⑦
波間から見上げる空は陸で見るよりも遥かに高く、遠く見える水平線もまるでどこまでも無限に広がっているような広大さを感じる。
滞在四日目、海斗は今日も陽子の元に来ていた。
昨日と同じような笑顔で迎えてくれる陽子に、海斗は居心地の良さというか、安心感のようなものを感じる。
波間からひらひらと手招きをする陽子に応え、海斗は服を脱ぎ捨て岩場の端から海へ躊躇いもなく飛び込む。昨日感じていた海への恐怖感も、溺れたことも、足が動かない心配も海斗の頭には既になかった。
そして身体は水の中へ。
自分が水に飛び込んだ音、かき乱す泡の音、全てが籠り随分と遠くに聞こえる。
しかし海斗は慌てない。
不要な力を抜きながら手足を動かせば身体はゆっくりと、しかし確実に海面へと浮かび上がるのだから。
「やぁ、海斗」
波の上には陽子の気安い笑顔。
出会ってまだ三日目、友人という意味ではまだ昨日の今日の時間にしては短い付き合いの二人だが、隔てる壁は既になかった。
同じように気安い挨拶で返す海斗に、陽子は「もう大丈夫そうだ」とその泳ぎを評し、自分の事のように嬉しそうに笑い、そして――
「あそこの岩まで競争ね」
言うが早いか、陽子は水に潜りあっという間に海斗の傍から離れていった。
陽子が指さしたのは海面から突き出した、付近にある一番大きな岩。昨日、海斗が陽子の姿を見つけた岩と同じものだろう。
目的地を確認している間に、陽子はずいぶん先に進んでいた。海斗からすれば信じられない速さだ。ただ、何となく置いて行かれるのも癪な感じがし、海斗もその背を追うように泳ぎだした。
大岩に辿り着き、三メートルほどもある高さの頂上に凹凸を利用してよじ登った海斗は、既にちょこんと座っていた陽子の隣に腰を下ろす。
泳ぎ出しからこの岩までおよそ三百メートル程度、そこから三メートルの高さの岩によじ登ったにしては陽子の息はまるで切れていなかった。つまりは息を整えることができる程に海斗よりも速くたどり着いたということ。その速さに海斗は素直な感心を抱く。
「海って、泳ぎにくいんだね」
そう、海斗の知る水の中―― プールとは違い波の向き、海面の揺らぎ、水の重さ等々海は様々な要素で海斗の動きを妨げ、イメージ通りの泳ぎをさせてくれなかった。そんな中での陽子の速さである。それは海斗にとって素直に尊敬を抱かせるだけの驚きを与えた。
「小刻みに、こうババババッって蹴った方が速く進むんだよ」
抽象的な表現で簡単に言ってのける陽子自身だが、イメージ通りに身体を動かすことの難しさはスポーツに青春を捧げていた海斗が一番良く分かっている。あの人魚のような美しい泳ぎこそ即ち、陽子がどれだけこの海で泳いでいたかを海斗に教えてくれている。
「もっと泳ぎ方を教えてよ」
思わず口にしていたその言葉は、これまでの海斗の生き方。試行錯誤と練習、特訓。目標を定め、それに真っ直ぐ向かい努力をすること。つまりは海斗の喜び、楽しみ、そして青春の在り方だった。
そこからはまさに特訓。
意外にスパルタだった陽子は、まるで羊を追う牧羊犬か、獲物を狙う狼かのように海斗を追い立てた。そして海斗が疲れた頃を見計らっては効率的な泳ぎ方を、ジェスチャーを交えながら教えるのだ。休憩を挟みながらそんなことを何度も繰り返す。
「そう、そこで海斗ッ! ガーっと、ガーっとだよ!」
「そうそれ、それだよ。いいよいいよ!」
「あーーッ、いけいけ、海斗っ!」
正直、陽子の抽象的な説明は海斗にはイマイチ良く分からなかったが、それでも海斗は楽しかった。何度も何度も泳いだ。身体に力が入らなくなるまで、身体が悲鳴を上げるまで、自分の限界まで力を尽くした。それは海斗の、あの青春の日々をなぞるかのように。
やがて空気が、空の色が変わる。
「もう、今日も終わりだね」
どちらともなく呟いたそんな言葉に、二人は海から上がり長椅子のような形の岩の上へと腰を下ろす。見上げた空は青色を失い、薄暮の空には光る星が僅かにその姿をのぞかせていた。
「海斗」
右側に座る陽子が海斗の名前を呼ぶ。
もう少し傍に寄れ、ということなのだろうかすぐ真横なのに手招きをしている陽子の指先が下を向く。
「?」
意味が理解できず少し首を傾げた海斗に、陽子は自分の腿のあたりをぺしぺしと叩いてせみた。
「ほら、今日一日頑張った海斗君へのご褒美の膝枕だ。おいでおいで」
いったいどういう風の吹き回しか。
いきなり膝枕をするなどと言い出した陽子に、どう反応すればいいのか対応に困る海斗が固まっていると、陽子は不敵な笑みを浮かべる。
「陽子さんの膝枕なんて激レア、ウルトラレアだぜぃ」
あー、これは昨日と同じように、ピンクだったり甘酸っぱかったりするイベントじゃないな。と海斗は思うと同時に、陽子は折れたりすることもないのだろう、と
呆れたような諦めを抱く。
「ほれほれ」
それでも僅かな抵抗感を感じながら寝転がり、陽子の膝に頭を乗せる海斗。
肉親以外にしてもらう初めての膝枕は、柔らかいだの何だのの感想よりも、何故かしかめっ面の陽子の顔が気になった。
「なんか想像していたのと違う」
海斗が尋ねると、昨日漫画で見たからやってみたくなったからだと言うのだが、「海斗の頭が冷たい」だの「雰囲気が何か
「俺、陽子に出会えて本当に良かった」
そっと手を伸ばし頬に触れると、むくれた陽子の表情は少し和らいだ。その引き込まれるような瞳を見つめながら、海斗は優しく陽子に語り掛ける。
「キミのお母さんが望んだとおり、本当にキミは太陽のようだよ」
これまで自分の進むべき道がハッキリと見えていた海斗にとって、怪我での挫折による未来の喪失は、暗闇の荒野に放り出されたと同様の不安と恐怖だった。
しかし、海斗が過ごした陽子との二日間。
溺れたことによる海への恐怖を拭ったのは、隣に陽子がいて、手を引き、背を押し、道を示してくれたから。そして海斗に、これまで積み重ねてきた全てが崩れ去ったわけでも消え去ったわけでもないということを気付かせてくれた。人は一人で生きてるんじゃないと、誰かに助けられて生きてるんだと気付かせてくれた。
だからこそ海斗は陽子に伝えたかった。
「ありがとう」
感謝だけでは足りない、感謝の気持ちを。
「キミに会えて、キミがいてくれて…… 本当にありがとう」
頬に触れる海斗の手に、陽子はそっと手を添えた。
「なんだか、愛の告白みたいだね」
そう言って陽子は優しく微笑み、もう少しこのままでいて欲しいと海斗に告げると、頬に添えられた手からその手を離し、乾きそうになっている海斗の髪をそっと撫でる。
「私こそ…… ううん、違うね。私も海斗に会えて本当に良かった」
そう言いながら、陽子は何か言葉を探しているようだった。
少し逡巡し、髪を撫でる手を止め、真っ直ぐ海斗を見つめる。
陽子にとって元々は単なる興味本位だった。
わざわざ名前も知らない自分を探して礼を言いに来る、その誠実な人柄にちょっと背中を押してみたくなっただけなのかもしれない。
だけど、少し一緒に過ごしただけでも分かる海斗の
切っ掛けは無理やりだったかもしれない。だけど、海に対して恐怖心をのぞかせていた海斗は、陽子の手を取り踏み出し、順応し、乗り越えていった。人は、誰かと手を取り合い、直向きに頑張ることで先に進んでいける。それをその背中で見せてくれた。
いつまでも一緒にいることはできないだろう。けれど、だからこそ陽子は願った。
「また…… ここに来てくれる?」
「…… うん。また、来るよ」
そんな陽子の言葉に、海斗は小さく、しかしハッキリと答えた。
海と空の狭間に消えていくその光を、二人はただ静かに見送る。優しく包み込むような潮騒の音と共に。
『―― は今日は一日大荒れの予報となっています。また南海上で発生しました台風15号は今後北上し、早ければ明後日――』
滞在五日目は朝からバケツをひっくり返したような大雨だった。
テレビには傘にいくつもの斜線が入ったマークが並んでおり、海斗の想いとは裏腹に、この日の予定を根本から崩していた。
「海…… 行けないよな」
流石にこんな天気では泳げはしない。陽子に会いに行く口実を無くした海斗は激しく落胆していた。
ふと、数日ぶりにスマホの存在に気が付く。「電話を――」とも思ったが、陽子とそんなデジタルな話をした記憶もない。たった二日―― いや三日か。行けば会えると不思議な確信をもっていた海斗は、わずか三日前に出会った陽子と離れる事など考えてもいなかった。
よくよく考えれば海斗は陽子のことを何も知らないのだ。
年齢も、好きな食べ物も、家族の事も。ただ陽子と泳いで入れれば幸せだった海斗は何も知らなかった。
(自分の事ばかり話す男は嫌われる、って誰かに聞いたことあるけど)
そんなことを思いながら、海斗は壁に掛かった、この地域の自治会のものであろう簡素なカレンダーを見る。
(…… あと三日)
母の設けた期限までは今日を含めて残り三日。
大切な家族の話。
海斗は家に帰らなくてはならない。
(連絡先…… 聞いておかないと)
結局雨はずっと降り続き、やることの特にない海斗は、どことなく陰鬱な気分で長い一日を過ごすこととなった。
『―― 内戦が続くジルディゴ。暗殺された国王の―― 』
天気に続いて物騒なニュースをたれ流すテレビの向こう側では、雨が何かを訴えかけるように窓ガラスを叩き続けていた。
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