犯罪者には田中が多い
柞刈湯葉
犯罪者には田中が多い
「田中はやめたほうがいいです」
編集のO田川氏は開口一番にそう言った。都内某所の喫茶店で「魔法少女探偵アガサちゃん」の次話ネームを見せていた時だった。
「月刊少年ボウイ」のO田川氏はもう5年も僕の漫画を担当していて、それなりの信頼関係ができている。社交辞令的な褒め言葉は省いて単刀直入に打ち合わせを進めよう、というのが暗黙の了解だ。最近はネームを見せる前からO田川氏が不満を言いそうな点が予想できてしまうので、何を言われても大したダメージはない。だが、今回は一瞬コメントの意味がわからなかった。
「は? 田中?」
「この容疑者の女性、ホラ、田中久美恵さんって書いてるですか。名前、変えたほうがいいです」
「……ああ、それですね」
「魔法少女探偵アガサちゃん」は、コミカルな女子中学生が魔法で事件を解決するミステリ漫画。今回は温泉回だ。露天風呂で宿泊客の遺体が発見され、警察は火山ガスによる事故だと判断するのだが実は毒ガスによる殺人。容疑者が4人いて「鈴木」「田中」「白川」「福井」という名前なのだが、このうち「田中」に編集ストップがかかったのだ。
「いや、前にプロットをお話したでしょう、犯人は田中じゃなくて白川ですよ。大丈夫です」
「でもこれだと、田中が犯人じゃない、って分かっちゃうじゃないですか。名前で」
「あー、そうか。逆にそういう問題があるんですね」
「変えましょう。今回のは何つながりですか?」
「ノーベル化学賞の名前なんですが、これ以外だと野依、根岸、下村……珍しいからすぐバレちゃいますよね」
「アガサちゃん」では毎回、容疑者の名前に関連性を持たせるという遊びをやっている。これが犯人探しとは別の推理を提供するので、読者の評判がいい。
「まあ、田中を被疑者から消して実質3人、ってことにするのもアリですがね。警察が福井を犯人だと決めつけて、読者には鈴木だとミスリードするけど実は白川だった……ってのが、解決編の流れですし」
O田川氏は僕が口頭で話しただけのプロットをきちんと
「でも、内容と関係ないところで情報を与えるのは、ミステリとして駄目ですよ」
「ああ〜、斉藤先生はそういうところこだわりますよね。とてもいい姿勢だと思います」
同い年だし先生はつけなくていい、と5年言い続けているが、漫画家を「先生」と呼ぶのは彼のポリシーらしい。O田川氏は話しながら iPhone で Wikipedia の「ノーベル化学賞」の項目をするするとスクロールしていく。
「吉野、でいいじゃないですか」
「女性キャラで吉野、できれば使いたくないんですよ」
「え、なんでですか?」
「学生時代の、あの、なんというか、元カノの名字でして、ひどい別れ方をしたもんですから……」
「読者はそんなこと知りませんよ。ホラホラ、進行も押してるのでサッサと決めましょう」
デリカシーのない編集者だが、商業作品への向き合い方としては彼が正しいと言わざるを得ない。というわけで、浴衣美女で被害者の元妻だが犯人でもなんでもない田中久美恵さんは、吉野久美恵さんに改姓となった。
■
「推理モノのトリックは出尽くした」と言われ続けて数十年。今はもうエキセントリックな探偵を作ったり、流行や時事ネタを取り入れて新鮮味を出すしかない。そんな空気が業界に毒ガスみたいに蔓延している。新本格に思春期を費やした僕には生きづらい時代だ。
しかし、奇抜なキャラのインパクトはすぐ薄れるし、流行モノを殺人事件に結びつけるのは社会的に極めてリスキーだ。
半年前のこと。ポロポロコミックの人気漫画「まるだし探偵!模細工くん」で、容疑者のひとりに「田中」がいるのを見て「名前からして殺人犯まるだしじゃねーか!」と叫ぶシーン。これが発売日にネットで大炎上。著者が Twitter で謝罪、出版社が雑誌を回収する騒ぎとなった。
著者の謝罪ツイートは「漫画で事件をつくる立場の私が、別の意味で事件を作ってしまいました」というもので、これがまた炎上に油を注ぐこととなったが本題とは関係ない。以後、探偵漫画や警察漫画で犯人を「田中」にすることに、すっかりナーバスになっている。
とはいえ、作中に使える姓がひとつ減ってもストーリー上の問題は何もない。僕のように人物名に遊び心を加える作家が少し困る程度だ。だからこそ逆に、わざわざ「田中」の姓を使うのは、強烈な意図を読者に感じさせることになる。
「にしても」
と僕はコーヒーを飲みながら言う。
「なんで『犯罪者は田中』ってイメージになったんでしょうね。数年前までそんな事なかったでしょ」
「5ちゃんとかでは昔から言われてましたよ。確か、令和ひと桁くらいから」
「いや、僕そっち見ないんで」
「えーと……あ、ニコニコ大百科にまとめ載ってますんで送りますね」
と言って僕の iPad にスクショを AirDrop してくる。スクショじゃなくてURLにしてくれ、と何度言っても実行しない。O田川氏は編集としては有能だが、ITには疎い。
「では、事件編のネームはこれで良いので、作画頑張ってください。解決編のネームと、ああ、あと、まだ未定ですが、そろそろ次の主人公を考えた方がいいかもしれません」
出版社宛の領収書を受け取りながら、O田川氏は僕の顔を見ずに言った。
少年漫画で主人公が途中交代することはほぼない。「次の主人公を考える」が意味することは、連載が終わるということだ。
「斉藤先生の漫画はミステリとしては大変良いので、主人公を時代に合ったものに変えれば、新たな読者層を掴んでヒットが狙えると思いますし」
「……あ、はい」
僕は力なく答えた。「ヒットが狙える」というのはなんだか妙な言い方だ。ヒットする漫画はごく僅かだが、狙えもしない漫画があったら逆に見てみたい。
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「ミステリとしては大変良い」。
それは、最初に連載企画を持ち込んでから今に至るまで、何度も言われ続けた言葉だった。
「……以上の点で、ミステリとしては大変良いんです。ただ」
会話のセオリーに従ってひとしきりネームを褒めたあと、O田川氏は申し訳無さそうに切り出した。僕の漫画なのに「悪いのは自分です」と言わんばかりの顔だった。
「ちょっと、主人公にギャップが足りないですよね」
「アガサちゃん」の企画段階で僕が構想していたのは、平凡な男子中学生の主人公だった。休み時間の教室の隅で教科書に落書きをしている陰キャのオタクで、まあ、隠すことでもないが、過去の自分がモデルだった。
「平凡な中学生が実は非凡な名探偵、なんてのはもうギャップとは言えませんよ。探偵であってはならないものを、探偵にするんですよ」
「三毛猫ホームズ、みたいなやつですか……」
「そうです。例えば、魔法少女探偵。推理モノとしてあってはならない魔法を使うんですよ」
あとで痛いほど知ったが、O田川氏が自信満々に「例えば」というときは、「自分の中ではこれで決定、他はありえない」という意味だ。例示などではない。「単行本の表紙、例えばこんな感じでどうでしょう」と彼が言った時、既にデザイナーさんとの打ち合わせも済んでいたらしい。
超常現象を使う探偵なんて山ほどあったが、当時の魔法少女パロディブームに乗ってうまいこと初速をつけ、それを維持する形で細々と続いている。ネットの評判を見ると、「頭わるそうな主人公のわりに意外とちゃんとミステリしてる」という高評価に混じって「主人公がいまいちかわいくない」「最近魔法使ってなくね?」というツッコミが入る。どちらも飽きるほど見たので、もう感情も動かない。
キャラクターの強度という点ではやはり「まるだし探偵!模細工くん」が上手いと言わざるを得ない。探偵以前に人として見せてはならない部分を押し出したキャラデザイン、「この事件、細部までくっきり見えたぜ!」の決め台詞、男子受けする模型細工メカの数々。低年齢対象ということもあってトリックは初歩的だが、主人公のキャラクターが全てをカバーしている。僕にとっては羨ましく、悔しく、尊敬に値する作品なのだ。
だからこそ、例の「田中」事件で傷がついたのは残念でならない。
■
「田中が起こした事件の一覧」
特に説明のない、そんな素っ気ないリストが5ちゃんに書かれたのが2024年。元スレでは「佐藤の事件」「鈴木の事件」「高橋の事件」「伊藤の事件」と並んでいるので、これを書いた人は「田中」に対してはなんの感情もなく、ただ暇だったのだろう。
ただ「田中の事件」はその筆頭「1976年 ロッキード事件」に加え、「2021年 日本海フェリージャック」「2023年 関西男子高同時襲撃」といった世間の耳目を引く事件が並んでいたため、この「田中」の項だけが切り取られて、コピペとして出回ることになる。そうして徐々に「犯罪者は田中が多い」というイメージの下地が形成されていく。ちなみに男子高襲撃事件は、11人の犯人のうち田中が1人いただけらしい。
その後はしばらく「田中が悪い」というスレで、容疑者が「田中」のニュースが細々と貼られ、「うちのクラスの田中が」「上司の田中課長が」と知り合いの悪口が綴られるだけだった。よくあるネットの隅の謎文化のひとつだった。
状況が変わったのは2031年の田中首相のスキャンダル。大勢のデモ隊が「田中総理は辞任しろ」「田中が悪い」というプラカードを持って国会前を練り歩き、「田中が悪い」はその年の流行語大賞となった。デモ自体は5ちゃんと無関係だが、流行語化したことで検索を通じて5ちゃんのスレが発見され、「犯罪者に田中が多い」というイメージがネットの海に、タンカー事故で流出した原油みたいにうっすらと拡散することとなった。と、大百科は説明している。
思い出してみると首相スキャンダルの頃から、事件が起きるたびに Twitter で「また田中か」「やはり #田中が悪い」「これだから田中は」「安定の田中」といったコメントが並ぶようになった。中には犯人ではなく被害者のほうが田中だったり、全く関係ない犯人の名前を「田中」に書き換えたコラ画像が出回ったりもしていた。検証ブログが現れたりしたが、そんなものを真面目に問題視する人は少なかった。
「ただの冗談」
というのがネットの大多数の言い分だった。いわゆるニセ科学的なものと違って、人名が犯罪傾向に影響するなんて誰も信じてはいない。だからこれは冗談として通る。というものだった。少し真剣に「田中が悪い」の有害性を提起する人がいると、
「権力への批判は保護されるべき」
と反論されていた。「田中が悪い」は政権批判のフレーズとして定着しているため、これを封じることは重大な言論弾圧につながる、ということだった。
そんな具合で「田中が悪い」が普及していき、気がつくと動画サイトのコメント欄では「ネタバレ:犯人は田中」という文字が並ぶのがお約束となっていた。一部では「犯人」の言い換え語として「この事件の田中は誰だよ」「高橋が田中で確定」という使われ方もしているらしいが、こちらは普及していないので本題とは関係ない。
■
「連載が終わるかもしれない」
夕飯の皿を洗いながら小声で切り出した。妻は文房具に「1ねん3くみ さいとうすばる」と書かれた名前シールを貼っていた。息子は居間のテレビでドラえもんを見ているので、こちらの会話は聞こえないはずだ。
「ふーん。お疲れ」
「……いや、結構、深刻な話なんだけど」
「え、あんたの漫画が終わるってことでしょ?」
「いや、まだ決まってないけど、可能性の話」
「あ、もうちょい早く終わってたらもっと楽だったかな。あんた締切前だと、幼稚園の送迎、頼めなかったもん」
「そのくらいチャチャッと行ったのに」
「無理無理。あんたの締切前の顔で幼稚園行ったら、絶対通報だから」
と妻は声をあげて笑った。進行がきついときは3日寝ずに描き続けることもあるが、そこまでだったとは。
同世代の男たちがそうであるように、「伝統的家族観を引きずらず妻を対等に扱いちゃんと家事をする進歩的な夫」てな感じのものに昔から憧れていた。
結婚に際して、
「僕はペンネームで仕事できるから、名字は君に合わせるよ」
と提案したのもその一環だった。だが、
「いやいやいや、そういうのいらないら」
と彼女は濡れ犬みたいに首をブンブン振った。
「結婚したのに名字変わらないと、なんで?婿養子なの?とか聞いてくる人いて面倒だし」
「でも、改名の手続き大変だろ」
「そういう役所仕事、あんたの方が絶対下手じゃん」
ぐうの音も出なかった。僕は漫画家デビュー年の確定申告で大きなミスをして「作者取材のため休載」を入れたのだ。会社員の妻に書類力で勝てるはずがない。
そういうわけで僕の「進歩的な夫になろう」計画は初手から空回りに終わり、彼女は田中さんから斉藤さんになった。その直後から妻は、
「ちょっとちょっと、〈藤〉って書くの超めんどいんだけど」
と不満を言い出した。
「試験とかで時間減るじゃん、絶対不公平」
「あんた今までずっと耐えてたの?尊敬するわー」
「こんな注意事項あんなら先言ってよ。マジ結婚詐欺だわ」
「ボールペンの裏に〈藤〉ってスタンプ付けたら絶対売れる」
こんな具合で全国の斉藤さんに対する罵倒を連発するのだが、
「え、子供できたらこれ書かせるの?虐待?」
と言い出したときはさすがに少し怒った。ひとの名前を虐待とか言うな。
実際に子供ができる頃には妻の「斉藤」ディスも落ち着いて、代わりにネットで普及してきたのが「田中が悪い」のフレーズだった。その意味で妻はうまいこと「田中」の受難を逃れたと言えるが、本人はそんなことにあまり関心はないようだった。
「でも、あんたが斉藤だったから良かったよ。齋藤だったら絶対結婚しなかったから」
名前シールを貼り終えた妻は言った。彼女の「絶対」はO田川氏の「例えば」と同様に、文字通りの意味ではありえない言葉だ。世の中にはそういう言葉がいくつか存在する。
「全国の齋藤くんは絶対それで婚期逃してる」
「犯罪者は田中みたいなこと言うのやめろ」
「でも、齋藤くんが結婚しなかったらだんだん減るから、いずれ問題なくなるよね」
「名字のダーウィニズムだ」
陽気な妻の性格が遺伝したのか、息子は学校に楽しく通っているようだった。
結婚した頃はまだ「犯罪者は田中が多い」なんて話は聞かなかったが、今となってはシールに書かれた息子の姓が「さいとう」であって「たなか」でないことを、僕は心の中で安堵していた。学校のクラスメイトがもしそんな話を真に受けていたら……と想像すると恐ろしい。
「まるだし探偵!模細工くん」の炎上も、僕は同業者として著者に同情的な見方をしているけれど、もし息子の姓が「田中」だったらずいぶん違った受け止め方をしていただろう。そして、現実にそういう子供たちが大勢いるはずなのだ。
仕事部屋に向かって「アガサちゃん」の作画をはじめる。浴衣美女の「田中」は「吉野」に書き直していく。妻の旧姓を元カノに変える作業はひどく不適切に思えたが、可能性としてあり得た「田中」姓の息子を、あるいは全国に実在する田中くんを守るためには無くてはならない作業なのだった。
■
「はい、事件編の完成原稿、たしかに受け取りました。じゃ、解決編のネームと、あと……まあ、よろしくお願いします」
とO田川氏は言葉を濁す。さしもの彼も、「次の主人公を考える」話はいささか話しづらいところがあるようだった。
「あ、そうだ斉藤先生。コワッパさんで始まった探偵モノが話題になってますけど、見ました?」
「いえ。最近ちょっと他社のまでは手が回らなくて……」
「まあ、見て下さいよ。これ結構スゴイですよ」
と言ってO田川氏は AirDrop でスクショを送ってくる。
漫画雑誌を表紙だけ送っても意味ないだろ、まったくIT音痴は困る、と思いながら画像を開く。見慣れた「週刊少年コワッパ」ロゴの下に、主人公とおぼしき青年の絵。その下にこんな文字が。
新連載巻頭カラー!
『被疑者探偵 田中』
や ら れ た。
タイトルを見た瞬間、頭に浮かんだのはその4文字だった。
探偵の名前が田中。その手があったか。
ネットによってすっかり犯罪者のイメージが据え付けられた「田中」を、探偵役にしてしまうのだ。これだ。探偵であってはならないものを探偵にする、これこそがO田川氏が求めていたギャップだ。
すぐにコンビニに向かって、少年コワッパの本誌を手に取る。気鋭の超大型新人「A1」の初連載、とある。こういう肩書は新人全員言われるのであまり意味がない。とにかく内容を読む。ひととおり読んだあとで購入し、帰りの電車でもう一度読む。
「被疑者探偵 田中」は、その姓ゆえに周囲から犯人だと疑われ、警察にも目をつけられて育つ。身を守るためにあらゆる「犯人だと思われない自衛トリック」を身につけるが、やがてそれを逆手にとって、真犯人を見つけるスキルを発揮していく。
アイデアのインパクトだけに頼らず、登場人物、とくに主人公田中の被虐者としての心理描写が実に緻密。画力も新人とは思えないほど精緻で、ミステリとしても80年代を彷彿とさせる本格派だ。
これはヒットだ。ヒットが狙える、ではない。僕の経験がそう告げていた。
悔しさを感じることすら出来ない、圧倒的な力の差がそこにあった。
■
「被疑者探偵 田中」は停滞していた少年誌ミステリに風穴を開け、「コナンの次は田中」というイメージがあっという間に定着した。今やテレビをつけても街を歩いても「田中」の文字を見ない日はない。最新巻の初版部数は130万部で、これは日本国の田中の人数に匹敵するという。
アニメ化に続いて実写映画の制作が発表され、それまで正体不明だった著者「A1」がはじめてインタビューに応じた。本名が「
―― 現在27歳ということですが。
A1 「犯罪者には田中が多い」って言われはじめたのは高校生の頃です。結構ガラ悪い高校で、財布なくなったり吸い殻出てきたりとかあったんですけど、先生とかも冗談半分で言ってましたね。「田中、お前じゃねーか」って。
―― 作中で用いられる「自衛トリック」はその時に考えたものなんですか?
A1 子供の頃からミステリ好きだったんですけど、高校くらいから「この教室で殺人事件が起きたら俺が容疑者だろう」って確信があったんで、犯人を見つける方法よりも、自分が疑われない方法ばかり考えてました。そういうのも犯人の心理を考えるヒントになってる気がします。
―― A1先生の漫画は、陰鬱な話にもどこか優しさが感じられると評判です。
A1 隣のクラスにも田中って女の子がいたんですが、なんか女子グループ内のいざこざで「田中がやったんだろ」って疑われたらしくて、結局学校来なくなっちゃったんですね。そういうのを見て、どんな殺人があっても最終的に探偵が真犯人を見つけてくれる世界ってすごく優しいよな、って思って描いてます。
―― 今回、本名の公開に踏み切ったのは。
A1 最初から出したほうがいいって伊藤さん(コワッパの担当編集)に言われたんですけど、「田中が描いた」という付加価値をつけるよりも、純粋な漫画として評価してほしかったんです。
伊藤 でももう沢山売れたし、実力は示されたんで、そろそろ公開していいんじゃないって(笑)
「週刊少年コワッパ」巻頭カラーのインタビュー記事を読みながら、僕はきわめて不適切な感情に支配されていた。
もし通常の正義感を持っているのなら、彼の世代の「田中」たちが背負わされた運命に同情すべきだったろう。妻が10年遅く生まれていれば、この「学校に来なくなった女の子」になったかもしれない、と。
だが、そのとき僕に心に湧いてきたのは、どうしようもない嫉妬心だった。
どうして僕は斉藤であって、田中じゃないんだ。
僕が田中だったら、これが描けたかもしれないのに。
人生最大のトラブルが確定申告失敗である僕には出しえない、田中だからこそ描ける重みと深みがそこにあるのだ。
なおこの後、実写映画の主演俳優が「山本」であることについて「リスペクトが足りない。アニメの声優は田中だったぞ」とネットでひと悶着あったが、これも本題とはあまり関係ない。
■
そうして数年が過ぎた。「魔法少女探偵アガサちゃん」の連載はいまも続いている。「田中」の歴史的ヒットで少年漫画ミステリが見直され、熱心なファンが「田中好きな人これも読んで!」と布教してくれたので、やや人気を持ち直したらしかった。もう長いこと魔法を使っていないが誰もツッコミを入れない。
「どうしました斉藤先生。いつにも増して覇気のない顔で」
と、打ち合わせ先のファミレスでO田川氏が言う。いつにも増してデリカシーのない編集だ。
「いや、昨日息子に言われたんですよ。お父さんも魔法少女探偵とかやってないで、田中みたいなの描きなよ、って……」
「大丈夫ですよ。少年ボウイの先生は全員お子さんにそう言われます。このまま行きましょう」
とO田川氏は胸を張る。雑誌に第一線を張れるヒット作が無いのだから、編集者が胸を張る要素はまったくないのだが。
息子の中学では、「斉藤のとーちゃん漫画家だって」「うん」「何描いてんの?エロ漫画?」「は?ちげーよ。探偵モノだし」「もしかして田中!?」「……いや(小声)」「えーなんだよ教えろよ」「どうせ知らねえから意味ねーし」という会話が幾度となく繰り広げられているという。とくに相手が女子である場合、思春期の少年の気まずさは考えるに忍びない。
ファミレスの壁には「名探偵 田中」のポスターが貼られている。対象メニューを注文すればグッズがもらえるらしい。劇場アニメ3作目のキャンペーンだそうだ。
アニメ化に際して「被疑者探偵」の肩書は消えてしまった。田中姓が犯罪者というイメージは、いまの子供にはピンと来ないらしい。原作のタイトルはそのままだが、単に主人公の個人的特徴と受け取られている。
「息子がグッズ集めてるんで、O田川さんも対象メニュー頼んでもらえますか」
「ライバルに対するプライド皆無ですね、斉藤先生」
「なんかもう、ライバル視するのも、おこがましいですし」
「全くそのとおりですね」
とO田川氏は笑う。
「で、アガサちゃんの新刊ですが、電子の売上はこんなもんです」
と、渋い曲線のグラフを AirDrop で送ってくる。打ち切りはないが、それ以外の何事も起きそうにない。そんなラインだ。このまま引退まで粘って「月刊少年ボウイ」の重鎮になってしまおうか、とそんな野望が湧いてくる。
「……で。今回の容疑者は、住吉、加治、田中、善光寺の4人なんですが、ここで田中を犯人にするってのは、アリでしょうか」
「いいですね。今の子供にとって田中といえば探偵のイメージですから、犯人にすればギャップが出るでしょう」
「コンプライアンス的に大丈夫でしょうか」
「一応編集部で確認しておきますが、まあ大丈夫でしょう。田中なんて、ごくありふれた姓ですからね」
全くそのとおりだ。なぜ僕たちはごくありふれた姓に対し、こんなにもナーバスになっていたのだろう。
「ところで、この回から『アガサちゃん』に出てくる男子ですが」
「あ、はい。少しラブコメ要素を入れろって、O田川さん言ってましたよね」
正確には「テコ入れに新キャラ入れて新展開はどうでしょう。例えば、ラブコメ要素とか」だが、これも本題とは関係ない。
「ええ。それはいいんです。ただ名前が……」
「名前?」
「弦楽部で、渡辺君はやめたほうがいいです」
そう言ってO田川氏は「渡辺は楽器が上手いというイメージが定着した経緯」を AirDrop で送ってくるのだが、これも本題とは関係ない。
(おわり)
犯罪者には田中が多い 柞刈湯葉 @yubais
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