ドッペルゲンガーな夜

十森克彦

第1話

 疼くような奥歯の痛みに耐えながら、ようやく眠れたのは多分夜中も一時を過ぎた頃だったと思う。半年前から借りている一Kのマンションは、長屋で育った俺には快適なのか不快なのか、よく分からなかった。空調は窓の上に備え付けてあるエアコンのおかげで問題ない。子供の頃から豆電球をつけていないと安心して眠れないクチだったが、街灯がバルコニーの外に見えたから、電灯を全部消してしまっても結構明るい。シングルベッドとテレビとコタツくらいしか置いていない部屋はひとりで過ごすには十分に広く、色んな意味で快適そのもののはずだった。しかし、何故か閉塞感というか、圧迫感のようなものを感じる。不動産屋では一応七畳と聞いてはいたが、実家の六畳間の方が多分広い。

 食事は外で済ませて来たので、コタツの上には寝酒に飲んだウイスキーのグラスだけが置きっ放しになっていて、まだ少し、氷だけが半分溶けながら残っていた。

 一時間か二時間。トロトロと眠った後、グラスに残っていた氷が溶けて、カラン、とくぐもった音を立てた。そんな気がした。明日も仕事だ。まだ朝までは時間があるはずだから、もっと眠っておかないと。夢うつつの中でそう考えていると、違和感が気持ちのどこかを揺さぶった。

 ぼそぼそ、ぼそぼそ、と何かが聞こえる。テレビ消し忘れたかな。いや、そもそも帰ってからテレビをつけた覚えはない。何の音だろう。寝ぼけているのか。ぼんやりした意識の中でまとまりなく考えているうちに、なんとなく目が覚めてしまった。

 違和感の正体は話し声だった。ぼそぼそ、ぼそぼそ、ぼそぼそ。誰かが、話している。目を開けてみる。やはり、自分の部屋に間違いない。声のする方を見ると、キッチンとの仕切りドアの手前に、こちらを向いて正座をしている人影があった。今が恐らく真夜中である事も、自分の部屋に自分以外の誰かがいる事も、その時には何故か気にならなかった。

 俺は、ベッドの上に起き上がって、人影に向かって座った。見覚えのあるような、ないような、幼稚園児くらいの男の子が、窓の外から入ってくる街灯の灯りに照らされて、ちんまりとした姿を浮かび上がらせていた。そいつは俺を見ながら、小さな低い声で話し続けている。まだ半分寝ぼけている事もあって、はじめは断片的にしか聞き取れなかったが、耳を傾けているうちに、少しずつ意識もはっきりして、意味のある言葉として理解できるようになってきた。

「……実家のガレージで車の左ドアをこすってしまったが、あの時何故一旦停めて切り返さずに強引に行こうとしてしまったのか、と後悔しているだろう」

「そ、そんな事をいつまでも気にしている訳ないじゃないか。とっくに忘れてたよ」

 先週の日曜の事を思い出して、思わず言い返していた。実家で車を借りて出かけようとした時の事だ。左側が当たりそうだったが、待ち合わせの時間に遅れそうで少し焦っていた事もあって、構わず強引にアクセルを踏んだ。結果、左側のドアを門柱にこすってしまったのだ。もうちょっと早く起きていたら。出かけるときおふくろが余計な事を言わなかったら。そもそも親父が偏った停め方をしていなかったら。勝手な責任転嫁をしながら一人でモヤモヤしていた。おかげでその日の予定は散々だった。

 そいつは、俺の反論には答えずに続ける。

「根本から報告書のミスについて文句を言われたときに、それならお前が書いたらいい、と返してしまったが、言わなければ良かったと後悔しているだろう」

「それは売り言葉に買い言葉だ」

 言い返しながら、明らかに痛い所をつかれていると自覚していた。同期の根本と一緒に出た会議について、報告書を書いたのだが、うろ覚えのままでいい加減に書いた数字が間違っていた。ちょっと確認すれば済む事だったのに、それを怠ったまま提出してしまったため、共同責任という事で根本まで一緒に注意を受けた。

「しっかりしてくれよ。俺までお小言もらったじゃないか」

 と苦言を呈され、ついイラッとして

「それならお前が書けばよかったじゃないか」

 そんな風に、言い返してしまったのだ。根本は明らかに不快な顔になったが、デスクの上の電話が鳴ったため、会話そのものが続かず、そのままになってしまったのだ。

「そりゃ俺だって、言わずもがなの一言だったという事くらい分かっているさ。だけど、話がそれで途切れてしまったから、どうしようもないじゃないか」

 本当はその後、いくらでも話す機会があったが、つい謝りそびれ、そのまま流してしまっていたのだ。それにしても、一体誰に対して言い訳をしているんだろう。

 そいつはこちらが反論している間、うなずく事もなく、何故か口をあけたままで、無表情にじっとこちらを見ている。そして俺が黙ると、おもむろに話を続ける。

「会議の中で、お前のこれまでの進め方にあれこれとダメ出しをされて、貴重なご意見ありがとうございます、なんて返したけど、本当は言い返したかったんだろう」

 そいつが指摘してくるのは、ああすればよかった、しなければよかった、と後悔している事ばかりだ。しかも、反省するのが億劫なので、自分の気持ちの奥底に無理やりに閉じ込めてきた事ばかりだった。そうしてせっかく忘れ去ろうとしている事を、こいつは一つ一つ丁寧に掘り返しては指摘してくる。ここに至って、俺はようやく本質的な疑問にたどり着いた。

「……ていうか、お前、誰なんだよ」

 やはりそいつは、無視して続ける。

「せっかく用意した書類を会議直前に没にされて、腹を立てて黙り込んでしまったが、本当は言うべき事があっただろう」

 半年前から担当してきた、大きなプロジェクトである。40年以上前に造成された、櫓が丘ニュータウンを大幅に建て替えてリニューアルするというものだが、俺が調査してまとめた資料が重要な役割を果たすはずだった。ところが、途中から加わってきた隣の課の副主任がその流れを全く無視したような提言をして、受け入れられてしまったのだ。

 俺は資料を用意する中で、プロジェクトの進め方に重大な瑕疵がある事に気づいていた。高台にあるニュータウンそのものの地盤に問題はなかったが、そのふもとに、砂地で、液状化の恐れがある地域を見つけたのだ。当時の基準では問題にはならず、宅地造成の許可が出ていた。それをそのまま引き継いだが、このまま実行してしまえば、地震などがあれば大きな被害が出る可能性がある。

 今日の会議ではそれを指摘して、計画修正の必要を訴えるはずだった。しかし自分のやってきた事を無視して進められてしまったので、勝手にやってろ、事故が起きても俺のせいじゃない、となかば拗ねるようにして黙り込んだのである。用意した資料も没にされたのだから、後で責任を問われるのは俺ではなく、プロジェクトのリーダーたちだ。

 俺はもう、他の言葉を返さなかった。

「お前は誰なんだよ」

 言いながら、俺の中から、何かが浮き上がってくる。

「本当はこう思っているんだろう」

 という指摘が、いちいちその通りである。そして、それを聞かされる度に、少しずつ、奥歯の痛みが和らいでくるのが分かった。それはまるで、俺自身の心の底にたまったヘドロをくみ上げてくるような作業だった。そんな事ができる、こいつの、正体は。

「秋山恵美に、結果として弄んだような形になってしまった事を本当は謝りたかったんだろう」

 今度は大学時代のゼミ仲間だった女の事だ。特に気があった訳ではないが、ゼミコンパの流れでついなりゆきに身を任せてしまった。当時付き合っていた彼女もいたので二股をかける形になったが、俺としては軽い遊びのつもりだった。相手の方が本気になってきたのが分かったので、慌てて別れた。恵美はもう一度だけ会いたい、と言ってきたが、俺はその待ち合わせ場所には行かなかった。

 ……それにしても。その正体は、はっきりとした確信になった。俺はそいつを指さして、きっぱりと言った。

「お前は俺だろう」

 するとそいつは、世にも不気味な笑顔を、その幼くあどけない容姿の上に浮かべたと思うと、すっとかき消すように見えなくなった。俺はしばらくベッドの上でそのまま呆然と座っていた。


 薄気味の悪い体験だった。しかし、気分は何故かとてもすっきりしている。あの後しばらくしてひさしぶりにぐっすり眠った俺は、翌朝目覚ましが鳴る前に、すっきりと目を覚ました。抜けるような青空に、白いうろこ雲が光っている。朝をさわやかだと感じたのも、いつ以来だろうか。奥歯の疼きもモヤモヤした感じも、嘘のようになくなっていた。

 俺はそのすっきりした気分のまま出勤し、昼休みに同期の田中と社員食堂で昼食をとった。田中とは学生時代からの付き合いで、学部は違ったが大学の前にあった居酒屋で、一緒にアルバイトをしていた相棒だった。だから秋山恵美との事も含めて色んな事を知られており、そのために結構なんでも話す事ができる相手である。食べながら昨夜の事を話すと、ふむふむ、と言いながら細部にまで質問をしてきた。大方、夢でも見たんだろう、と一笑に付されるかと思ったが、意外に興味を持ったようだ。田中は大学で心理学を専攻していて、俺が何かを話すとやたら理論的に解説を加えたがる。

「お前は俺だろう、か。まるでドッペルゲンガーだな」

 それなら聞いた事がある。

「でも、それって自分と同じ顔をしてるんじゃなかったか。あいつは幼児だったし、明らかに俺とは別人だった。俺が幼稚園の頃の顔とも全く違っていたぞ」

 と言うと、田中はすまして答える。

「そう。だからドッペルゲンガー亜型、だな。それに、すっきりした、と言ったな。そいつはお前の心のモヤモヤした事を整理してくれた、という事だろう。姿形は違っていても、お前自身しか分からないはずの心の中身を分かっていて指摘してくる。いわば、お前の分身だ。ユングの言う、生きられなかった自分、という事じゃないかな」

 こいつがどこまでちゃんと勉強したのかはよく分からないが、妙に話し方に説得力がある。だから、それにだまされた女の子も少なからずいる。

「それも知ってるぞ。確かシャドウとか言うんだろう。でもそれって、自分の悪い面、ていう感じじゃなかったか」

 実は田中の影響で、聞きかじりの知識だけはある。

「その通り。社会規範の中で生きるために抑圧された自分、というのが正しいところだ。お前のはどちらかというと、良い面が現れた形になってるな。だからそこも、シャドウ亜型、だな。むしろこの場合、お前自身がシャドウっていう感じじゃないか」

 絶対いい加減だと思う。

「まあ、また見たら、是非教えてくれよ。できれば状況とか話の内容とか、詳しく書き留めておいた方がいい」

 田中は、身を乗り出すようにして言った。どちらかというと泰然とした雰囲気を自ら演出しようと常に心がけている男だ。なんとなくその喰いつき方が不自然な感じもしたが、さして気にも留めなかった。ドッペルゲンガーの亜型で、シャドウの亜型。うまく表現したものだ、とこっそり思いながら、田中を調子に乗らせるのも面白くなかったので、話すだけ無駄だった、という表情を作って食堂を後にした。

 社員食堂から戻る途中、エレベーターを待っていると、入れ替わりに根本が降りてきた。先日の事があったので気まずかったが、鉢合わせてしまったのだから避けようもない。目が合った俺は声をかけようかどうか一瞬迷ったが、すぐにすれ違ってしまい、何も言えずじまいだった。

 社内にいるとまた根本と鉢合わせをしてしまいそうだったので、無理やり営業に出かける事にした。外に出ると、会社の前に路上駐車の車が一台あり、道路側に見えている左ドア部にぶつけた跡があった。それを見て、先日実家の車をこすってしまった事をしっかり思い出してしまい、かえってむしゃくしゃした気持ちが大きくなってしまった。仕方なく歩き出すと、前の方に中学生くらいの男の子が立っていて、俺の方を見ていた。目が合った瞬間に、そいつは不気味な笑顔を見せると、かき消すように姿を消してしまった。姿かたちは全く違っているが、昨夜、俺の部屋に現れたあの子供に相違ない、という事が、何故かはっきりと分かった。

 その翌朝、出勤するなり書類を持っていくふりをして上の階にある田中のデスクに近づき、

「また出た」

 と小声で言った。田中は書類を受け取るふりをした後、トイレに立ったので俺もそれに倣った。

「今度は中学生の格好だったけど、間違いない、あいつだった。なにも言ってはいなかったが、例の不気味な笑顔を残して、白昼堂々と消えていった」

 とやや興奮気味に俺が言うと、田中は、実は自分も見たのだ、と答えた。俺よりも幾日か前に見ていて、一体何だったのか、と考えていたところへ同じような体験を俺が話したので興味をひかれたらしい。先日の食堂での喰いつき方はそのためだったようだ。そして同様に、後日、少し成長した姿でその相手が現れたらしい。

 一体何だろう。先日は勝手な推理を半ば楽しんでいたが、さすがに続けて、それも実は二人に共通するようにして現れていたとなると、単に寝ぼけていた、という話で済ませる事もできない。気味が悪い事もあり、互いに仕事が立て込んでもいたので、トイレから出た後、互いの席に戻って仕事をした。時々、それが頭をかすめる事もあったが、深くは考えずに片隅に追いやって誤魔化していた。

 忙しさもあって、互いに会いに行く事も連絡を取り合う事もしないまま一か月ほどが経った。偶然職員食堂で一緒になった田中は、ずいぶんやつれて見えた。

「よう、ずいぶんスリムになったな。ダイエットでもしてたのか」

 俺はわざと軽口をたたきながら、田中を窓際の話しやすい席に引っ張って行った。

「あんまり、眠れてないんだ」

 田中は食欲がない、とうどんだけを注文していたが、トレーの真ん中にぽつん、と置かれた器に、はしを入れて時々かき混ぜたり、うどんを何本か引っ張り上げては戻す、という感じでもてあそびながら、一向に口に運ぼうとはしない。なんだかものすごく体調が悪そうだ。

「なんだ、二日酔いか」

 と茶化してみるが、反応はない。

「あいつが現れたらどうしよう、と思うと眠れないんだ」

 ぼそりと田中が言う。できれば触れずに済ませたいとすら思っていた話題だが、やっぱり田中の様子の変化はその事に関係していそうである。

「また、出たのか」

 なんだか幽霊のような扱いだが、突然現れて、突然かき消すようにいなくなるのだから、

「出た」

 という表現も間違いではあるまい。田中は何度も、小刻みにうなずいた。

「お前は確か両親と三人暮らしだったよな。親父さんかお袋さんはあいつが入ってきた事に気づかなかったのか」

「いや、部屋に現れたのは、初回だけだ。二回目以降は町とか駅とか、社内とかだった。お前もそうだろう」

「俺の場合は部屋に出て、交差点で出た、というだけだ。お前の方は何回も出たのか」

「一回目はお前と同じで俺の部屋だった。二回目はショッピングモールだった。三回目に電車の中、それから次は会社の中。まさにこの社員食堂で、だよ。どれもお前の話と同じで、何か我慢してる事とか後悔してる事とか、一回目に指摘されたのと同じようなシチュエーションの時だよ。俺がどうするかをじっと見てやがるんだ。そして、同じように流してしまったところでふっと視界に現れる。しかも、その都度、少しずつ成長してきているんだ」

 大体は俺の体験と似ている。

「でも、成長してるってどういう事だ」

「そのままだよ。初めて出てきたのは幼稚園児くらいの姿、二回目は小学生くらい。三回目は中学生か高校生、という感じだった。そして社員食堂で見た時には、大学生くらいの姿になっていた」

 俺が二回目に見たのも、中学生くらいだった。ただ、田中の方にはもう少し小刻みに現れているようだ。

「そのうち追い越して年寄になっちまうか」

 俺はできるだけ笑いに持っていこうとしたのだが、田中はやはり応じない。

「いや。あれが自分のもう一つの姿なのだとしたら、もしかしたら……」

 田中はその先を、言葉にしようとはしなかった。その代わりにテーブルに突っ伏して、震え始めた。

「次が最後じゃないかって気がしてるんだ」

「最後ってどういう事だよ。出てこなくなるってのか」

 田中の態度から、そうではないだろうという事は想像できたが、あえてとぼけて返してみる。

「いや、その逆だ」

 俺はそれ以上、聴く気になれなくて席を立った。

 

 ドッペルゲンガーという言葉について念のためインターネットで検索すると、案の定数えきれないくらいのサイトが出てきたが、大抵のものには

「ドッペルゲンガーを見た者は近いうちに死ぬ」

 というありがたくない結論が書かれていた。しかし俺は気味が悪いとは思っているが、食欲もあるし、夜も熟睡できている。どちらかというと、あいつが現れて以降の方が、快調なくらいである。田中は余計なものを読み過ぎてノイローゼのようになっているんじゃないだろうか。

 気晴らしでもした方がいい、と思ったので、次の土曜に一緒に出掛けないか、と誘ってやった。ちょうど、母校の大学祭の案内が来ていたのである。一応軽音学部に所属していたので、卒業後も大学祭には毎年顔を出していた。緩い感じでウロウロするにはちょうどいいイベントだし、適当に酒でも飲んで帰るなら田中と一緒の方が都合もいいだろう、という目論見もあったのだ。

 田中はちょっと考えて、

「それもいいな」

 と同意し、ついて来た。

 駅で降りると、あちこちに大学祭のポスターが貼ってあり、実行委員会で作ったのであろうそろいのスタジャンを来た学生たちが、案内板を持って立っていた。十名前後くらいで並んで立っているそのうちの一人は、ピンクのアフロヘアのかつらをかぶっている。必ずこういうやつが一人か二人はいる。俺自身がそうだった。なんだか嬉しくなって、田中と顔を見合わせて、そいつを指さしながら笑った。田中も、もしかしたら久しぶりに笑ったのではないだろうか。

 やっぱり連れ出して正解だったな、と思いながら、一緒に大学までの坂道を上った。懐かしのキャンパスに着くと、校門は風船やら何やらでゴテゴテに飾り付けられ、入るなりそれぞれのサークルが屋台をずらりと並べていた。

 俺たちは一軒目の屋台でビールを買い、隣で焼き鳥を買い、という具合に結構なハイペースで飲み歩き、イベントをしているメイン会場のピロッティに着いた頃には、早くも出来上がっていた。田中にいたっては、そもそも睡眠不足のコンディションで来ているためか、すでに足元も怪しくなっており、隅の方に設置してあるベンチに腰掛けて休憩する事にした。

 イベントが行われているピロッティの方をぼんやりと見ていると、集まっている人ごみの中に、見覚えのある顔があった。秋山恵美だ。確かテニスサークルか何かに入っていたと思ったが、そこの仲間らしい数人と一緒に笑い合っていた。卒業以来会う事はなかったが、よりにもよってこんなところで鉢合わせてしまうとは。

 学生時代は長い髪を後ろで束ねていたが、今は短めにまとめていてずいぶん雰囲気が変わっている。髪型だけじゃない。どちらかと言うと幼い感じだったが、すっかり大人の女になっている。それにひきかえ、俺の方はと言えば、あの時に付き合っていた彼女とはとっくに別れていて、それ以来、ろくな恋愛をしていない。

 あの時、ちゃんと待ち合わせ場所に行って話していれば。そもそも別れ話なんかしなければ、もしかしたら今でも……。あれこれと空しいことを想像したが、今さらということすらバカバカしいほどに時間も経ち過ぎているし、こちらは負い目も感じている。今話したら、すっかり吞まれてしまうのは火を見るより明らかだった。

 気まずくて、このまま気づかずに行き過ぎてくれたらと思ったが、そんな願いも空しく、目ざとく俺を、見つけた恵美が、一緒にいた仲間たちに何か告げると一人で俺の方に近づいてきた。まずい。しかし、だからといって今更こそこそ隠れる訳にもいかない。

「お久しぶり。元気だった?」

 恵美の方から話しかけてきた。本当はずっと見ていたのだから、すぐに返事をするべきだが、情けない事に、どうしていいのか、分からなかった。それで、わざと少し酔っ払っているふりをして、眠そうな目を向けた。しかもしばらく、誰だか分からないといった怪訝な顔を作ってから、

「ああ、秋山か。全然分からなかったよ。久しぶりだな」

 と白々しい言葉を返した。恵美はきっとそんな演技を全部見透かした上で、健気な笑顔で言った。

「相変わらずだね。ゼミの同窓会には全然顔を出さないけど、皆んなには会う事あるの?」

「いやあ、卒業してからは全然連絡ないな。大学祭にも、ほんとに久しぶりに来てみたんだよ」

 嘘だった。大学祭には毎年来ている。ゼミの連中とも何度も会っている。ただ、恵美が参加するという事が分かっている時には何かと理由をつけてキャンセルしていただけだ。何故、そんな嘘をつかなければならないのか、自分でも分からなかった。

「あ、こいつ、同僚の田中。学生時代からのバイト仲間でね。心理学科にいたんだ。おい、田中、彼女、ゼミで一緒だった秋山さん」

 田中の方は俺よりもちゃんと酔っている様子で、

「ども、田中れす」

 と頭を下げ、そのまま倒れ込もうとする。いくらなんでもそこまで泥酔しているはずがない。どういうつもりかは分からないが、演技をしていることは確かだ。俺はそれに乗っかることにした。

「おい、田中。寝ちゃだめだよ。まったく仕方ないな」

 我ながら白々しい演技をしながら、

「まいったな。こいつ本格的に寝てしまったらテコでも起きないから、今のうちに連れて帰らないと。まあそういう事で、秋山、せっかくの再会だけど、またどこかで」

 あいさつもそこそこに、田中を担ぐようにしてその場を立ち去った。視界の端の方で、恵美が一人でたたずんで、小さく手を振っているのが見えた。

 本当は言いたい事があったんじゃないのか。あの時は、ごめん。たったそれだけの事を、どうしていい歳になっても言えないんだ。そんな思いとは裏腹に、足の方は一目散にその場から逃げようとしていた。

 元来た道を戻り、校門にまでたどり着いたとき、門の側にじっと立ってこちらを見ている人物がいた。周りの大学生たちと同じような恰好をしていたが、俺にははっきりわかった。あいつだ。中学生から、大学生に変わっている。俺が気づいて顔を見ていると、何度か見た、あの不気味な笑顔を返してきた。

「何だよ」

 そう言おうとすると、やはりかき消すように、いなくなった。

「あの野郎、また出やがった」

 駅に着くと俺は田中に言った。田中は、先ほどまでの酔態など跡形もなく、険しい表情になっていた。

「そうみたいだな」

「田中、お前にも見えてたのか。あれは、おれ以外にも見えるのか」

「いや、そうじゃない。お前の様子を見れば一目瞭然だ。それに、最初に指摘された事の中に、秋山恵美の事が入ってたと言ったよな。さっきピロッティでの彼女とのやりとりを聞いていると、謝るも何もという感じだった。そういう意味ではあれが現れる条件は整っていた」

 田中は明らかにおびえていた。

「どんどん、あいつが大きくなってきていて、近づいてくる。シャドウとは逆だ、と言ったな。シャドウは生きられなかった自分だが、あいつは生きるべきだった自分、とでもいうものだ。もし、それが実体を持とうとしているとしたら、いつか、俺自身があいつに取って代わられてしまうんじゃないだろうか。そんな風に思えて仕方がないんだ」

 先日、社員食堂で言いあぐねていたのはそういう事か。馬鹿馬鹿しい。いくら何でも、考え過ぎだろう。

「そんなバカな。疲れてるんだ、きっと。今日はもう帰ろう」 

 そう言って、飲みに行くのはとりやめにして、そのまま解散した。

 次の朝、俺はなんとなく胸騒ぎを覚えながら出勤した。そして、無理やり仕事を作って、田中のいる課に行った。田中のデスク。ちゃんと出勤してきていた。隣の女子社員と楽し気に言葉を交わしている。心配させやがって。そう思いながら、無理やりに作った仕事の案件を持って、田中のデスクに近づいた。

「おはようさん」

 声をかけて書類を渡そうとしたが、振り向いた田中を見て、俺は危うく叫び声を上げそうになった。誰だ、こいつは。田中じゃない。いや、正確に言えば俺の知っている田中じゃない。でも、確かに田中その人だ。それもはっきり分かる。やつは俺に笑いかけ、

「ああ、おはようさん」

 と答えながら、書類を受け取った。なんでもない、いつも通りの風景があった。ただ、田中だけは明らかに別人に入れ替わってしまっていた。矢も楯もたまらず、俺は逃げるようにその場から走り去った。その日一日、何をどうしていたのか、覚えていない。

 翌日は出勤するのが恐ろしかった。しかし、あいつは自宅にでも現れるのだから、さぼっても同じ事だ。思い過ごしだ、と自分に言い聞かせながら、家を出た。

 会社に着き、出勤登録をするために、カードリーダー式のタイムレコーダーに近づいて、俺は青ざめた。俺と同じくらいの年齢になり、同じ紺色のスーツを着たあいつがそこに立っていた。

 思わず俺は、自分の手元にある顔写真付きの社員証を、見た。そこには俺の顔ではなく、あいつの顔写真が印刷されている。そんな、まさか。俺は恐慌に陥った。

 束の間迷い、走って自分のデスクに向かう。没になった例のプロジェクトに関する資料を引っ張り出した。周りのやつは怪訝な顔をして見ていたが、構わなかった。資料を握って、プロジェクトのリーダーである部長のデスクに向かう。

「失礼します」

 返事も聞かずに俺は資料を突き出し、

「櫓が丘ニュータウンの件ですが、ふもとに液状化の可能性が高い地域があります。地盤調査の範囲を追加で広げて、対策を検討するべきだと思われます。これが資料です。先日の会議では不要と言われたので出さなかったんですが、このままだと地震が起こった時に大きな二次災害につながる危険があります。計画を見直すようにしてください。お願いします」

 一気にまくしたてた。何故そうしたのかは、分からない。もし入れ替わられたら、このことを知る人間はいなくなる。やり残した事があるままで消えられない。これだけは言っておかなければ。なんとなく、そう感じたのだ。とりあえず、最低限の事だけはした。

 入れ替わられたら、俺自身はどうなるんだろう。意識そのものが消えてなくなるのか、それとも亡霊のようになってしまうのか。退出し、自分のデスクに向かって歩きながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。不思議に、恐怖心はない。

 しかし、いつまで経っても意識もなくならなければ、体にも変化は起こらなかった。自分の社員証をそっと、見てみる。つい数分前に、あいつの顔があったそこには、自分の顔写真が印刷されていた。昨日までと、同じように。

 助かったのか。オフィスに戻ると、俺のデスクの方からあいつが歩いてきた。あいつはすれ違いざま、にやっと笑って、そのまま立ち去って行った。何故か、その時の笑顔だけは、これまでのような不気味なものではなく、少し寂しげな、あるいはやさしげなものに見えた。


 それからしばらく経った頃、秋山恵美から連絡が入った。大学祭では久しぶりに会えたけれども、あまりゆっくり話せなかったので、一度食事でも一緒にどう? そんな内容だった。俺は、今度は迷わずに出かけていき、ずっと言えなかった

「ごめん」

 を伝える事ができた。彼女は、少し大人になったね、と微笑んで、謝罪を受け入れてくれた。


 それ以来、おれはあいつの姿を見ていない。

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