⑧
滞在六日目、天気は曇り。雨は上がり、空には大きな雲の塊が幾つも。台風の影響だろうか、流れる雲の動きは非常に速かった。
海斗は自転車を走らせ岩場へと向かう。
いつもより強く吹く風が自転車の勢いを削ぐ。
陽子の元へ向かう、海斗のそんな気持ちを押さえつけるかのように。
いつもの道を進み、緩やかな上り坂を登りきると見える海と空は、不穏なものを感じさせる色と音で海斗を出迎える。
遊泳場に沿う道にいつものように自転車を止める。
天候のせいだろう人の姿の見えない砂浜を海斗は小走りに横切り、足元に気を付けながらも岩場を進むと、そこにはいつものように陽子の姿があった。ただ、その姿は、いつものツーピースの水着姿ではなく、海斗の初めて見るワンピース。あの太陽のような笑顔がさぞ映えるであろう、純白のワンピース姿だった。
いつもならば「陽子!」と声をかける海斗だったが、その横顔に映る表情に、近づく足も、呼びかける声も止めてしまう。
薄灰を流す空を見上げる陽子の表情は、太陽を隠すこの空の色と同じ寂寥。その純白のワンピースに映える笑顔はどこにも見えなかった。
「嵐が来るね」
いつの間に気付いたのだろうか、陽子は海斗に視線を投げると、どこか悲し気にそう呟いた。
「台風が来るらしいから……」
そう返す海斗にも分かっていた。陽子がそんな言葉を答えに求めているわけではないことを。
それでも、陽子は海斗の言葉に同意を示すと、暫く海斗の顔を見つめ、そして海斗へとその手を伸ばした。
「海斗、一緒に来て」
そう言うと、その手を取った海斗を引き歩き出した。「どこへ」とは海斗も尋ねない。それは陽子の表情が物語っていたから。
陽子の足は迷いなく進む。岩場の凹凸を苦にもせず、海斗の手を引き言葉もなくただ真っ直ぐに岩場の先へ。不安定さに足元にばかり視線を向けていた海斗がふと顔を上げると、視線の先にはぽっかりと口を開けた洞穴が見えた。そこは初めて海斗が陽子の姿を認めた岸壁の下。そこへ陽子は躊躇なく足を踏み入れる。海斗ははじめ、そこはトンネルのようなものかと思った。踏み入れた洞穴の先には数十メートル先にすぐに光が見えているためだ。照明があるわけではないが、背後の入口からこぼれる光と、視線の先の光を頼りに、陽子に手を引かれながらゆっくりとすすんでいく。やがて、洞穴の終わりと海斗が思っていた場所に辿り着くと、そこは小さなドーム状の空間が広がっていた。地面はそのドームの手前で途切れており、そこから先は水面、小さな入り江となっている。わずかに波が立っているのは正面―― 壁になっている部分に僅かな隙間があるのか、水中に穴があるためだろう。そしてドームを包む淡い光の正体は天頂部に開いた縦穴。そこからうっすらと光がドーム内に差し込んでいた。
陽子は先ほどまでとも違う、少しだけ明るさ―― 否、穏やかさを漂わせるような声色で海斗の名前を呼ぶと、海斗に背を向け、その頼りない光を見ながら言葉を紡ぎだす。
そして海斗には分かった。
「私は三年前、この町にやってきたの」
これが――
ここが自分と陽子の別れの場所なのだと。
陽子は語る。
三年前にこの町にやってきたのは、過去から逃げてきたから、家族から逃げてきたからだと。
そんな陽子の仕草、雰囲気、語る言葉こそが、海斗に閃くような確信を与え、そしてその背が、その存在が徐々に離れていくように海斗に感じさせる。
海斗はそんな陽子に、少しでも近づこうと一歩踏みだした。
たとえ確信を得ようとも陽子を離したくはない。
それは数日後に自分がこの町を去らなくてはならない海斗の身勝手だろう。
たとえこの場所で二人が別れることにならなくても、数日後には確実な別れが待っている。それは海斗にとって初めから分かっていたこと。
それでも、一歩踏みしめるごとに去来する陽子との僅かな思い出が海斗の身体を動かした。
「だからわた―― っ!」
陽子が思わず息を飲むのが海斗にははっきり分かる。当然だろう。突然後ろから抱きとめられれば誰だってそうなる。しかし、抱きとめられた陽子は海斗を受け入れ、自分の身体を抱く腕にそっと手を添え、話を遮られた事に非難の声を上げるでもなく、ただその口を静かに噤んだ。
誰もいない入り江に、二人だけの静かな時間が過ぎていく。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
想像以上に華奢なその身体を抱いていた海斗の手が静かに解かれる。
陽子はそっと身体を離すと、いつの間にか現れた水面に伸びる天使の梯を背に海斗に向き合い、その顔を優しく見つめた。それはいつもの煌めく太陽のような笑みとは違い、まるで月のように淑やかな微笑だった。
「――」
海斗の口は言葉を発することを忘れてしまった。
こんなにも心に想いが溢れると、その小さな口では想いを吐き出すのに十分な間口ではないのだろう。一生懸命絞り出そうとする陽子の名前さえもその口を衝くことはない。
代わりに別の音が静かな入り江に響く。
くぐもったジジッというファスナーの音、そしてはらりとワンピースが落ちる音。
そして海斗の目の前には裸体の――
限りなく裸体に近い、いつもの陽子の姿があった。
小柄ながらも均整のとれたプロポーション。胸と腰のあたりにのみある布地には、花には詳しくない海斗には名前の分からない可憐な花びらが流れるように描かれている。そんないつもの水着姿の陽子は、まるで倒れ込むかのように水面へと落ちると、水飛沫の向こうでまるで人魚のように器用に水中で態勢を整え、水面に顔を出して海斗を見つめた。
「おいで…… 海斗」
誘う陽子の声に海斗も服を脱ぎ捨ると、数日前までの恐れが嘘のように躊躇なく水の中へと飛び込む。
何故ならばそこには陽子がいるから。
浮かび上がればただ優しく微笑む陽子の笑顔に会えるから。
「海斗は私の鏡」
水面に顔を出した海斗に陽子は語りかける。
失った者の痛みや苦しみ、陥った絶望に多寡はない。失意に沈んだ者、道を失った者の喘ぎは誰よりもよくわかっている、と。
「だからこそ私には海斗の直向きな、一生懸命な姿が何よりも眩しく見えたの」
「海斗…… 貴方こそ私の太陽だった」
陽子は海斗の手を取る。
二人は入り江の水面、降り注ぐ光はまるでスポットライトのようだ。
その光は陽子の頬を一筋きらりと煌めかせる。
「私は行かなければならない」
些細な――
陽子にとって本当に些細な切っ掛けだけれども、自らの進むべき道を、目を反らさず再び見つめることができたのだから。
「だから……」
もう、海斗と一緒には居れない。
そんな言葉は必要なかった。
陽子を見つめる海斗の瞳が全てを語っていた。
「…… 私からのプレゼント」
一緒に来て、と海斗の手を引き陽子は水に潜った。
それは陽子の我が儘。
友とさえ呼んで差支えがあるかもしれない程の短い付き合いの海斗に、何か自分自身を残したいというささやかな我が儘。
この三年間、陽子が幾度も目にし、感動し、明日への希望の代わりにした美しい光景。そんな光景に自分を紐づけ、思い出として残りたいという小さな我が儘だった。
海斗と陽子は手をつなぎ水底へ。
水の中は意外なほど深く3m程あるだろうか、お椀のような形に抉れている。
水の中は不安を覚えるような暗さと静けさ。手から感じる温もりがなければ、その闇に飲み込まれてしまうようにも海斗には思える。しかし、今は繋いだ手に陽子の存在を感じる。何も怖いものはない。
やがて辿り着いた水底。陽子は海斗の体を抱き寄せると、水面の方を示す。
倣うように見上げた海斗が目にしたのは――
煌めく空
揺蕩う宝石
そして、包み込むような優しい光だった。
人の意識は美しさによっても奪われる。
ここが水中であること忘れ、海斗は思わずぽかんと口を開けてしまったことに気が付かなかった。
水中で口を開ければ当然零れ落ちる。それは命の如き空気。思わず慌てる海斗に、しかし陽子は海斗の頬に手を添えると深く、長く口づけをした。まるで空気を分け与えるように。そして二人はそのまま水面へ。
スポットライトの元へ戻った二人は、惜しむかのようにゆっくりと口唇を離す。じっと見つめあい、そしてどちらからともなく再びその口唇を重ねる。長く、長く。離れればもう二度と触れ合うこともできなくなると思っているかのように。
やがて二人を照らし出す光は陰り、その身体は離れてゆく。
「海斗」
「陽子……」
互いの名を呼び見つめあう。未だ繋いだままの手も、やがて離れるのだろう。
「私は――」
陽子の口が言葉を紡ぐ。
いや、紡ごうとした言葉は涙に濡れ、喉を離れようとしない。
しかし、繋いでいた手は離れる。
何度も、言葉を紡ごうとしては詰まりながら。そしてゆっくり海斗から身体を離しながら陽子は――
「私は信じてるから。アナタの未来を」
そう言っていつもの太陽のような笑顔を見せる。
ゆっくりと離れた二人の距離は、既に手の届かない距離に。
別れを惜しむ海斗に、陽子も手を伸ばしながら、しかし別れの言葉を告げた。
「さよなら」
小さく、短い別れの言葉。
陽子は海斗に背を向け水から上がると、それ以上何も言わず走り去っていく。
海斗は、そんな陽子を追いかけることもできず、ただ小さくなっていく背中を見つめることしかできなかった。
そして七日目、海斗は祖母の家を後にした。
短い。本当に短い一週間。
しかし、この家に来た時に感じていた悲しみも迷いも苦しみも、すべてが遠い過去の事のように思える。未だ自分の未来に道は見えないけれども、海斗にはそこへ足を踏み出すことへの恐れも躊躇いもない。
祖母に別れを告げ、車に乗り込み走り出した車内で、春香は海斗の心の快復を喜ぶとともに、まるで何かを知っているかのように、言葉なくただ優しく海斗を慰めるのだった。
その後、海斗の周りにはイロイロなことがあった。
人生は坂道を転がる石のように、本当に些細なことでその向かう道を変える。
結局両親は離婚することになり、姉は母に着いて家を出、海斗は父にと共に家に残った。だが、暫くすると楽しかった家族との思い出を捨てるように父は家を手放し、近くの高層マンションへ転居することになる。
海斗自身は居場所の無くなった学校を自主退学しバイト漬けの毎日。その一方で大検を受けるために猛勉強を始めた。忙しい日々の合間を縫って地域の草サッカーチームに参加し、かつてとは違うサッカーの楽しさを見出したりもした。
昔に比べて海斗の交友関係は広くなり、楽しくも忙しい毎日を過ごす中で、あの夏を思い出すことは少しずつ減っていったが、それでも、ふと空を見上げた時、何かで水面を見た時、陽子の顔が、そして一緒に見たあの水面の太陽が海斗の心を占める。一抹の寂寥感を漂わせるそんな海斗のキャラクターは、実は何人かの女友達から好評えを得ていたことは本人の知る由のない事。
翌年、海斗は祖母の家へと短い旅行に出かける。
目的地はあの入り江り。
勿論そこに陽子の姿はなかった。
ただ会いたいと願い、足を運べば会うことのできたあの数日間。海斗はそれがどれほど幸せだったことなのかを改めて実感した。
頬を一筋の涙が伝う。
それは、あの時陽子を引き留めることができなかった自分への後悔ではなく、懐かしく愛すべきそんな過去への手向け。
そして正午を回る頃、天頂から光が差し込む。
入り江の水面に降りる天使の梯。
(あの光の先に行けば陽子を見つけられるのだろうか……?)
感傷にそんな事を思う海斗の心に浮かんだのは「宇宙」という二文字。
「フフッ……」
途方もない。
海斗は思わず苦笑してしまう。
天使の梯が消えるまで、海斗は水面を見つめ続ける。
海斗は、あの日のように水の中へ潜り、水中から水面を見上げようとは思わなかった。それは、一人で潜ることが陽子との別れになるのではないか、という感傷ではなく、陽子の残してくれたものに背中を押してもらうほど、自分はまだ歩み始めてはいない、という拘り。
やがて太陽が傾き、光の梯が消えるのを見届けると、海斗はぽつりと一言、水面に言葉を投げかけ入り江を後にした。
いつかのように淡い期待を込めて。
「陽子、また、ここに来るよ」
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