあった刀袋を手にとって見せた。

「あひえ! しょ、商売道具ッ!」

 若大将は引きつった笑顔である。

「――ああいや、若大将。お前さん、何か勘違いをしてねェか? この刀は道場で使うんだよ。だから、俺の商売道具」

 顔を歪めたツクシが刀袋を元に戻した。

「あっ、ああ、道場。ヤクザの喧嘩でなくて道場ですか――お客さん、確かにそんな雰囲気ですよねえ。お仕事は剣道か何かの道場主とかですかね?」

 若大将はまだおっかなびっくりである。

 ツクシは一升瓶からコップへなみなみと冷や酒を注ぎながら、

「いや、俺は道場主じゃないぜ。師範代ってやつなんだろうな。あのクソ忌々しい遺跡塔――ジグラッドから突然、日本へ飛ばされた俺は、食うに困って橋の下の乞食どもと一緒に暮らしていた。そのとき、乞食狩りをやっていた、救いようがねェクソ餓鬼どもがいてな。俺はそいつら相手にちょっとした揉め事を起こした。その騒ぎの最中だ。通りかかった道場主の爺さんに――深谷の爺様に、俺は拾われたんだよ。今の俺はそのツテで、道場の子供ガキどもに剣道を教えて糊口をしのいでる。深谷剣道教室だ。そこの道場主は深谷信太郎っていう頑固な爺様だ。この店からバス亭で五つ分向こうだから近所だろ。若大将は深谷道場を知らないか?」

 若大将のほうは「このご老体は務めていた外国の会社で何かトラブルに巻き込まれて、日本へ帰国したあと、いろいろ苦労をしてきたのかなあ」そんな解釈で頷きながら、

「――ああ、小豆餅あずきもち(※地名である)にある立派な道場――知ってます、知っていますよ。深谷道場は古くからやってますよね。あの近所では通ってる子供も多い。あっ――えっと、それじゃあ、お客さんがあの九条先生?」

 若大将が目を丸くした。太っているので顔も丸い。出張った腹も、指先も全部丸い。ボールみたいである。ちょっと押したら、そのままコロコロ転がっていきそうである。

「ああ、若大将は俺のことを知っていたんだな。そうだ、俺がその九条尽だ。ツクシでいいぜ。九条先生はよしてくれよ、気恥ずかしいし――」

 ツクシがコップの縁を噛んだ。

「いやいや、九条先生。地元の有名人じゃないですか!」

 ツクシが凶器を使った犯罪を企んでいるわけではないし、その身元も悪いものではないとわかって、声の調子が明るくなった若大将だ。

「――そうなのか?」

 純米大吟醸酒をコップでぐいぐい呷るツクシである。

「深谷道場の若先生は、ものすッごい居合の達人だって。自分は町内会でそんな話を何度も耳にしましたよ!」

 若大将は目を輝かせている。

「――若先生とくるかよ。確かに、深谷の爺様に比べると、俺は小僧っ子同然の年齢なんだろうがな――刃物ヤッパをちょっと小器用に振り回せてもな。そう偉いもんじゃないだろ」

 ツクシが口角を苦く歪めた。

「いやいやいやあ、自分の聞いた話じゃあ、県外からも九条先生に教授を願って深谷道場へ通うひとがいるとかいないとかで――へええ、その刀で先生は居合をやるんですねえ――」

 若大将は何だか嬉しそうだ。

「まあ、たまには酔狂な奴が遠路はるばる俺を見にくるけどな。爺様が――深谷の爺様が、他所ヨソで俺のことをぺらぺら喋っちまうんだよ。俺のほうは気乗りがしねェんだ。教えてくれだとかいわれてもな。竹刀でやる剣道はともかく、本身でやる俺のワザは他人に教えられるようなものじゃなし――」

 コップ酒を呷りつつ視線を落としたツクシは愚痴っぽい調子である。

「教えることもできないワザの使い手ですか。そうなると先生はやっぱり達人なんだなあ!」

 若大将の声がひときわ高くなった。客はツクシ一人しかいないので若大将も暇である。

「達人なあ――畳だの巻藁だのを斬って見せるなんてのはな。あんなモン、大道芸の部類だぜ。だが俺が業をやって見せると物珍しさで喜んだ客から、おひねりやら酒やらが出てきたりな――だから、俺は嫌々やっている。今は異世界あっちで暮らしていた頃みたいに、このひときり包丁で生身のひとを叩き斬っているわけでもねェからな。大道芸をたまに披露するていどなら、まあ、気楽なモンだろ――なあ、違うか、若大将。ククッ!」

 ツクシは酒の杯を片手に口角をぐにゃりと歪め、凄惨なまでに悪い笑顔を見せた。

「――あっ、ひええっ!」

 若大将の顔色も悪くなった。

 ツクシは一升瓶を空にしてもまだ飲み足りないという。

「――若大将。勘定を頼む」

 ツクシは皇御國の冷やが入ったガラス徳利六合分を空にしたあと、ようやく席を立った。

「へい、ありがとうございます。しかし、いい飲みっぷりですね。大丈夫ですか。タクシー呼びましょうか?」

 呆れ顔の若大将だ。

「いや、年齢としを取って随分と酒に弱くなった。若い頃は昼からやって夜更けまで酔わなかったもんだがな。今は昼から酒をやるとせいぜい夕方までだ」

 口角を歪めたツクシは、目元が少し赤らんでいたが、酒に負けて身体が揺らいでいる様子はない。

「ははあ、すごいですね。剣の達人の上に酒豪ときた。これは本物のおサムライ様ですよ――ええっと、お会計、一万とんで八千と八百円。ま、細かいのはいいや、負けちゃいましょ。一万と八千円でお願いします」

 本日のお会計である。

「かっ、かなり高かったんだな、あの日本酒――」

 声を裏返したツクシが二つ折りの古びた革の財布から、一万円札と五千円札二枚を引っ張りだした。

 細かく震えるツクシの手を見て、「やっぱりかなり酔っているみたいだな」そう思い直した若大将が、

「はい、二万円、お預かりします。釣りです、お確かめください。またウチに来てくださいよ、九条先生!」

 相手を励ますような、張りのある声でいった。

「来月の月謝が入ったら、また来よう、かな――まあ、酒も肴も昔と変わらずに旨かったよ。若大将、ごちそうさん――」

 魔刀を片手に挨拶をしたツクシが引き戸をガラリと開けると――。


 §


 酒で作った上機嫌が一瞬で消えた。

「――おいおい、ふざけやがってッ!」

 ツクシの咆哮である。

「あのときと――カントレイア世界へ転移したときと同じかよ?」

 ツクシは視線を後ろへ送って呆れ顔になった。そこのあった筈の、鳥源の暖簾がかかった引き戸が消えていた。

「しかも、今回の転移は街中ですらねェ。どこを見ても完全に荒野だ。地平線の向こうまで綺麗さっぱり何もねェぞ――」

 周辺を見回して益々呆れ顔になったツクシである。ツクシが移転したのは広大な荒野だった。雲が細くたなびく空は茫漠と晴れ上がり、大地に水気はなくひび割れて、ただひたすら殺風景だ。そこで生きているのは、点々と生えている背丈が低い草ていどのものである。あと、目立つものといえば馬のものらしき白い頭蓋骨がひとつ落ちていた。陽は西の空へ傾いている。夕暮れどきの前の時間帯。乾いた強い風が一陣吹くと、ツクシの目の前を回転草が二つ転がっていった。

「――老体には過酷な環境だぜ。どうやらこれは俺に死ねってことか――いや、待てよ。俺はやきとり屋の軒先でぶっ倒れて、そのまま死んだのかも知れないぞ。年齢も年齢だし、昼から大酒を呷った挙句、頭の血管が何本か切れて、そのままバタンキュウってな。よく聞く話だぜ。だからまあ、俺が死んだとしても、それは不思議じゃあねえ。そうすると、ここは天国――どう見ても、そうじゃねェよな――じゃあ、地獄なのか?」

 ぶつくさいいながら、ツクシは周囲を見回したが、やはり周辺にはひと影どころか、生き物がいる気配すらない。

 ここは天国でも地獄でもないようで――。

 憮然と荒野に佇むツクシへ、

「ツクシッ!」

 棘々した女の子の声がかかった。

「あぁん?」

 ツクシが声の出た先へ目を向けると、何もないところから、ニョッキと出てきた真っ黒な告死鎌デス・サイズが前方の空間をザックリ縦に割った。実に不可解である。ツクシは顔を歪めて苛々し始めた。

「――久しぶり」

 無愛想な挨拶と一緒に、斬り裂いた次元の隙間から、ひょいと半身を見せたのは、黒衣に黒い長髪の、人形のような美貌の少女だった。

「――お、お前は、アヤカ嬢ちゃん。生きてたのか。本当に久しいな、何十年振りだ?」

 ツクシは目を見開いた。唐突にツクシの前へ出現した告死鎌つきの上半身は、ゴルゴダ酒場宿にいたあの邪神アヤカだ。

 無言のアヤカは棘のある笑みで返答した。

「ところで、おい、アヤカ嬢ちゃん。これは、どういう状況なんだ?」

 ツクシは眉根を寄せて見せた。

「ツクシ、今の私は――いえ、元々、私は無限平行世界の管理者の一人。簡単にいうと、私は下々の虫けらどもを永遠に睥睨へいげいするのがお仕事の神様なの。カントレイア世界にいた頃は記憶が曖昧で自分が何者なのか正確に思いだせなかったのだけど――」

 おもむろに自分の経歴を語りだしたアヤカは、突然、ふっと視線を横へ向けて眉を寄せると、右の拳を顎の先にそっと置き、

「――いえ、それは今、どうでもいいわよね?」

「ああ、いや、待て待て、アヤカ嬢ちゃん。それはどうでもよくねェだろ。俺にもわかるように状況をちゃんと説明――」

 大いに顔を引きつらせたツクシの発言を、

「ツクシ、説明している時間はないから。この世界に因果の円環が発生して、近い場所にある並行世界の均衡が、まとめて失わ――」

 刺々しく遮ったアヤカの声を、

「ツクシさん、ツクシさんッ!」

「おぅい、ツクシよおッ!」

 最終的には男二人の大声が止めた。

 ツクシの耳に懐かしい声――。

「――その声は悠里とアルさんかッ!」

 ツクシは叫んだ。

「ちょっと、貴方たち私を押さないで!」

 アヤカが「キイッ!」と表情を厳しくして背後へ目を向けた。ツクシから見ると上半身だけ見えるアヤカの背後は荒野の背景だ。どうも、この世界とは別の世界にいる悠里とアルバトロスが顔を出そうと、アヤカの背をぐいぐい押しているようだった。

「――ツクシ、いいから、黙って聞いて。下層世界で、永劫熱思念体アストラル・イオンの私が自身の存在を保つためには必ず憑り代が必要なの。あのバカ――転生者・葉山黒人、いえ、これだとわからないわね、何だっけ――えっと、あっ、そうそう、魔帝エンネアデスの転生石で封じられた私の力が完全に回復すれば、世界を修復するのに貴方を頼る必要もないのだけど、それにはまだ時間がかかるから――えっと、二八五億九六〇〇万年くらい? これは、あのポンコツ演算機が――世界記録媒体アカシック・レコードが提示した大雑把な未来演算結果で――」

 窮屈そうに顔をしかめながら、アヤカが説明している最中に、

「ツクシさぁあぁあんッ! そうです、僕ですよ、八多羅悠里やたらゆうりですう!」

「おぅい、俺はアルバトロスだ、間違いなくアルバトロス! 元気にしてたかあ、ツクシ!」

 アヤカの背面から悠里とアルバロスが顔だけ出した。

 かなり強引である。

「おう、悠里、アルさんも! どこかの世界で元気にやってたんだな。お前らが黙って消えちまったから、俺も他のみんなも随分と心配してたんだぜ!」

 ツクシが嬉しそうに怒鳴った。

「――超・う・る・さ・い!」

 咆哮したアヤカが手にもっていた告死鎌を、何度も何度も超高速で背後へ振り下ろした。一瞬、アヤカの持った巨大な告死鎌が何十にも見えるような豪快で無慈悲な斬撃だ。二人分の断末魔の声と一緒に、ビャッ、ビャッ! と次元の隙間から血が飛んだ。ツクシのいる位置からアヤカの背後は一切見えない。しかし、見えなくても何が起こったか察したツクシは表情を消した。

「ああ、もう、この二人の所為で亜空間の扉が想定より早く閉じちゃう。マジ、こいつら、うっざ――ツクシ、使って。今の私ができるのはこれくらいだから」

 悠里とアルバトロスの返り血で白い美貌の半分を赤く染め上げたアヤカが、自身の身にまとわりついていた蕃神の黒い切れ端を手の先から飛ばした。悲鳴を上げながら飛んだ黒い切れ端は、ツクシの足元付近に落ちていた馬らしき頭蓋骨にぶつかると、そこに留まって蠢きながら、長く聞くと必ずひとの精神に発狂を呼び寄せる壮絶な呪詛を紡ぎ出した。ツクシは無表情のまま両手の人差し指を自分の耳の穴に突っ込んで、外世界の呪詛に意識が侵食されるのを未然に防いだ。無表情のツクシが足元で禁断の作業を続ける蕃神の群れを眺めていると、馬の頭蓋骨にあった黒い眼窩へ、冥界の炎がポッ、ポッと二つ点る。目覚めた馬の頭蓋骨を中心に、乾いた大地を裂きつつ、何本もの炎が走った。馬の頭蓋骨がツクシの眼前にまでせり上がる。冥界の炎が作った大地の裂け目からは骨の胴体部分が現れた。

 見ているうちに、骨馬の身体を包んだ冥界の炎は、白銀に輝く馬鎧を形作り、その上へ金刺繍の入った真紅の馬服をかぶせ、薔薇の押し型細工が施された豪華な革の鞍へ変化する――。

「――ツクシ。やっぱり、また会えたわね」

 上品に装った骨馬が、しっぽをふりふり、ていねいな挨拶をした。

「あっ、ああ――レィディだな。随分と久しい――」

 ツクシのほうは懐かしいやら驚くやらでぼんやり無表情だ。

「ツクシ、また、ひとつ、貸しね」

 含み笑いを忍ばせた声でいったのはアヤカである。

「あのなあ、アヤカ嬢ちゃん。貸しっていわれてもなあ、おい――」

 ツクシはいったが、

「――もう、行っちまったのか」

 邪神のような神様のアヤカが作った次元の裂け目はもう閉じている。

「俺は年齢とし年齢としだ。この先、借りを返せるアテは、まるでねェんだぜ――」

 ツクシは視線を落として呟いた。

「ツクシ、私の背へどうぞ」

 独り残された男へ寄り添った骨馬レィディの優しい声である。

「ああ」

 ツクシが顔を上げた。

 青空に差した黄金の光には朱色が混じっていた。

 夕陽が地平線へ落ちつつある。

 ツクシはインバネス・コート・飛竜を羽織って、何度もツギをアテてボロボロになったワーク・キャップをかぶり直し、ついでに屈み込んでアーミー・ブーツの紐を縛り直したあと、刀袋から魔刀を引っ張りだした。

 そこで、ツクシが動きを止めた。

 魔刀がツクシに語りかける。



「次の剣士へ、その想いを――!」



「――そうか。俺が此処に呼ばれたのはそのためか。今度こそ刀の引き継ぎだな。そうだよなあ、俺はもう老い先短い還暦過ぎのジジイだからなあ」

 ツクシは頷いて魔刀ひときり包丁を剣帯へ吊ったあと、

「失礼するぜ、レィディ」

 と、ひと言断って、骨馬レィディの背へ跨った。

 頷き返して歩み出した骨馬レィディを、

「――ああ、少し待ってくれるか?」

 ツクシが止めた。

「あら、ツクシ、忘れ物でもしたの?」

 骨馬レィディが訊いた。

「いや、馬鹿なことをまた頼んで悪いんだがな。景気付けにアレを一丁――」

 顔を寄せたツクシが骨馬レィディの耳元で何やら囁いた。

 骨馬レィディが骸骨の笑みを見せた。

 頷いたツクシが手綱を強く引く。

 

 オ、ォ、ォ、ォ、ォ、ォ、ォ、ォ、ォ、ォ、ォ、ォ、ォ、ォ、ォ、オ、ンッ――。

 

 後ろ脚で立ったレィディが発する冥界の警報が荒野を駆け巡り、残侠の帰還を広く知らせた。

 前脚二本を地へ戻したレィディは、冥界の炎を巻いて走り出す。

 向かい風を受けて、ツクシの翼が広がった。

 先に去っていった愛しいひとびとの笑顔がツクシの胸に去来する。

 ツクシは、そのすべてに微笑みを返した。

 巨大な夕陽を背景にした馬上の男は、すぐ小さな影像シルエットになった。

 そして、その男は地平線の彼方かなたへ消えていった。

 

(おしまい)

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極・異界残侠伝、ひときり包丁。 亀の歩 @suzukisan

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